10

 新嘗祭やそれに続く節会などの準備で何かと慌ただしい日々が続いていたが、明石の姫と四ノ宮との婚儀のことが正式に決定した。二十日過ぎに、大原野祭が終わってからということであった。

 ちょうど賀茂臨時祭も行われたので、源氏は明石の御方や姫をも誘って勅使の行列の見物に出かけた。入ったのは、立派な桟敷である。この日のために、源氏が早くから用意させていたものであった。

 明石母娘と同じ御簾の中に、はじめは源氏もいた。桟敷の下には数多くの車が並べられ、今の源氏の権威を象徴しているかのようでもある。昔は車を立てる場所でもめてあの忌まわしい事件が起こったことを考えると、今昔の感を禁じ得ない。

「姫も親王妃となったらなかなか自由がきかなくなるから、今のうちによく見ておくんだよ」

 わが娘ながら、姫は美しく育ったと源氏は思う。そして姫をここまで育てた人は、とうとう姫の晴れの日を見ることはできなかった。いや、自分自身も俗の形で見ることはないと源氏は思っている。

 勅使の行列が来るまで、まだ時間がありそうだった。

「ただの親王妃のうちはまだいいにしても、場合によってはそれだけでなくなるかもしれないからね」

 姫にそう言ってから源氏は、父娘より少し下がったところに控えめにしている明石の御方を振り向いて見た。

「何を遠慮しているのだね。前に出なさい」

 源氏に促され、明石の御方は少しだけ膝を進めた。先ほど姫に言ったことばを、姫のこの実の母親なら理解するはずだ。姫の祖父である明石の入道の遺言があるからだ――やがて今の東宮が即位すれば四ノ宮は皇太弟となる。つまり四ノ宮妃である姫は東宮妃、さらにいくいくは女御、そして中宮にとさえ未来は開けていく。帝も全くそのようにお考えになっているようだ。

 源氏はもう一度、明石の御方に言った。

「ところで、あなたが姫とともに、四宮様の御もとに参ってくれないか」

「え? 私がですか?」

「母代わりの世話役としてなら、名目も立つ。付き従うのは若い女房たちばかりだから、何かと心配なんだよ。乳母とて隅々にまで目が行き届くというわけではないからね。その点。生みの親のあなたなら」

「生みの親とは申しましても……」

「生みの親なのに実の母親としてではなく母代わりというのもあなたに対して心苦しいけれど、紫の上が姫をあなたに返すといった言葉をも無にしたくないのでね。でも身分上、姫の母は九条家の娘でないとまずいんだ。母方の血筋がものをいう世界だからね。だからここは忍んで、後見人として姫とともに行ってほしい。そうすれば、紫の上の気持ちむ汲んでやれることになる」

「そうですわ、お方さま」

 と、姫も話に割って入った。

「今まで一緒に暮らしてくださったお方様が一緒に行って下さるなら、私も心強いです」

「でも……」

「お願いです。いっしょに行らして下さい」

 そして姫は声を落とし、そのまま小さな声で

「お母様……」

 と、言った。母と呼ばれた明石の御方の目からはどっと涙があふれ、慌てて袖で顔を押さえていた。そのとき、御簾の外で家司の声がした。

大臣おとど。上達部の方々がご挨拶に、多数参上されております」

「おう」

 仕方なく、源氏は立ち上がった。そして御簾から男たちのいる席の方へ向かう前に、もう一度母娘を振り返った。二人は互いに抱き合い、涙にくれていた。


 入内とはいっても親王妃の場合は臣下と同様で、親王が新婦の屋敷に三日通い、その新婦の実家で露顕の儀を行うのが普通である。だが、帝のお沙汰は宮中でということであった。

 この破格の待遇の裏には、帝の四ノ宮への御愛情と、源氏への信頼のほどが伺えた。また、姫の母が故中宮の姉ということもあるのかもしれない。帝はまだ、姫が実は明石の御方の娘であるということはご存じない。

