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運命はそれ以上に、源氏にとって過酷であった。
年が明けてすぐに、源氏は右大臣に就任することになってしまった。
五十二歳にしてやっと昇った
源氏の右大臣就任当日は宰相中将とその弟たちをはじめ源氏と親しんでいる人々が次々に祝いに参上し、西宮邸の周りは車を立てるところもないくらいになった。
しかし、源氏の右大臣就任は当然のなりゆきでもあった。昨年四月に富小路右大臣が逝去して以来、右大臣の席は長らく空席だったのである。順序からすれば大納言が昇格するものだが、もう一人の民部卿大納言よりも富小路右大臣の兼職であった左大将に任じられていた源氏の方がはるかに有力であった。民部卿大納言はすでに七十五歳の高齢で、しかも左大臣などとは同族だが傍系である。左大臣としては弟の小一条按察使権大納言を右大臣にしたかったであろうが、何といってもあくまで権職で、二人の正規の大納言を飛び越えてというのは帝がお許しにはなるまい。
それでも左大臣はこの人事が相当不服であったようで、大臣が除目によらず単独で就任するのに任宣命を送る先例があるか調べよと
これは明らかに源氏に対する嫌がらせである。実際にはそのような先例はいくらでもあるし、またその父の故関白太政大臣より有職の教命を受けていた小野宮流故実の祖ともいえる左大臣が知らないはずはないからだ。
いずれにせよ帝としては左大臣がどうあれ、自分の兄であり、右腕とも信頼している源氏に花を持たせたかったのであろう。
だが、当の源氏にとってはありがた迷惑であった。しかし、そのような内心をかけらも口外することはできない。集まった人々に対して、西宮邸では早速任大臣大饗の準備に入らねばならない。
そこで、
そして饗宴は寝殿の
庭では舞が舞われ、管弦の調べが響き、池には
そこには四宮の姿もあった。さらには宰相中将はじめその弟の東宮亮、左京大夫も顔をそろえており、その姿を見るにつけ彼らがいかに自分を頼りにしているかを源氏は痛感させられ、それが気が重くなる原因でもあった。
彼ら九条家の遺児たちは、まさしく源氏の庇護下にある。彼らを袖内にくるんだまま、彼らの父の政敵であった左大臣勢力へ今度は源氏が彼らの父に代わって、そして同じ大臣として、彼らの盾となって立ち向かわなければならない。
考えてみると、ちょうどその親友が亡くなったのは今の源氏と同じ五十三歳であった。その同じ年齢に、源氏は親友の最後の官職であった右大臣になった。もっとも位階こそ正二位だった親友よりは一つ下の従二位ではあるが……。源氏は気が重いながらも、これからの自分の人生は亡き親友がこの世でやり残したことを自分がすることになるのではないかと、反対側の耳に抜ける祝いの言葉とともに勧められる一杯一杯の杯を飲みながら考えていた。
任大臣大饗が終わってから源氏は早速、右大臣就任の辞表を書いた。
もっともこれは誰でも大臣に任じられた時のしきたりで、形だけとして辞表を書くことが定着している。そして三度辞表を上表し、三度却下されて初めて正式の大臣就任となるのだ。
源氏も表面上はそれをしきたり通りにやったにすぎなかったが、彼の内心はしきたり通りではなかった。たいていは文章博士などに頼んで名文を作ってもらうものだが、源氏は自ら筆をとった。
彼の文才は文章博士に引けをとらない。そればかりでなく、源氏はとにかく自分の真情を吐露し、本気で右大臣を辞したいと願ったからでもあった。
宮中では、春にちなんだ宴が催されていく。西宮邸ばかりでなく宮中も、中宮の崩御以来の華やかな春を迎えていた。その春が終わる前に、ついに源氏の三度目の辞表も形式通りに却下された。これでもう、源氏の右大臣辞任の道は閉ざされてしまった。
源氏は苦笑いをして、一人で庭を見て立っていた。時に庭の桜は今や満開であった。春になるたびに思い出す人――紫の上は、果たして自分の大臣就任を喜んでいてくれているだろうか、それとも……。捨てたはずの執心であるのに、事態のなりゆきの変化が副作用として、執心を捨てきれなくさせてしまったというさらなる事態をももたらした。
