いつまでも嘆いてはいられない。ここで自分が毅然としなければ妻を安らかに送り出すことはできない……そう思って源氏は、日が高くなるにつれて葬儀の手はずを自ら女房や家司たちに指図した。その間だけは、嘘のように冷静になっていられる。だが、自分が冷静になっていると実感したその瞬間、反動としての悲しみがじわじわと湧きあがってくる。

 何しろ源氏にとって、初めての経験といっていい。

 最初の妻のときは、その父であった今の左大臣の小野宮家がすべてをやってくれた。母のときもなにぶん源氏自身がまだ若かったので、わけが分からないうちに終わっていたというのが実情だ。同母姉の時も、葬儀は一切嫁ぎ先の九条家が受け持った。

 しかし今は老いた身で、源氏自身で長年連れ添った最愛の妻を送り出さねばならないのだ。そんな葬儀に不慣れな源氏ではあったが、今回も長男がてきぱきと事を進めてくれた。

 元服したての次男もその生みの母の葬儀とあって、兄の指図どおりによく動いた。長男がその自分の母を知らないせいだろうか、この兄弟は母が違っても幼少の頃よりよくなじんでおり、異母兄弟としては珍しい状況であった。

 手はずは割と順調に進み、源氏の悲嘆にくれる老いた心をあまり煩わせることもなく、その日のうちに紫の上の遺体は納棺することができた。棺を囲む逆さに立てられた屏風や鈍色に染められた御簾、墨染めの几帳など、室内の調度も平常のそれとはどんどん違うものになっていく。畳の縁さえ墨染めのものとなり、その上のしとねまでも鈍色にびいろとなった。

 西ノ対の中央に棺は安置され、僧たちが無言の読経を始めた。

 源氏はわざわざ西宮邸の政所の陰陽師を呼び、葬送の日をぼくさせた。それによると、もがりの期間はほんの二日間だけとなった。源氏としてはたとえ遺体であったとしても一日も長く紫の上とともにいたかったが、それは許されるものではない。別れの時は、刻一刻と近づいてくる。

 葬送の日の夕方――いよいよ棺が運び出される時を迎えた。

「ちょっと、待ってくれ」

 棺にふたがかけられる前に、取り乱した源氏は妻の遺体に寄り、灯かりを近づけてその顔をのぞきこんだ。白い顔は、安らかな表情のままだった。

「殿。私、幸せでしたわ」

 妻のそんな無言の語りかけが聞こえてきたような気がした。ひと時ほんの少しだけ落ち着いた源氏の心であったが、今またあらためて涙がこみ上げてくる。中宮の死に嘆き惑う帝のお姿に明日はわが身と思っていたが、とうとうその時が来てしまった。

 妻の異母兄弟である九条家の人たちをはじめ、親しかった公卿も多く葬送には参列してくれていた。

 そんな中で、源氏はまだ最愛の人の亡骸に語りかけるのをやめようとはしなかった。

「君は去年の暮れに、私の五十賀のことを気遣ってくれたよね。みんなに集まってもらおうって、そう言ったよね。ほら、ご覧。みんな、集まってくれたよ。君が考えたとおりに、みんな集まってくれたよ。でも、でもなあ……、みんな……みんな……ほうの色が違うんだよ!」

 集まった人々の袍は五十賀を祝う色ではなく、当然喪服だ。

 ついにこらえきれなくなって、源氏は泣いた。だが、もはや出棺の刻限である。棺にふたが閉められる。自分の一部分と変わらないほど愛した人との間が、この棺のふたで永久に隔てられようとしているのだ。

 そんな源氏の体を、長男と次男が左右から優しく支えていた。

 月の光の中を葬送の行列は厳かに、東山の麓の鳥辺野へと向かう。源氏の車は遺体を乗せた輿のすぐ後に続き、女房たちの車も連なってその一つ一つに大勢が同乗していた。町は静まり返っている。だが、その女房たちの車のあちこちから号泣が重なり合って夜の町に響き、行列は進んでいった。最初は何事かと思った通路の民衆たちも、誰か偉い人でも死んだのだろうとそれぞれのあばら家の中でそ知らぬ顔でいた。

