源氏にとって女三宮は心苦しい存在ではあったが、あの法華経供養の日以来半年以上も顔を見ていなかったのでさすがに気になってきた。そこで源氏はある日、久しぶりに高松邸に渡ることにした。

 高松邸で源氏は、先に女三宮のいる西ノ対に行った。法華経千部供養の日は人の出入りも多く、慌ただしい準備の中で、源氏は女三宮の顔をちらりと見ただけであった。もちろん、全く会話も交わしていない。

 だが、今あらためて対座してみて、源氏は驚いた。亡き妻にこの宮のことを言われたときは、幼い少女の印象しかなかったので何を馬鹿なことをと思ったりもした。だが、今目の前にいるのは、妙齢の麗しき姫宮である。自分の娘と同じ年とも思えない。宮が裳着を済ませており、娘はまだ童形の振り分け髪ということもあるかもしれないが、自分の娘は親から見ればいつまでも幼く感じられるものである。また、自分の娘は赤子のときから知っているということもあるかもしれない。いずれにせよ女三宮――故・前右大臣の五の君愛宮は、成人した一人前の女になっていた。

 相変わらずなのはそのおっとりとした性格で、源氏と対座しても膝の上に黒猫を抱き、その方へと意識を集中させている。折しも、猫の毛がいちばん抜ける季節だ。小袿こうちぎも未婚であることを示す濃き色(赤味がかった茶色)の袴も、黒猫の毛でいっぱいであった。

「ごきげんよう」

 そうは言ったものの、源氏は何から話題を切り出していいか分からなかった。ふと見ると、持仏には新しい花が上げられていた。ちょうどそこへ西日が射しこみ、燃えているような美しさを花は見せた。

「春が好きだった人が亡くなって、春の花の色にも興味がわかなかったけれどね、仏前の飾りだと格別だね」

 その花は実父の朱雀院にか養父の前右大臣にか、どちらに手向けられたのかは分からない。ただ、その花のことであれこれ言っても、一向に宮は猫に目を落としたままだった。

「二条邸の西ノ対の前の山吹は、珍しい花なんだよ。房が大きくてね、それがとてもおもしろく感じられる。それを植えた人はもういないのに、そんなことはお構いなしにちゃんと春が来たら花をつけるんだね」

 やっと、女三宮はゆっくりと目を上げた。

「私はこのお屋敷に閉じ込められているのですもの。春だの花だのには関心はありませんわ」

 源氏は絶句した。宮も、紫の上の逝去のことは耳にしているだろう。それなのに、ひと言の弔意の言葉があるわけでもなかった。完全に自分の殻に閉じこもり、それでいて「閉じ込められている」などと言う。

 最初の妻が死んだ時、紫の上は今の女三宮よりも年齢は下だったはずだが、あれこれと慰めてくれたものであった。明石の人のことを打ち明けた時もその存在に嫉妬するどころか、当時海賊にとらわれて消息不明だった明石の人の身の上を源氏と心一つにして親身に案じてくれたものだった。紫の上は、そのような人だったのである。

 今、女三宮を目の前にして、源氏は今さらながらに失ったものの大きさに思いを馳せていた。

 それにしても、いつからこの宮はこんなにも心を閉ざしてしまったのかと思う。前はこうではなかった。例の事件のあとでも、前右大臣が生きていた頃はまだ源氏とも気さくに話していたのだ。妙な幼さを残しつつも成人してしまった彼女は、逆に幼い心の無邪気さを失ってしまったのかもしれない。

 すでに女三宮は、膝の上の猫に再び意識を取られていた。源氏は心の中で、亡き妻の遺言が崩壊していくのを感じていた。

 女三宮があまりにも哀れではあったが、これ以上ここにいると気が滅入りそうなので、源氏はその足で北ノ対に渡った。高松邸に来て、そこを素通りするわけにもいかない。

 しかし、源氏の足を北ノ対に向かわせたのはそれだけではなかった。彼は今、心の故郷を求めていた。紫の上を亡くしても、彼にはまだ妻がいたのである。つまり、この高松邸の北ノ対の明石の御方もれっきとした源氏の妻なのだ。

 もうすでに日は没し、夕暮れの霞が庭に広がって、春の香りさえ充満していた。

「まあ突然! お帰りなさいませ」

 女房たちが大慌てで、もてなしの仕度に駆けずり回る。明石の人は、脇息によりかかって経文を開いていたところであった。

「あら、お帰りなさいまし」

 明石の御方はそう言ってあいさつする間もてきぱきと女房に指示し、源氏を迎える席はたちどころにできた。やはり、この女性は違う。源氏はやっと安堵感を覚えることができた。