 いずれにせよ、女御や更衣の入内、もしくは東宮妃の婚礼のように、姫は四ノ宮のもとへ「入内」することになった。

 先例にうるさい宮中のことだが、先例はある。今の帝ご自身がその先例で、帝が亡き中宮を娶られた時、帝はまだ皇太弟でもない一親王であったが、婚礼の儀は飛香舎――藤壺で行われた。つまり、かつて故中宮も、一親王のもとに「入内」したのである。

 その背景には、中宮が准三后の待遇を受けていた当時の摂政太政大臣の孫娘であるということもあっただろう。そのような先例と同じ背景が源氏にもあり、源氏は准三后と同様の準太上天皇の待遇を受けている。

 婚儀が行われたのは、四宮の宿蘆の昭陽舎――梨壺であった。儀の内容もほとんど東宮妃のそれと変わりなく、盛大なものであった。

 姫を乗せた輿は、夕刻に宮中へと向かった。明石の御方もその同じ行列の中の別の車に乗っていたが、彼女の身分では車に乗ったまま宮廷の門をくぐることは不可能なので、大内裏に入ってからは玉砂利の上を徒歩で自分の娘に付き添わなければならなかった。

 そのことは源氏も分かっていて気の毒には思っていたが、どうすることもできない。もし紫の上が生きていたなら、たとえ実の母ではなくても表向きは生母となっているし、また身分の上からも輦車を許されて姫に付き添ったはずである。

 こうして姫の「入内」も無事に終わり、その年も暮れようとしていた。


 宮中では御仏名の準備で慌ただしくなった。本来なら十九日から三日間行われるこの年中行事も、今年は源氏や帝の異母兄である中務卿宮がその直前に他界していたので二日間延期になった。異母を含めれば相当の数がいた源氏の兄弟が、一人また一人といなくなっていく。

 さらには、摂家としては傍系ではあるが、一応北家に属する土御門中納言も他界した。その妹は、源氏の従弟である源宰相治部卿に嫁していた。

 まるで落ち葉が一枚一枚散っていくように、人々が自分を置いてどんどんいなくなっていくことを痛感していた源氏にとって、この御仏名はひときわ身に沁みるものであった。

 御仏名は清涼殿で行われ、御帳台の内には仁寿殿の御仏が据えられた。さらには、地獄変の屏風も立てられている。源氏にとって毎年見慣れているはずの屏風なのに、なぜか今年はそんな屏風にも目をとめてしまう。

 そして導師の散華に続き、過去、現在、未来の世界の諸仏の仏名が唱えられるのだが、一年間の一切の罪業を祓い浄めるという意味では神道の大祓いとも通じるものがある。その後はやはり導師によって教誨が行われるが、源氏はそれを聞きながら今の自分自身について心の整理をしていた。

 すべてが軌道に乗っている。薫には母ができた。長男、次男はすでに加冠を終えているので問題はない。そして姫も四ノ宮の妃となり、将来は安泰だ。入道の予言めいた遺言が実現すれば必ず東宮妃、そして中宮となるであろう。

 ただ気がかりなのは、生まれたばかりの次女であった。幼くして父を亡くす運命にある。だが、父親よりも母親の血筋こそが将来に重要な影響を与える社会にあって、母はあの通り人格的に破綻をきたしているといえなくはないにしても、その身分自体はもともとは内親王で、今では亡き九条前右大臣の娘ということになっている。源氏亡き後もその親友だった男の威光は宮中から消えそうもなかったし、さらには宮の兄たちもいる。だから次女、中君の将来にも一応は心配ないといえた。

 その兄たち――故九条前右大臣の遺児たちも働き盛りに達し、それぞれの子たち、すなわち故前右大臣の孫たちさえも一人前になりつつある。孫たちはまだ若輩ではあるが、源氏がいなくなっても彼らの父親たちの威光が彼らを守るであろう。そして何よりの力が、働きざかりのお年の帝である。この君がおわします限り、すべてが安泰である。

 錫杖の声が、しみじみと聞こえる。いろいろとほだしがあって一年間先延ばしになったが、いよいよ来年こそは本意を遂げる年になろうと源氏は思う。あとはそのことを帝にどう切り出して、ご裁可を取り付けるかだ。