 斎場で源氏はもはや一人で歩くこともできず、左右を家司に支えられて進んだ。目を開けようにも、涙で何も見えない。遠い昔に最初の妻を送った時は、月が出ていたのをはっきりと覚えている。しかし今は、月の形どころか、月が出ているのかどうかさえ源氏には分からない状態だった。

 鳥辺野の広場には、すでに多くの人が集まっていた。故人の遺体や源氏の到着とともに、僧たちの声を殺した読経が始まる。やがて暗い夜の空に、一筋の煙が月の光に微かに照らされて昇っていった。

 源氏にとってもう一人の自分であった紫の上は、今や鳥辺野の煙となって空に昇っている。源氏はもはや何も考えることができずに、ただ無言で誰にも遠慮せずに思う存分涙を流していた。

 北山の桜の下での出会い――はじめて二条邸に迎えた日――妻となった日――須磨へ行く時の別れ――明石より戻った日の再会の喜び――西宮邸の女楽……同じ日々を分け合った妻を自らの手で送り出すことになろうとは、思い出の中となってしまった頃を生きていた時には思いもしないことであった。

 葬送の儀はひと晩中続き、帰りは明るくなってからであった。もはや都の中は朝の活気に満ち、民草たちにとってはいつもと変わらぬ普通の日常が始まろうとしていた。しかし源氏にとっては、同じ日常ではない。数日前にはいた人が、もはやこの世にはいないのである。そしてその遺体すら、この世のどこを探してももうない。

 車の中で民草の生活音を聞きながら、しばしの別れだと源氏は自分に言い聞かせていた。決して永訣だとは思いたいくなかった。いずれは同じはちすの上で再会できる……あるいは自分のごうが深くて往生できなんだとしても、来世で必ずまた巡り会うことができるはず……源氏はそう信じたかった。

 ただ、これからの日々において、いつもそばにいた人がいなくなるというのは紛れもない現実であった。今でも二条邸に戻って西ノ対に渡れば妻が待っていてくれる……そう思う癖が直らない。

 これを機に今までの念願であった仏道に入ろうかとも思うが、その決心もつきそうもない。このような取り乱した心ではそれがかえって執着となり、仏道修行もままならないのではないかという気がするからだ。ましてや、世間体もよくない。夫に先立たれた女が尼になるのはよくあることだが、その逆というのはあまり聞かない。さらにはしがらみもまだまだ多い……源氏はため息ばかりをついていた。


 そのまま源氏は西宮邸には戻らず、亡き人との思い出が一番多い二条邸にとどまることにした。その方がかえってつらいということは分かっていても、なぜか立ち去り難かったのである。二条邸では西ノ対のみならず、息子のいる寝殿までもが喪の調度に変えられていた。長男にとって紫の上は母ではないから本来ならその必要はないのだが、同じ邸内にいる父への気遣いであるようだった。

 源氏は二十日間の忌引のをもらい、そのほとんどを西ノ対に篭もって暮らした。

 親族の死に対する悲しみは、葬儀の最中は諸行事の采配などで気が紛らわされているが、すべての儀式が一段落したときにしみじみとわき上がってくるものである。仮に葬儀をも一種の「晴れ」とするなら、葬儀が終われば「」に、すなわちそれまでの日常に戻る。だが、特にごく近しい身内の死の場合は戻るはずの本来の日常にとてつもなく大きな穴が、かけがえのないものを失ってぽっかりと開いてしまうものである。だから、室内の墨染めの調度を見るにつけてもますます亡き人を思ってしまう源氏であった。

 本来なら妻の喪は軽服きょうふくで薄鈍色の直衣でよいのだが、源氏は自らの心情によって重服ちょうふくの濃い喪服を着ていた。つまり、前の妻の時よりも色の濃い喪服を着用していることになる。

 假の二十日間は、亡き人との思い出に浸るほかは読経三昧であった。妻は今ごろ父親の前右大臣と再会しているだろうか……幼少時を慈しんでくれた尼君……妹の中宮とも……そのようなことを考えていると、源氏は何だか自分だけが置いてけぼりを食らったような気がして、孤独感にさいなまれてしまう。そのうち秋の風は冷たくなっていき、季節も変わっていった。

