秋になって東宮も左近衛府から内裏の梅壷に戻り、その頃に年号も改められるという発表があった。この年が甲子の年に当たっていることもあろうが、やはり中宮の崩御と無関係ではあるまい。

 世の中は変わっていくと、源氏は実感した。どう変わるか――それは彼にとって手探りの暗黒の将来が目の前に横たわっているという実感のみが強かった。

 妻の病状も相変わらずで、さらにその妹の中宮の思いがけない崩御は精神的にかなりの衝撃を彼女に与えたようだ。紫の上は中宮の崩御以来すっかり痩せて、一日のうちで床に伏せっている時間も長くなった。

 紫の上と中宮は姉妹とはいえ母が違うので面会したことはなく、言葉を交わしたことも皆無である。ふみのやり取りはあったようだが、そんな疎遠な異母姉妹でも肉親の情は十分に通じていたようである。


 源氏もようやく、そんな紫の上のそばにいられる時間が長く持てるようになった。帝はまだお嘆きのどん底におられ、中宮のほかにあれほどご寵愛されていた宣耀殿女御のもとへのお渡りもばったりなくなったという。それに比すれば妻は病身で衰弱しているとはいえ、そのそばにいられる自分は幸せだと源氏は思っていた。

 姫も今では西宮邸に戻らず、ずっと二条邸で母とともに寝起きしている。そしてその姫の実母である高松邸の明石の御方からも紫の上の見舞いをという申し入れがあり、源氏はすぐに許した。

 源氏が宮中から二条邸に戻ると、すでに明石の御方はやって来ていて西ノ対で紫の上と対面しているという旨を家司に告げられた。

 源氏は二人の妻が一堂に会しているはずの西ノ対へ、束帯のまま渡った。すでに明石の人は紫の上に寄り添うようにして、二人はしんみりと会話を交わしていた。姫もそのそばにいる。源氏が座ると明石の御方は紫の上のそばを離れ、源氏に礼をなそうとした。

「そのまま、そのまま。話を続けなさい。私は巣から落ちた鳥のようでばつが悪いから、いなくなることにしよう」

 あえて微笑んで源氏は立ち上がり、今は誰も使っていない東ノ対に渡って、そこで女房に命じて直衣に着替えさせた。

 ここはかつて斎宮の御息所が、六条に里邸ができる前に入って住んでいたこともある対の屋だ。そのような思い出が、一つ一つ過去のものとなっていく。そして二つの思い出が今、西ノ対に集まっている。考えてみると妙なもので、明石の妻と西ノ対の妻は互いを意識したであろうし、嫉妬にも燃えたことであろう。それが今二人は恩讐を越えて、まるで旧来の友人のように相まみえているのである。恐らく男の自分は入り込めない女同士の何かが、二人を結び付けているのかもしれない。

 そう考えているうちに、着替えが終わった。ちょうどそれと同時に、別の女房が簀子に畏まった。

「明石の御方様、お帰りでございます」

 その言葉に続いて、明石の人が現れて簀子に座った。源氏も廂まで出た。彼女は目を赤くしている。相当泣いたらしい。

「本日はこれで」

 言葉少なめに、明石の人は退出した。いったい二人の妻の間に、どんな会話が交わされたのか……気になった源氏は、足早に西ノ対へと向かった。そこにはまだ姫がいた。姫もよほど泣いたらしく、真っ赤に目をすりなしていた。紫の上だけが穏やかな表情で、上半身を起こして脇息に身を委ねていた。

「起きていていいのかい」

 源氏は座りながら聞いた。

「ええ。少し気分もよくなって、庭の前栽なども見たく思ったものですから。風も物悲しく吹いているみたいですし」

 源氏はそれを聞きながらも、姫を見た。姫はまだしくしく泣いている。それは気になったがいきなりそれを尋ねてもと思い、源氏は妻の方へ顔を戻した。

「明石の人と話して気分がよくなったのなら、あの人に感謝しなければならないな」

 にっこりと源氏は笑った。妻も顔は微笑んでいたが、

「少し気分がいいだけでそんなに喜んでくださる殿に、何だか申し訳ない……」

 と、少しだけ暗い表情を見せて、妻は目を伏せた。

「何が申し訳ないんだい? 中宮様のことでは心を痛めたと思うけど、君は中宮様の分まで……」

「いいえ。この歌をご存じですか? 『逢ふことの、限りの……』」

 中宮の最後の歌だということはすぐに分かったから、源氏はそれをさえぎってその歌への帝の返し歌を口ずさんだ。

「君のみや露けかるべき……」

 妻があの時の中宮と同じ気持ちであるというなら、今の自分の気持ちはあの時の帝の気持ちと同じだ……源氏はそう思っていた。

「お父様……、お母様……」

 その時、泣きやんだ姫がぽつんとつぶやいた。そして源氏を見た。その目にはまだ、大粒の涙が光っていた。

「お母さまは、私のお母様ですよね」

 源氏ははっとした。二人の妻の間で、姫を交えてどのような会話が交わされたかようやく分かった。姫にとって源氏の二人の妻は実母と養母であるが、姫はそのことは知らず、養母を実母だと思ってこれまで暮らしてきたのである。