「昨年以来、お悔やみのおふみすら差し上げずに失礼しました。ただ、そのような文で殿のお悲しみがかえって増したりしたらと思って、控えていたのです」

 言い訳ではなく本心からそのように考える人だということは源氏には分かっていたから、源氏は何も責めなかった。

「あれが亡くなる前に君が来てくれたこと、それだけで十分だよ。紫の上も喜んでいると思う」

「私は、殿の御身をも案じておりました。このまま出家なさったりはしないかと」

「この年になってもしがらみが多くてね、そう願う気持ちはあってもなかなか実現できずにいるのだよ」

 源氏は力なく笑った。久しぶりにくつろいでいる自分を彼は感じていた。

「願う気持ちがおありなんて……」

 明石の人は、深く息をついた。

傍目はためからは何も惜しいものがないように見える人でも、心の中では俗世への執心があるというではありませんか。ましてや、今のこの国にとりまして大事なお方であらせられます殿が、仏門になんて……。昔のためしでも、思いがけないことで仏弟子になってもよいことはないと思われます。お子様の身がしかと成りいかれますのをお見届けになってからでも……」

 意見されているようではあっても、このひとから言われると不思議と反感が湧かない。源氏はまた微笑んだ。

「その通りだね。私は、紫の上を失った悲しみからただ逃れようとしていただけなのかもしれない。幼い頃から育てて、人生の大半をともに過ごして、そしてまたともに年をとったはずなのに、紫の上だけが先に一人で逝ってしまった。その理不尽さに耐えきれなかったのだね」

「紫の上様は、私に姫を返すっておっしゃってくださいました」

「やはり、そうか」

 伏し目がちの明石の人の言葉に、源氏はため息をついた。

「姫も真実を知って、あんなに泣いていたんだ」

 紫の上なら言いそうなことである。そして目の前の女もまた、はいそうですかと言う人ではない。

「姫の心も大切です。ずっと母親だと思っていた人が母ではないことをいきなり知らされた姫に、私が母親ですなどとはとても言えませんでした。でも紫の上様は、私から姫を取り上げてしまったなんておっしゃって悔やんでおいでで。でも私は、こう申し上げたんです。姫をこんな素敵な女性に育ててくださったことに感謝の思いでいっぱいですって」

 明石の人の目に、光るものがあった。源氏もまぶたを押さえた。自分の二人の妻に、このようなやり取りがあったのだ。

「おそらく紫の上は、姫に母親が必要だと思ってそのようなことを言ったのだろうな。何しろ裳着もまだの姫だから、実の母をという感じだったのだろう。その時はもう自分が長くないことを感じていたんだろうな、多分」

「でも私、そのお心だけで十分です」

 たしかに四宮への入内をひかえている姫は、たとえ亡き人であったとしても前右大臣の娘がその母でなくては困る。身分の低い明石の人の娘に戻ってしまってはまずいのだ。もちろんそのようなことを露骨には、源氏は言ったりはしない。

「状況的にも、紫の上の言うとおりにはできないよ」

「ええ。十分承知しています」

「でも、紫の上の気持ちも無にしたくないからな。姫にとっても君にとってもいちばんいい方法を、必ず考えるから」

 源氏はそれだけを約束した。

 もう外はすっかり暗くなっており、女房たちが音を立てて格子を下ろしはじめ、室内には大殿油おおとなぶらが灯もされた。いつもなら源氏は、このままここに泊まっていったはずだ。女房たちもそれが当然だと思っているような動きをしている。

 しかし、

「二条邸に戻るよ」

 と、源氏は言った。明石の人は目を伏せた。

「やはり」

 そのひと言は、彼女が源氏の心のすべてを察していることを物語っていた。源氏と紫の上がどんなに固い絆で結ばれていたのかも、彼女は理解している。驚き騒いだのは女房たちの方で、明石の人はそれを厳しく叱りつけた。

 源氏は明石の人に頭を下げた。

「済まない、だが……」

「おっしゃらないで下さい。お気持ちは分かっております」

 廂の間の妻戸の所まで立って自ら見送った明石の人の手を、源氏はそっと握った。

「この世は仮の世、どこにも永遠の住家などないのだよ」

 そして源氏は後ろ髪引かれる思いで、高松邸を後にした。


 昨年の新嘗祭の頃に、新しい紫宸殿の前庭に新しい左近の桜が植えられた。春の満開の頃には公卿は左近の陣に集い、左近の桜を愛でての管弦の遊びもあったりしたが、その桜もすっかり散って、季節は夏になろうとしていた。

 四月の旬の節に、帝はお出ましにならなかった。

 そしてその日は更衣ころもがえである。源氏にとって今までの更衣はすべて紫の上が用意したが、今年は明石の人がその準備をして二条邸に届けてきた。白い冬の直衣から新調の新しい黄土色の直衣に替えた源氏には、その薄い衣がますますこの世のはかなさを象徴しているかのようにも思われた。

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