そんなある日、宮中で行き会った宰相中将がそっと源氏に耳打ちしてきた。彼の弟の左京大夫が、
源氏は早速、妻の屋敷にいる左京大夫を見舞った。これも、庇護者としては当然のことであった。今や源氏はすべからく、九条家の兄弟の父親としての役割を果たさなければならなくなっていたのだ。
左京大夫の妻は河内守の娘で、その屋敷は一条西洞院の一条大路に面した北半町であった。大路の向こうはもう洛外である。源氏が駆けつけると、屋敷の室内には護摩木の煙が満ち、僧たちの読経の声がかまびすしく響いていた。これほどまでに修法をしなければならないほどの重い病だったのかと、源氏はあらためて驚いた。
左京大夫の妻である河内守の娘は、几帳のうちで涙にくれていた。その声が臨床している源氏にも聞こえてきた。
「源氏の
横になったまま腕を伸ばしてきた左京大夫は、かなり衰弱している様子であった。
「私が亡き後は、我が子たちをお頼み申し上げます」
「何を言うのかね……」
左京大夫は、まだ三十代の若さである。そのような男に自分のような老人が後を託されるいわれはないと源氏は言ってから、
「気をしっかりと持つのだよ」
と、励ましておいた。
左京大夫の次男もまた、この屋敷にいるはずである。ここの妻にとってはただ一人の子であるその次男も、物の怪のことをかんがみて今は父親から遠ざけられているのであろう。
左京大夫に子は、ほかに長男と三男、四男がいる。そのうち長男と三男の母は早くからの妻で、侍従大和守の娘だが、今はまた懐妊中とのことであった。産み月も近いらしい。もしその子が無事に生まれ、さらに左京大夫に万が一のことがあったりしたら、女児二人を加えて七人の子が源氏に託されることになる。だから、左京大夫にここで死んでもらっては困ると、源氏は左京大夫の手をしっかりと握った。
「気をしっかりとお持ちなさい」
それから数日して源氏の祈りのかいあってか左京大夫は快方に向かい、夏の更衣の前までにはすっかり快復した。そしてその知らせとほとんど同時に、左京大夫の五男が誕生したという知らせも届いた。
その新しい生命の誕生を自分の老齢と対比させ、望月の欠けたることなき将来の繁栄を背負って生まれてきたように感じていた源氏であったが、その子の従姉にあたる源氏の長男の妻が源氏の二人目の孫を出産したのもその頃であった。
男の子であった。
源氏は右大臣左大将のほかにも、東大寺俗別当の職をも拝命した。
折しも東大寺と興福寺との間で、所領を巡っての争いが絶えない頃であった。そのことも源氏の頭を悩ます種となったわけだが、源氏の俗別当というのは実務を現地に任せきりの名誉職であったし、宮中における公務も大納言であった頃よりは少しは減ったといえた。しかしその代わりに、責任の方が重くのしかかってくる。
陣定でも小野宮左大臣は相変わらず怠慢で、結局は右大臣である源氏の方が上卿を務めることの方が多かった。左大臣がいなければそれだけ源氏には気が楽ではあったが、今度は小一条権大納言の視線が気になる。彼はまだ左大臣のようには
源氏自身は、ただなんとなく毎日が過ぎていくというような生活をしていた。実務があった方がまだ気がまぎれたし、毎日の張り合いもあったが、今は地位と名誉と責任があるだけでどうも張り合いがない。何か自分が抜け殻になったような気がして、かえって源氏には毎日が暗く感じられた。
西宮邸で西ノ対に渡っても、成人している姫が同じ対の屋にいる以上明石の御方と夜をともにすることもできないし、世間でもとっくにそのようなことはなくなっている年齢の老夫婦である。では高松邸はというと、行く気にもならない。経済的に援助していれば、夫としての義務は十分に果たしていると源氏は考えていた。
普通なら夫の務めはそれだけでは許されまいが、そもそも相手が普通の妻ではない。今でも心を閉ざしたままなのである。彼女の生涯の伴侶は、猫しかいないようだ。
