薫はすでに度胸を決めていた。

 ――薫! 今からでも引き返せ!

 そんな声に、別の心の中の声が言い返す。

 ――何も色好みではない。ただのひと言だけでも、姫の言葉が聞ければそれでよいのだ。ただ、それだけだ。

 ――聞いて、どうする。

 それでも、もはや抗うことのできない何かの力に押されて、薫は行動していた。その時、御簾の近くまで寄って来る衣擦れの音があった。そして御簾の下から、ゆっくりとためらわれるように円座が出された。

 薫は思い切って、中に声をかけた。

「御簾の前ではばつが悪うございますよ。これではまるで、女通いの好きものではありませんか。宮様のもとへ、深い志で山道はるけくも訪ねて参ったのです」

「それが、女房たちはこのようなことに不慣れでございまして、物知り顔にお応えするのもかえって……」

 薫は驚いた。

 どうせ女房だろうと思って語りかけたのだが、戻ってきた言葉は何とあの姫の声に間違いはなかった。姉の方らしい。消え入りそうなその声に、薫は慌てて体の向きを変えて座り直した。

「お父上は、私の志をご存じですよ。私を世間一般の男のようにお思いになられては、はなはだ心外です。あのお父上とご一緒にこの清々すがすがしき里にてお暮らしのあなただから、私の心はお分かりでしょう。恋を求める好き男とお思い下さいますな。私はつとめてそのようなことをはねのけてきたのです。ですからあなたともそのような仲ではなく、互いの心の慰めにお話もできるような、男とか女とかを超えた親密な仲になれたらうれしう存じます」

 もはや頭は、何も考えていなかった。考えてもいないのに、どんどん口が勝手に動いて言葉を発する。物の怪にでもやられているのではないかとも思うが、もうどうすることもできない。

 返事はなかった。そのうち、奥から声がした。老人のしわがれ声だ。

「まあまあ、若い人たちは。薫の君様を簀子にだなんて。宮様の大切なお客様なのですよ。さ、姫様も、どうぞ奥に」

 姫が奥に入ったと思われる気配のあとで、ようやく御簾が上げられた。声の主は老婆だった。髪はすべて白い。最年長の女房のようだ。だが、田舎めいた振る舞いの若い女房たちより、かえって洗練された都ぶりが感じられた。

「さ。どうぞ、どうぞ」

 薫はようやく中に入れてもらえたことになったが、もはや姫はおらず、年配の女房と二人きりであった。

「姫様方も戸惑いなさって、本心を申し上げることもできませなんだことと思います」

 姫との会話が断ち切られたのは残念だが、何かばつの悪い状況になっていたので、この物慣れた老人には薫はかえってほっとした。だが同時に、老女房はその体を半分几帳の向こうにして顔だけが薫をのぞいていたのだが、その老女房がいやにじろじろと自分を見ていることに薫は気がついた。

 それは気持ちが悪くないといえば嘘になったが、それだけではなく老婆はしめやかに泣きだした。

 薫が呆気にとられていると、老婆は袖で目頭を押さえながらうつむきがちに話し始めた。

「お許しください。差し出がましゅうは存じますが、昔の話を何とかあなた様にお伝えしたいと祈っておりましたところ、今日この巡り合わせが……。申し訳ありません。涙の方が先に出てしまいまして」

「え?」

 老女房はまだ、声を殺して泣いている。薫は全身をその方へと向けた。

「私をご存じなのですか? 昔……と、言われましたが」

 しばらくは、老婆は何も答えなかった。それから、ようやく鼻をすすりながら顔を上げた。

「もうこんな機会も、二度とないことでしょう。老い先短い身ですから。こんなおうながいたとでも覚えておいてくださいませ。もう、昔なじみの人は、ほとんどこの世におりませんので」

 これだけだと、ただの老人の繰り言だ。だが、この老女房の場合はそれだけではなく、何かもっと深いいきさつがありそうなので、薫は息をのんで黙って聞いていた。

「ここの宮様にお仕えするようになってからもう五、六年になりましょうか。それ以前はしばらく都を離れておりましたが、かれこれ三十年程前には今の藤大納言様のすぐ上の兄君様にお仕えしていました」

