第7章 幻

 新しい年の訪れも源氏にとってはまだ暗闇の中にいるようで、正月気分はほとんどなかった。紫の上がいない初めての正月で、制度上は喪はとうに明けて源氏は平服に戻り、室内の調度も平常のものとなってはいたが、心の中ではまだ喪服をつけている源氏であった。

 正月の種々の節会や宴会などには、役職上欠席をすることはできない源氏であったが、私的に二条邸を訪れる年賀の客は体調の不調を理由にことごとく断った。

 だが、一人だけ源氏が中に通したのが、兵部卿宮であった。先年、源氏の異母兄のそれまでの兵部卿宮が弾正宮となったので、そのあとに新たに兵部卿となったのがこの宮で、現在唯一存命している源氏の同母弟であった。故父院の十八宮で、まだ三十代の若さである。

 庭の方から歩いてきた兵部卿宮は、西ノ対の前の梅の木を見上げていた。

「つぼみも開きかけていますね。春の訪れを告げているようですよ」

「いや、私はつらいのだよ」

 相手が親王でも同母弟なので源氏は気さくな口をき、簀子に座ってうつろな目をしていた。

「春が来たって何になるのだろう。あの人が戻ってくるわけではないからね」

「悲しいことばかりおっしゃいますな。せめて兄君をお慰め申し上げようとして、参上したのですから」

 この弟の温かい心遣いだけが源氏には心のぬくもりとなったが、それ以外はいつもとはまるで違う静かな正月であった。

 女房たちは喪が明けたというのに、まだ濃い色の喪服を着ている。そして夜な夜な源氏と昔話に花を咲かせる。源氏もこの頃は何とか心も落ち着いて、冷静に故人の話もできるようになっていた。だがそれと同時に、自責の念にもかられてしまう。

 自分は本当にあの人を幸せにしたのだろうか……むしろ、つらい思いをさせたことばかりが頭の中によみがえってくる。裏切ったこともあった……朧月夜を歌っていた内侍とのことである。寂しい思いもさせた……須磨や明石での隠遁のときである。そして、もう一人の妻ができたことを打ち明けた時の、彼女の心情は……若かったのひと言で済ませてしまうのは簡単だが、何もかもが悔やまれた。

 雪が降った。

「まあ、殿。雪!」

 雪が積もった朝を迎えるたび、上げた格子から目を輝かせて庭を見ていた妻……幼い頃ばかりでなく、母親となってからもそうであった。だが今日はいくら一面に雪が積もっても、あの声は決して響いてこない。

 それでもまだ、雪を喜ぶ存在は二条邸にはいた。源氏は西宮邸から薫を呼び寄せていたのである。薫は六歳になっていた。幼子の存在が心の慰めにもなればと、西宮邸の姫が気を利かせてよこしたのだ。そしてそのまま薫は二条邸に住みつき、雪を喜んでいたその薫の声が「花が咲いた」と叫ぶ季節へとなっていった。

「ぼくの花が咲いたよ。母上が、この桜を大切になさいって言ってたんだよ。だから散らないようにするんだ。木を几帳で囲めば、散らない? ねえ、父上」

 源氏は、思わず微笑んでしまった。

「そうだね。『おおふばかりの袖もがな』なんて歌を詠んだ人なんかより、薫はずっと賢いぞ」

 そうやって薫の頭をなでているうちはまだ源氏の顔に笑みがあったが、ふと目を上げて桜を見上げた途端に源氏の動きは止まった。

 どんなに美しく桜は咲き競おうとも、そして春がたけなわになろうとも、春を愛した人はもういない。ともに花を愛でる人ももういない。源氏の胸はきゅっと苦しくなった。


 ――私、春が好き。殿と出あったのが、春だったから……


 いつしか源氏の目に映る桜が、北山の桜と重なった。薫が源氏の袖を引っ張って何か言ったが、その言葉を聞き取る余裕は源氏にはなかった。そしてその少年の声が、ある遠い記憶の中の少女の言葉となって聞こえてきた。


 ――雀の子を犬君が逃がしちゃったの!……


 また、源氏の目頭が熱くなる。

 池の水面は、春の陽射しを受けて輝いていた。かつて明石で、淡路島との間の海峡をこの二条邸の池になぞらえて見たこともあった。あの時も隣に紫の上がいないことを寂しく思ったが、今は本物の二条邸の池を目の前にしている。しかし、やはり隣に紫の上はいない。

「今年ばかりは」

 源氏は、花に向かってつぶやいた。古歌の一節である――深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け……

 幼い薫は黙って、そして源氏と同じように悲しげな顔つきになって、父の直衣の袖をつかんだまま、その父が実は父ではないことも知らずに父を見上げていた。


 その頃、帝が病の床に伏せられたが、源氏はさもありなんと思っていた。源氏にとって中宮を亡くされた帝のお気持ちは他人事ではなく、痛いほどよく分かる。むしろ自分が病気になっていないことの方が不思議であった。