 三日目の仏名も終わって、導師は禄の綿を賜った。その夜は降り続いていた雪が積もり、宮中全体をそして都の盆地すべてを白一色に埋めた。儀式はそんな中でも、蔵人所衆滝口の名対面と、毎年の筋書通りに進む。

 それから栢梨かえなしの勧盃の法宴へと続くのだが、それが始まる前に源氏は導師をつかまえた。前から見知っていた老僧ではあるが、より一層老けこんでしまったようにも見えた。

「老いぼれてしまいましたよ」

 老僧自身も源氏の内心を察してか、自分でそのように言って苦笑していた。手には誰か風流人が贈ったらしいつぼみの固い梅の小枝を持っていた。

「春まで生きておられるかどうかも分かりませんから、雪の降りしきる夜でも梅の花を愛でていとうて」

「何をおっしゃいます」

 源氏もまた、苦笑した。

「私の方こそ、雪が降るように古くなっていくのを感じておりますが、御坊はまだまだ……」

大臣おとどこそ何をおっしゃいます。あなた様は今でも、昔の光の君さまそのままではございませんか」

 顔は笑いながらも、いつしか老僧は涙をぬぐっていた。

 そんなやり取りのあと、源氏は宴の席に出た。人々の視線は、源氏に集中した。誰もがまぶしそうに源氏を見ている。今や大臣の位についた源氏だから、人々が一目置くのは無理もない。

 このまま、もっとずっと大臣として政権をほしいままにしていようか……源氏さえその気になれば、それも可能だ。参列している公卿たちの中には、源氏と親しいものも多い。そして九条家の故前右大臣の子である兄弟たちも、今ではまるで源氏自身の子息であるかのようにいとおしく感じられる……だが、そのすべてが執心なのだと源氏は思った。

 俗世界における自分の存在は、この年限りでなくなると源氏は思っていた。一切のほだしは、振り払わねばならない。そして旅立つのだ。清浄しょうじょうの世界に……。


 晦日の追儺ついなの儀のために、源氏は西宮邸で参内の仕度をしていた。もう、その年の最後の日没も過ぎている。源氏は寝殿に、久しぶりに高松邸から薫を呼び寄せていた。また、長男の左兵衛佐や次男の左少将も、同じ寝殿にいる。これから、親子三人で参内するのである。

 長男はその幼い息子、すなわち源氏の孫もつれてきており、薫は実際には叔父ではあるが兄弟くらいにしか年の離れていない甥の面倒を見ていた。二人はだいぶ気が合うようだ。

「もっと大きな声を出さなきゃだめだよ」

 宮中で行われる悪鬼払いである儺やらいのまねごとをして、二人の幼い叔父甥は遊んでいた。二人ともすっかり童子わらわべになりきって、手には戈と楯を持っている。

「こんな声じゃ、鬼は逃げませんよね。父上!」

 薫が幼い子の小さな声を非難して、源氏に言う。源氏は黙って笑っていた。

「さあ、もう一回。儺声だせいっていうのは、もっと大きいんだよ」

 群れ遊ぶ二人の子供の行く末も見ないうちに自分は……と思うと、源氏の中に忍びがたい感情が湧きあがってきてしまった。

 あとは女房たちに元日の指図をしてから、源氏は出かけることになっている。年が明けたら、初めての大臣大饗もしなくてはならない。その手筈もまだ、この西宮邸の政所は慣れていない。源氏は一からそれを政所に教えているうちに、時刻も遅くなってすっかり暗くなっていた。

「では、参るぞ」

「はい」

 源氏の後ろに長男と次男が付き添って、親子三人で渡廊を歩く。それを、紙蝋を持った女房が先導する。

 やがて三人は、それぞれの車に乗った。

 車が動き出す。左大将でもある源氏の車だけ多くの随身兵仗がつき、夜の道に先払いの声を響かせていた。

 三台の車が、同じ道を進む――だが源氏には、それぞれの車のぬしが進む将来の道はここから分かれるという気がしてならなかった。


(つづく)

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