 しゃべったのか……? 真実を……そんな目を、源氏は妻に向けた。妻はまだ、穏やかな顔をしていた。源氏はそれ以上、何も聞かなかった。

「姫や。殿と少しお話がありますから」

「いや。お母さまのそば、離れない。お母様だけが、私のお母様!」

 紫の上は、女房に目で合図した。女房は姫をなだめて、几帳の後ろへとつれていった。源氏は、姫に聞こえないようにと声を落とした。

「君は姫に、何をしゃべったんだい?」

「姫には何も。ただ、明石の御方には、姫をお返ししますって。でもあの方、姫の将来のことを考えたらそのままこの私の養女にしておいて下さいって、ただ私がこれまで育てたことに謝するのみで、こちらが恥ずかしくなるほどすばらしい女性ですわ。でも。賢い姫ですから、もうすべてを悟ったみたいで」

「そうか」

「姫にはもうそろそろ、本当のことを知っておいてもらったほうがいいと思いますの。そうしなければ、あの御方に申し訳がない……。姫も、行く末は定まっております。あと気がかりなのは、幼い薫……」

「今は君はそのようなこと気にしないで、自分の養生に専念しなさい」

 そうは言うものの、たしかに幼い薫がこれからどうなるかは見当もつかない。

「姫ももう一人前、でも幼い子供には母親が必要です。幸いなことに薫の実の母君は、高松邸においでです」

「紫の上、何が言いたいんだ」

「実の子をその実の母の養子にするというのもおかしな話ですけど、そうしてあげて下さい」

 たしかに、今さら薫を女三宮の実子と公表するわけにはいかない。それはあの忌まわしい事件のすべてを公表することになる。だが実子を実子だと公表せずに養子とすれば、実の母子はたとえ仮であっても世間にも母子となる――。

「君という人は……」

 この臨終も近いときにどうしてこうも頭が回るのかと、源氏は舌を巻く思いだった。

「でもね、養子にするには父親が必要だよ。夫のいない女が、養子を迎える訳にはいかないからね。それに、宮の夫が決まったとて、その人が薫を養子にすることを承諾してくれるかどうか……」

「いえ。せっかくのえにし、薫はこれからも殿のお子でいさせてあげてくださいな」

「私の子のままで三宮様の養子に?」

 妻があまりおかしなことを言うので、思わず源氏は笑いかけたが、すぐに気がついて真顔に戻った。

「まさか? 私が三宮様を? そんな……三宮様は姫と同じ年だよ。自分の娘と同じ年の娘となんて……」

「お願いします」

 そう言った後、妻は激しく咳き込んだ。

「もういい。しゃべるんじゃない。横になりなさい」

 源氏は妻を無理に寝かせた。それでも妻は、しとねの中から手を出した。美しさは衰えていないが、悲しいくらい細い腕であった。源氏はそれを、しっかりと握った。紛れもないぬくもりが、そこにあった。ぬくもりは命のある証拠であった。

 妻は生きている。今はまだ、確実に生きている。その今を、源氏は大事にしたかった。そしてそのぬくもりは、三十年以上も心を通わせてきた証しのぬくもりでもあるのだ。

「お母様!」

 紫の上の咳を聞いて、姫が几帳の向こうから飛び出してきた。そして、そのまま几帳の脇に立った。

「お父さま、お話はお済みですか?」

「ああ」

 源氏の返事に、姫は紫の上の枕もとに駆け寄って座った。

「私、お母様についています。どこにも行きませんから」

 姫の言葉にも、紫の上は苦しそうに無言でうなずくだけであった。


 その夜から、紫の上の容態は急変した。多くの加持の僧が集められて護摩が焚かれ、二条邸は騒然とした。

「前にも一度息を引き取ったあとに蘇生したこともあるから、今回もまた物の怪の仕業かもしれぬ」

 源氏は僧たちを激励し、自らも西ノ対の先の念誦堂にこもってひと晩中仏名を唱え続けた。もう妻は長くないとあきらめをつけていたにもかかわらず、いざとなるとやはり延命してほしいと妻への執着は絶ち難い。