「ちょっと待ってください。藤大納言様の兄君?」

 おかしい……と、薫は思った。今の藤大納言といえば今年権大納言になった人ということになるが、それは東三条摂政の長男である。兄がいるはずがない。

「藤大納言様とは、摂政殿下の御嫡男ですな」

「いえ。今の右大臣様の弟君です。私がお仕えしていた方も、やはり今の右大臣様の弟君ということになります」

 話がややこしくなってきた。故九条前右大臣の九男である今の後一条右大臣の弟といえば、新権中納言しかいない。

 そこで薫は、はっと気がついた。ここは山里ゆえ、老女房は今年の新しい宮中の人事をまだ知らないのではないか……。すると老女房がしきりに右大臣といっているのは今の後一条右大臣ではなく、前右大臣である東三条摂政のことで、老女房が言うその弟の藤大納言こそが今の後一条右大臣のことではないだろうか。そうなると、九条前右大臣の九男である後一条右大臣の一つ上の兄といえば八男……薫の微かな記憶が呼び戻された。

「そのお方とは、多武峰で阿舎利となられた……?」

 いつか東三条邸に向かう車に同乗した折に、今の藤大納言が言っていた彼らの叔父だ。それなら確かに摂政の弟で、今の右大臣のすぐ上の兄である。

 自分が父より譲り受けた笛が、実はその多武峰の阿舎利のものだったとあの車の中で聞いた。

「若くして少将の地位を捨て、山に入られたという……?」

「そうです、そうです。そのお方です!」

 急に言葉に力が入って、老女房は几帳から少しだけいざり出た。

「あの事件が、まるで昨日のことのように思われますが、あなた様がこのように御成人なされているのですから、それだけ年月がたったのですねえ。まるで、夢のようでございます」

 老婆が言っているのは、何のことだかよく分からない。

「実はその多武峰の少将殿の乳母めのとは、この弁の母でございまして、つまり私は少将殿の乳母子めのとごなのでございます。ですから山に入られるときもわざわざ訪ねてくださり、その御真意をすべてお打ち明け下さいました」

 その時、薫の中で何かがはじけた。あの雲林院の講の時の傀儡師くぐつの女――紫野の式部が語っていた物語の「柏木」の巻の衛門督のことを思い出したのである。少将と衛門督では官職が違うが、どこか重なるところがある。

「も、もしやその少将殿というのは……」

 ついに薫は、身を乗り出した。だが、老女房は静かに首を横に振った。

「その少将殿のことで、あなた様に申し上げなければならないことがあるのは確かです。でも、今日はご勘弁ください。また、いずれ日をあらためまして」

「なぜです? 今日しか機会はないと、そう言われたではありませんか」

 ついつい薫は激しい口調となって、老女房に詰め寄っていた。

「いえ、お話するにはお時間が必要です。ゆっくりと時間をかけてお話しなければなりません。若い女房たちが、私をでしゃばりと言っているでしょうし」

 そのあとの老女房の口は、貝の殻であった。だが薫は、まるで巫女かんなぎの託宣を聞いたような気持ちであった。多武峰の少将であった阿舎利とは……まさか……。

 その時、ほかの女房たちが部屋の様子をうかがっては何やらひそひそ言い合っていることに薫は気がついた。老女房の言うとおり、これ以上ここで長話していると、女房たちの中でのこの老婆の立場が悪くなりそうだ。また話の内容も、ほかの女房たちに聞かれたらまずいらしい。

 そう思って薫はため息をつき、立ち上がった。庭では川音に混ざってすずめの声が響き、朝日がその庭を照らした。霧はすっかり晴れている。

「私には思い当たることはありませんが、昔の話はしみじみと感じられますので、ぜひ続きをお聞かせください」

 立ったままわざと落ち着いた様子を見せ、少しだけ自分を偽って薫は言った。本当は思い当たることがないどころか、心の中は疑念が渦巻いているのである。その瞬間、宮が参篭しているであろう寺の鐘の音が響きわたった。

 だが、帰ろうにも薫は迎えの車が来るまでは帰れない。一度は立ち上がったものの、老女房も中に入ったので、薫はそのままわずかばかりの庭の見えるあたりに座って外の景色を見ていた。

 女房がやがて、朝餉の粥を持ってきてくれた。実は薫は空腹を覚えていたので、これには助かった。その膳を下げにきた女房を、薫は呼び止めた。そして、神と筆を頼もうとした。狩衣なので、懐紙がないのだ。だが、やめた。