 多くの人が帝にも、そして源氏にも同情といたわりを見せてくれたし、それはそれで源氏には有り難かったが、帝とはそのようなものを越えて分かり合える部分がある。そう思った、源氏は早速お見舞いにと清涼殿に参上した。

 帝は思ったよりもご容態はよく、夜御殿よんのおとどの畳の上にお座りになって源氏と面会された。

「兄君も、落ち着かれましたか」

 見舞ったつもりが、逆に慰められてしまう源氏であった。

「いろいろとまだ、思いは尽きませぬが」

「そうでありましょう。中宮が逝ってから、亡くなった人たちのことばかり思い出されましてね」

「お察し致します」

「やはり、兄君も……?」

 たしかに、源氏にとってもそうだ。母、最初の妻、三条の尼宮、六条御息所、弘徽殿大后、伴宰相、宰相修理大夫、明石の入道、朱雀院、そして前右大臣……

「数え上げたらきりがありません。親しかった人がどんどん逝ってしまい、私は一人取り残されているようで」

 ちょうど隠れん坊のように、親しい人や愛する人がどんどんいなくなる。そして今、源氏は鬼の立場になっている。

「世の無常というものを、これでもかこれでもかと見せつけられながらも、なかなか道心を起こせない私に仏罰が下って妻を失ったのかも」

「そうなりますと、仏罰はわたしにも下ったのでしょうか」

「いえ、そのような意味では……」

 源氏は失言を悔いた。だが、帝は微かにお笑いになっていたので救われた。

「残されておりますのは、兄君お一人ではありませんよ。わたしとて残されております。ここで兄君まで仏門に入られてしまったら、わたしはどうしたらいいのですか。兄君はまだまだ、朝廷になくてはならぬお方ですから」

「そうおっしゃって頂けたら、光栄ですが」

「なくてはならぬ方が、次々に亡くなられましたからね。我われの父の院、前関白太政大臣、そして前右大臣……。そんなわけでこのごろ、兄の朱雀院様のこともいろいろ思い出しておったのですが」

 帝はため息をつかれた。だが、次の言葉には力がこもっていた。

「こんなときに言うのもなんですが、朱雀院様の女三宮のことも気になっていたのです」

 弟とはいえ、やはり万機をお預かりになっておられる帝のことだ。しっかりすべきところはなさっている。お立場上、中宮の死という私事で、いつまでも落ち込んでおることはおできにならない。それにひきかえ自分はと、源氏はわが身が恥ずかしくなってしまった。

 しかし、それ以上に女三宮のこととなると、源氏にとっては苦しい話題であった。

「つつがなくお暮らしでいらっしゃいます。」

 何とか話題をそらそうとしたが、ほかの話題が見つからないうちに、帝はとうとうと話を続けられる。

「実の父にも養いの父にも先立たれた不憫な宮です。一宮はいいにしても、二宮にはついに世を捨てさせてしまいましたしね。三宮は父も母も亡き今、内親王に戻して定め通りの生涯独り身にするのも気の毒です」

 帝は、じっと源氏を見据えておられる。

「いっそ、兄君のご養女には……。無理でございますね」

 帝は目を背けられた。源氏が妻を亡くしたばかりであるのは帝もご存じだし、もう一人の妻の明石の御方の養女にするには、養母の身分が不足する。かといって帝も同じ状況で、中宮はもうなく、いずれかの女御の養女にして内親王に戻しても、今度は必ずその女御の後見の一族の門閥が絡んで面倒なことになる。

「もう裳着も済んだことですし、いつ婚儀を行ってもよいはずですから、兄君にお心当たりがあれば」

 女三宮の夫になるのは、宮本人だけでなくその過去をも背負える人でなくてはならない。つまり、薫の養父となるにふさわしく、また事情も分かってくれる人である必要がある。

「私には四宮と五宮がおりますが、四宮には兄君の姫君が入内されるお話を中宮から聞いておりますし、そのことはわたしも保証いたしますからご心配なく。そうすると五宮にということになりますが、五宮は何ぶんまだ幼い。それが一人前になるのを待っていたら、今度は女三宮がとうが立ってしまう」

 帝は何もご存じなくお話されているだけに、源氏はつらかった。自分の意志でここに参上したにもかかわらず、できればこの場から逃げ出したかった。そして帝のお言葉以上に苦しかったのは、女三宮についての亡き妻の遺言であった。――薫をその実母である女三宮の養子にする――そこまではいい。だが、さらに源氏が女三宮を娶るようにとも妻は言っていた。とうてい実現不可能な遺言だ。たとえ妻の遺言であろうとも、そのことを源氏は今は考えたくなかった。ましてや、帝に申し上げられるような内容ではない。

「いずれ、よきように考えさせて頂きます」

 それだけしか申し上げるすべもなく、源氏は帝の御前から退出した。

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