 ひたすら称名を続けている源氏であったが、だいぶたってから渡廊を激しく駆けてくる足音にその声は途切れた。源氏の全身が固くなって、胸が高鳴る。来るべきときが来たかと、源氏は大きく息を吸った。

「申し上げます」

 家司の声だ。

「おう!」

 すべての覚悟をこめて、源氏は答えた。そのあとの家司の言上は、源氏の耳には入っていなかった。入らなくても、内容は分かっている。

 源氏は勢いよく立ち上がり、激しく扉を開けた。そして、そこに畏まっている家司には目もくれず、急いで渡廊を歩いていった。夜は白々と、朝を迎えようとしていた。

 西ノ対の方ではあれほど響き渡っていた僧たちの読経の声が、今はぴたりとやんでいる。覚悟していたこととはいえ、今は何をどうしたらいいのかといううろたえが源氏の中で先に生じてしまった。僧たちは帰り支度を始めている。今はそのようなものたちが、目に入る源氏ではなかった。

 西ノ対の身舎もやに入ると、僧たちの読経の声の変わりに女房たちの泣き声が充満していた。それにも目むくれず、源氏は几帳の中へと入った。そこでは姫が大声で泣きながら、妻の遺体にすがっている光景があった。

「お母様!」

 亡き人の手を握り、もう片方の手は亡き人の頬に当てている姫は、源氏が入ってきたことには少しだけ意識を向けただけで、ひたすら亡骸に向かって呼びかけていた。

「さ、殿。こちらへ」

 気の利いた女房が、自分も袖で目を押さえながら源氏の座を故人の枕もとにしつらえた。

「お父様……」

 やっと姫は、涙でいっぱいの目を上げた。

「お父様。ご覧になって。お母さま、きれい。眠ってらっしゃるみたい」

 源氏は何も答えられず、そっと妻の顔を見下ろした。姫が再びその母の頬をまさぐった。

「ほら、まだ柔らかいの。ほら、こんなに」

 源氏は姫の手前歯を食い縛っていたが、それでも目は熱くなっていた。

「お母様、お起きになって! もう、朝ですよ。もう十分、お休みになったでしょ」

 そして姫はまた、ぐっと涙に詰まる。女房が源氏のために、大殿油おおとなぶらを妻の顔のそばに近づけてくれた。本当に眠っているようであった。頬などには、うっすらと紅さえさしている。しかし目の前に横たわっているのはもはや妻ではなく、妻の遺体となってしまっている。

 そこへまた、足早の足音が響いてきた。それは几帳の前で止まった。

「父上!」

 長男の左兵衛佐であった。

「今、知らせをお聞きしまして」

「おお、左佐さすけか」

 源氏の声には、力がなかった。

「近くに寄れ」

 衣擦れの音がして、長男は几帳の外のすぐそばまで寄ったようだ。

「とうとう、妻は逝ってしまったよ。口癖のように出家の望みを私に訴えていたけれど、それもかなえてやれないうちに……。それだけが、心残りなんだ」

「父上……」

 長男も、何と答えていいか分からずにいるようだ。

「どうだろう。加持の僧たちは帰ってしまったようだけど、何人かは残っていないか。せめて今からでも、その本意を遂げさせて上げられれば」

「しかし、それではかえって父上のお悲しみが増すばかりでは」

 そうかも知れぬと思う。その父子のやり取りの間にも、女房たちの泣き声は先ほどまでの僧たちの読経以上に、激しく屋敷中に響きわたっていた。

「少しお静かになさってください!」

 父の心を気遣ってか、左兵衛佐はそう女房たちに言い渡したが、泣き声はほんの少し小さくなっただけであった。

「来てごらん」

 源氏に言われて、左兵衛佐は几帳の陰から紫の上の死に顔を垣間見た。

「まるで眠っているようじゃないか。でも、もはやこの世の人ではないのだよ」

 ついに源氏は、涙をこぼしてしまった。その後ろでは、故人とは血のつながりのない左兵衛佐さえも目に袖を当てていた。

「おまえとは、初の対面だな」

「はい……。あ、いえ。あの、実は、ある野分きの日に、ほんのひと時のお姿を拝したことはあるのですが、母を知らずに育った私にとってこの方が母のように思われまして」

 源氏は息子の言葉を気にもかけず、また亡き妻の顔に見入っていた。そこへ知らせを聞いて西宮邸から駆けつけた紫の上の実子である源氏の次男と、薫が二条邸の西ノ対へと到着した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る