「あのう、何か?」

「いや、何でもありません」

 女房は首をかしげながらも、膳を下げていった。実は薫は、姫たちに歌をと思ったのであった。歌もできていた。


  片恋に 人目を多み 忍ぶれど

    宇治の橋姫 などか恋しき


 しかし、あまりにも直情的すぎる。それに、これではまるで後朝きぬぎぬの歌だ。しかも恋の歌だ。自分が姫に言った言葉と矛盾してしまう。だから、歌はやめたのであった。

 昼過ぎまでずっと、薫はその部屋で座っていた。退屈は感じなかった。考えなくてはいけないことが多すぎる。このまま、すべてが実は夢だったのだということになって、パッと目覚めることができたらいいとさえ思った。確かに、夢のような話である。だが、これは現実なのだ。

 初めてここへ来た時のように、姫たちは全くその気配を感じさせないくらいに奥に篭もっている。薫にとって生まれて初めて姿を見て、そして会話をした姫である。おそらく姫にとってもそうなのではないだろうか。

 今こうしていても、あの姉妹の容貌や声が薫の心の中に蘇える。しかし、それだけに浸りきっているわけにもいかない。それ以上に、老女房の話が重くのしかかる。自分の出生の秘密と何か関係のありそうな匂いを漂わせていた話であり、しかもあの老婆は薫の成人した姿を見て涙を流した。

 だが、その衝撃があっても、姫の面影は駆逐されない。老女房の話と姫という二つの衝撃が、薫の心の中で怒涛となって渦巻いていた。

 そして、薫の性分として故意に姫の面影を押さえつけようと、あえて老女房の話を思ったりする。もしかして、自分は恋をしたのか……まさか……凡人じゃあるまいし……人並みなことは考えぬことだ……自分は、自分が何ものか分からないのだ……許されるはずのない恋だ……いや、恋ではない……そんな心の葛藤が続いていくうちに、時間は過ぎていく。

 だが薫は、そんな自分が好きだった。恋はいらない……そう思うと、自分が哀れではあっても、なぜか心は温かかった。

 ――例えば仮に自分が相手に恋をしたとしても、相手が受け入れてくれる保証はどこにもない……。そう自分を説得しては、その分また安心したりもする。自分に恋する女など、いてはいけないのだ……いつもの心の叫びを、薫は今日も繰り返した。

 だが、いつもと違うのは、今までは漠然とそう思っていただけなのに対して、今日ははっきりと対象がおり、それを駆逐しているということだ。

 だが、その対象というのも怪しい。大君おおいぎみ中君なかのきみの姉妹のどちらが対象なのか、はっきりと定まってはいない。こんないいかげんな心を恋と称すれば、それは相手に対しても失礼になる。このことも、薫が自分の心を封じ込める口実になった。

 とにかく、またここには来なくてはならない。宮と今回話そうと思っていた話もあるし、そして何よりもあの老女房の話の続きも聞かねばならない、これでは蛇の生殺しである。

 姫に対しては匂宮のような口説き文句を言ったわけではなく、自分の本心を告げたままだから、後ろめたさは感じなくてもいいはずだ。つまり、まだ引き返せる位置にあることになる。


 その時、従者が川の方から坂を登り、庭に入ってきた。

「何をしてきたのかね? 退屈だろう」

 薫の方から、その従者に声をかけてみた。供のものは笑っていた。

「川で網代を張っているものたちをからかっておりました。人は寄ってきても、魚は寄ってきませんもので」

 その従者がもう少ししてから、都からの迎えの空車の到着を告げてきた。薫は一旦車の中に入って、そこで直衣に着替えた。狩衣を脱ぐのは簡単だったが、直衣を自分で着るのは生まれて初めてだったので悪戦苦闘し、何とか形だけは整えた。脱いだ狩衣は、最初に案内に出たこの屋敷の侍に与えた。そしてついでに、姫への伝言をも頼んだ。

「お父君の参篭が終わりましたなら、必ずお知らせください。その時はまた参りましょう」

 それが内容だった。

 薫は帰途についた。

 今から戻ると、都に着くのは夜になる。申請した假はあと二日あったが、薫はそれを返上するつもりでいた。宮の参篭が終わったら、また訪ねてこなくてはならない。その時のために、假をとっておこうと思ったのだ。

 そうなると、都に着いた翌朝から、また日常の生活が始まる。またあの左中将の狐顔の下で働かなければならないのかと思うとうんざりであったが、自分の出生の秘密と二人の宇治の橋姫との出会いのことで頭は一杯で、狐顔の上司の小言など馬耳東風で流せそうな気も薫にはしていた。

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