 二条邸の西ノ対に仕えていた女房たちも次第に数が減り、その中には紫の上を追って尼になったものも多かった。そのようなものたちを引き止めずに出家を快く許してやることで、自らの本意を遂げられない虚しさを慰める源氏であった。


 その頃、斎宮女御も一時宮中から退出して、わざわざ二条邸の源氏のもとに弔問に来た。

 女御は今や皇女の母として御息所と呼ばれており、若かった源氏にとってとてつもない年上の人に思えていた六条御息所のこの遺児も今では四十代の貴婦人となって、その母親の年齢をとうに追い越していた。源氏を親代わりの後見人とする御息所にとって紫の上は、年齢こそ自分と変わらなくても母親のような存在であったのである。

「はじめて私がこの二条邸に参りました頃、お方さまは大変よくしてくださいました」

 一段下がった席に控える源氏に、御簾の中から承香殿の御息所は声をかけた。

「あの頃は私も幼くて、心を閉ざしたまま大納言様にもずいぶんご迷惑をおかけしました」

「いいえ。今では立派な女御様になられて、これでお母君への面目が立ちましてございます」

 源氏の言葉は、消え入りそうな弱々しさであった。

「秋も深くなりましたね」

 と、ぽつんと御息所は言った。

「そういえば、女御様は秋がお好きでしたね」

「ええ。でも、今年の秋は物悲しくて、身にしみることばかり。秋がこんなにも物悲しいなんて、今までに感じたこともありませんでした。亡くなられたお方様は、春がお好きだったとか。きっとお方様は秋のこの寂しさを厭われて、春がお好きだとおっしゃったのでしょうね」

 源氏は目を落として黙した。これ以上亡き人の思い出話をするのは、源氏にはつらすぎることであった。


 が明けて喪服のまま参内した源氏に、葬儀に参列できなかった公卿は会うたびに弔意を表してきた。表面でこそそれに謝している源氏であったが、それでかえって故人を思い出してますますつらい気持ちになる。

 だが感傷に浸っている余裕を源氏に与えないほど、休んでいた分だけ源氏には仕事がどさっとあった。

 この年は伊勢神宮遷宮の年なので、まずはその遷宮神宝使の発遺である。そして秋が深まって衣替えも過ぎると、今度は新嘗祭のことで手一杯になる。もっともこの年は中宮の喪のために残菊宴も中止となっていた。

 公務に携わっている間だけ何とか源氏は悲しみから解放されたが、それでもふと手を止めると心の中を亡き人の面影がよぎる。

 まだ宮中にいるときはいい。いちばん悲しみがつのるのは二条邸の西ノ対に戻って、そこにもはや紫の上がいないという現実を見たときである。ほんの気の利いた女房たちとともにいると、ますます面影のとりことなる。今でもまだ残っている女房ともなればさすがに亡き妻がかわいがっていた人たちばかりで、話題といえば紫の上のことばかりとなり、そんな日の夜は源氏はまだ慣れない一人寝の枕を涙で濡らしてしまうこともあった。


 源氏よりも先に悲しみに陥っていた帝の方は、だいぶ落ち着いてこられたご様子であった。ともに最愛の人を亡くしたという点では源氏と心が通じるところがあったし、母が違うとはいえ兄弟でありながらそれぞれが亡くした最愛の人同士もまた姉妹であったというのも奇遇である。

 やがて、紫の上の四十九日の法要を迎えた。これもすべて二条邸の寝殿にいる長男の左兵衛佐が取り仕切ってくれたが、源氏には西宮邸に戻った姫や次男のことが気がかりでもあった。次郎は加冠はしたもののまだ職はなく、あったとしても母の喪で服解となっていたはずだ。その次郎と姫、さらには幼い薫も加えて父のいない屋敷でひっそりと暮らしているはずだ。しかしそれでも、源氏はまだ二条邸を離れる気にはなれなかった。


(つづく)

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