冬になる更衣ころもがえの日まで、余震は続いた。

 源氏は一応念のためと最初の地震のあとに西宮邸をはじめ高松邸、二条邸と見舞ったが、いずれも無事とのことであった。だが今回の地震で民家のいくつかが倒壊したという報告もあり、十数人の死者が出たとのことであった。

 この年も、残菊の宴は中止となった。やがて季節は新嘗祭へと向かっていく。

 新嘗祭の豊明ほうめい節会せちえでは帝も豊楽院ぶらくいんにお出ましになることになっており、その当日の夕刻に源氏が出かける前に西宮邸に来客があった。長男の左兵衛佐が三歳になる子をつれて、源氏のご機嫌伺いに来たのである。

「順調に育っているね」

 室内をたどたどしい足取りで歩き回る孫を見て、源氏はくつろいで微笑んでいた。

「二人目はどうかね」

「はい、そちらも順調に腹の中で育っております」

「いつごろになりそうだ?」

「来年の夏までには、おそらく」

 思えばついこの間まで、薫が自分の孫と同じような感覚だった、だが薫は孫ではなく子なのである。つまり、今目の前にいる孫から見れば薫は叔父で、わずか二歳違いの叔父と甥である。だが、将来この二人の子と孫が成人して並び立つのを自分は生きて見ることができるかどうかと考えると、源氏には自信がない。

「薫に母もできた。次郎も官職を得たし、姫にも今では実の母がついている。四宮への入内も、帝が間違いなく取り計らって下さるだろう。そしておまえももう、人の子の親だな」

「父上、何がおっしゃりたいのです?」

 息子の顔は、急に真顔になっていた。眉が引きつっている。

「いや、そろそろ潮時かなと思ってな」

「またいつものお口癖の出家入道のお話ですか。それは困ります。我が舅の宰相中将殿も妻の叔父君たちも、みな父上を頼っておいでなのですよ」

「それが困るのだ。私ごときがいなくても、亡き前右大臣殿のご威光が彼らを守るさ」

 これ以上俗世の権力争いの渦に巻き込まれるのはごめんだと、源氏は言いたかったのである。左大臣も今では相当老いぼれてはいるが、まだまだ気を許せない存在だ。その背後には小一条の右大将按察使権大納言の不気味な眼光がある。

 息子には、そのことは露骨には言えない。源氏はもともとこの息子には妙な遠慮がある。今では禁句ともなっていることだが、息子の母は今の小野宮左大臣の娘で、息子は左大臣の外孫としてその血を受け継いでいる。

 そのことは考えるまい……そう思っていると、源氏の膝の上に孫が這い上がってきた。

「じじさま?」

 もう立派にしゃべる。源氏はそれを抱きあげた。

「すくよかに、早く成長なさいよ」

 思えばこの子は、父が小野宮左大臣の外孫、母は故九条前右大臣の内孫で、源家の子でありながら小野宮と九条の両方の血を引いているのである。この子が成長した暁には、どろどろとした宮中の権力争いはなくなっていればいいがと、切実に源氏は思う。


 やがて、冬も深まっていった。年齢のせいか、源氏にはこのごろ月日がたつのがやけに早く感じられた。

 そしてこの年は帝が四十歳になられた年でもあったので、暮れには帝の四十賀の宴が盛大に行われた。また、寺での修法も併せて行われ、参列した源氏は僧たちの仏典の講を聞く機会が多くなった。

 やはり一年一年が過ぎていくのは、老人にとっては心細いことだ。ただ、年が過ぎるだけ本願を遂げる日も近みつつあると、源氏はそれだけを心紛らわせるすべとしていた。

 だから源氏は、過去を振り返るのはよそうと思った。足かせやしがらみになるものは、現在のこの時点で棄却すべきだと考えた源氏は、これまで一生の宝のように思っていた箱の中の数々の私信をすべて焼却させた。その中には、かの須磨流謫時代に、紫の上からもらった文もあった。

 今、すべてを煙に返そう。そして自分の一切の執着心を捨て去ろう。それが仏道修行の第一歩だ……源氏はそう思ったのである。

 源氏の目は未来を見つめていた。しかしそれは俗世における未来ではなく、仏縁を結び、やがては蓮葉はちすの上にという未来であった。

 妻となった女三宮――愛宮のことは、一応は夫婦となったのだからもう後見ができたことになり、もはや自分にとってしがらみと考えるのはよそうと源氏は思っていた。女三宮はあの三日夜の儀以来、放りっぱなしの状態となっている。

 そんな時も時、高松邸の家司が使いとして西宮邸にやってきた。源氏にすぐに高松邸に来てほしいという。珍しく不平でも言ったのか……もしそうだったらあの宮も割とまともな女性だったということになる。だが、どうもそうとは思い切れないところが源氏にはあった。もしかしたら薫の身に何か……そう思うと源氏は日も暮れかかった頃に、車を高松邸へと急がせた。

 源氏が北ノ対の身舎に入るや否や、そこにいた女房たちは一斉にひれ伏した。だが源氏を迎える彼女らの言葉は「お帰りなさい」ではなかった。

「おめでとうございます」

 そんな言葉が、一斉に源氏に飛びかかってきたのである。源氏は訳が分からず、ただ突っ立っていた。

「ささ」

 宮の乳母が、源氏を身舎の奥へと招き入れた、その顔はやけにニヤニヤしていた。

「愛宮様、おめでたでございます」

「え?」

 思わず源氏は、露骨に顔をしかめてしまった。

「まあ、そんなお顔をなさいますな。世間は恥じかきっ子とでも何とでも申しましょうが、殿がお若い証拠です。めでたいことではありませんか」

 だが源氏の真意はほかにあって、重たい口調でその真意を言った。

「それは……、本当に私の子か……?」

「何をおっしゃいます! いくら殿でも」

「しかし……」

 宮には前科がある。乳母もその辺の事情は知っているので、少しだけ笑みをひかえた。何しろ、朱雀院ご在世中から仕えていた乳母である。乳母は、声をひそめて、源氏の耳元に口を近づけた。

「前のときは私どもも油断しておりましたけれど、今度は決して……。猫の子一匹入れておりません」

 源氏はすでに格子が下ろされていた室内を見回した。

「それにしては、相変わらず猫だらけではないか」

 その部屋の几帳の奥に、宮はいつもの硬い顔つきの無表情で座っていた。時折見せる顔の変化といえば、世の中の一切を馬鹿にしたような眉の動きだけであった。

 源氏はそのそばに座った。だが、何と声をかけていいか分からない。懐妊も出産も初めてではない宮だけに、その方面への心配は少ない。

 しかし、かつて他人の子を宿したその腹に、今は自分の子が宿されているという。それが本当に源氏の子だとすると、それは婚礼の三日通いの最初の夜の、あのたった一回の交わりで宿ったことになる。つまり、一夜孕みだ。よりによってその一回が的中するとは……。

 しかも、ようやくすべての雑念を整理していよいよ仏道に専念しようと思っていた矢先に、また一つしがらみができてしまった……。源氏は頭を抱え込みたくなる思いであった。

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