世間では年老いてから若い妻をもらったことをうらやましいとも言うであろうが、源氏は自分から決断したことで決して押し付けられたわけではないにしろ、やはり女三宮は重荷であった。
そうこうして日々が過ぎていくうちに夏になったが、この夏は実によく雨が降った。そして夏の終わりには大風が吹いて、雷を伴う激しい雨が都の大地をうがった。
秋になった。
今日よりは 秋のはじめと 聞くからに
袖の袂ぞ 露けかりける
源氏のそんな朗詠には、その心がはっきりとにじみ出ていた。
そして七夕……その日が来たからとて、源氏は恋しい人と会える訳でもない。
たなばたの 契れる秋も 来にけるに
いつと定めぬ われぞ悲しき
たった一年に一度の逢瀬さえ、自分と永遠の恋人であった紫の上とはもはや許されないのだと源氏は実感していた。
同じ頃に、都に疫病が
比叡山の天台座主が亡くなったのも、この頃のことであった。新しい座主は権律師だった者だが、その人こそ故九条前右大臣とも親交があり、法華三昧堂再建のときに力を尽くしてくれたあの阿闍利であった。
そしてその頃に、高松邸で産声が上がった。女三宮――愛宮が源氏の子を出産したのである。
姫君であった。明石の姫を
もし源氏がそのような子供の誕生を無視できるような性格なら源氏も苦労することもないであろうが、生まれた子もわが娘として情けをかけずに入られない源氏だ。母がどうあれ生まれてきた子は母とは別の人格であると認識してしまう彼だけに、自分で自分を締め付ける苦しみもますます増大するのである。
生まれた姫には、早速に乳母がつけられた。そして出産の穢れもなくなるや否や源氏はすぐに高松邸に行き、娘と面会した。
驚いたのは出産は人間ばかりではなく猫もであり、対の屋じゅうが猫の群れになっていた。このような猫の中では育てられないと、源氏は新しく生まれた姫を母親から引き離し、薫とともに西ノ対に住まわせることにした。そのことに関して宮は何ら心を述べることもなく、淡々としていた。
この年は八月のあとに閏の八月が入って、秋が長引くこととなった。宮中では久々の盛大な行事として観月の夜に
しかしそれは源氏が老人であったからかもしれず、この前栽合が初めてだという若い人たちにとっては十分に興ずることのできた催しのようにも思われた。
左方の頭は小一条権大納言の次男の絵所別当蔵人少将で小野宮左大臣勢の陣営、右方の頭も同じ蔵人少将だが、こちらは九条前右大臣の九男でいうまでもなく九条勢、すなわち源氏の庇護下にある存在だ。ここでもまたもや雅の宴に、政治勢力の拮抗が持ち込まれた。
その宴も終わり、秋もゆっくりと深まっていく。高松邸の姫も順調に育っているという。そんな頃に大雨が降って、都の中は大洪水となった。鴨川の堤の決壊で流された家屋も数知れず、五条、六条あたりはさながら海のようになってしまった。斎宮女御の里邸の六条邸もかなりの被害を受け、源氏はその復旧のための手配に明け暮れるようになった。
宮中でも議が続く。洪水の巡検の派遣、十六社への奉幣などのほかに、昨年の地震のときと同様に罹災者の調・庸を免ずる措置についても議された。
そんな閣議で慌ただしかった公卿たちがひと息ついたのは、殿上の奏楽であった。秋から冬に変わる季節の変わり目の一夜を、公卿たちは清涼殿で音楽の合奏に酔ったのである。左大臣が筝の琴、右大臣の源氏が得意の琵琶で、普段は敵視している老人の筝に自分の琵琶を合わせるのも妙な気分であった。また、源氏は琵琶を持つこと自体が久方ぶりのことであった。空には半月が、少しだけ西に傾いて光を投げていた。
これがこの世である……自分はまだこの世の光の中にいて、右大臣として琵琶を弾いている……そのことが源氏にとっては、まるで幻の中の出来事のように思われてならなかった。
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