とうとう長年の気がかりを取り払うべく、源氏がことを実行する日が来た。源氏は日が暮れてから目立たぬ網代車で、供も二、三人だけで高松邸へと向かった。服装も軽い狩衣姿である。

 高松邸の女房たちには、すべてを打ち明けてあった。女三宮の乳母も知っており、宮にも納得させてくれているはずであった。すべてが源氏の意のままになる。女房を口説き、渡りをつけてもらい、本人に文や歌を送ってさらに口説く――そんな若い頃の恋愛や結婚の過程は、今の源氏にはすべて形式だけとなる。

 歌は一応は送っておいた。心にもない恋の歌である。それには返し文も来て、ぜひおいで下さいと書かれていたが、明らかに乳母か女房の代作・代筆であった。

 車の中で源氏は、おかしな気分になった。自分が若者なら、さしずめ他人の屋敷に住む他人の娘のもとへ通う情人ということになろう。

 だが、今通おうとしている屋敷は、源氏自身の屋敷である。自分の屋敷の対の屋に住む女のもとへ、その屋敷の主がまるで情人のようにして通う……考えてみればおかしな話であった。ただ、そのことが忘れかけていた感覚……胸ときめかせて恋人のもとへ通っていた遠い昔の記憶を、源氏の中で蘇らせた。

 世間一般の貴公子に比べたら源氏は特異な方で、若い頃にそうたくさん恋人がいたわけではなかった。それでも少しは経験したそんな感覚にふと懐かしさを覚え、自分が若者に戻ったような気さえした。

 だがそれも束の間で、すぐに現実に引き戻されてしまう。高松邸にいる相手は自分の娘と同じ年の十五歳――そして源氏はどうしようもなく五十歳過ぎの老人である。

 しかも、すべてに心を閉ざしている少女を、これから相手にするのだ。若者のような胸ときめく感覚はたちどころに霧散し、重苦しい気分が源氏にのしかかってきた。いやだなあと、つくづく思うのである。

 牛ののろい足でも、時間がたてば高松邸に着いてしまう。高松邸では紙燭を持った女房が出迎えていた。そこで本来なら婿の屋敷の火が灯されて、それがこの家の灯篭に移される。だがこのときは西宮邸の火が、同じ源氏の所有する屋敷である高松邸に移されたのだから、これもまたおかしな話であった。あとは言葉少なに、源氏はそのまま西ノ対の身舎もやに入った。

「ごきげんよう」

 宮はまた黒猫を抱いていたが、源氏に対して少しだけ目を上げ、

「はい」

 と、だけ言った。座るとすぐに、源氏は切り出した。

「聞いているね。今日からは、私があなたの夫となる。そのためには、しなければならないことがあるんだ」

 女房たちが酒肴を運んできたが、通う男に酒肴が出るというのもおかしな話であった。

 源氏は杯を口に運びながら、何から話していいか分からずにいた。話題が見つからない。それでも何とか話題を見つけて話しかけても、宮は固い受け答えしかしなかった。会話はほとんど成立せず、しらけた空気が漂った。源氏は、ため息をつきたい気分だった。この場から逃げ出したい。

 こうなったらすることをしてさっさと寝てしまおう――そう思って源氏は、女房たちに目で合図した。乳母が宮を御帳台の中にいざない、灯かりが消される。源氏も立ち上がった。狩衣の袴をとり、小袖だけで御帳台に入る。覆衾の役が、二人の上にふすまをかけていく。それを機に最後の灯かりも消され、女房たちはいなくなった。ただ、西宮邸から持ってきた火だけがこの屋敷の火と合わされ、几帳の外で灯され続けていた。この火は、三日間は消されないことになっている。

 宮はもう畳の上のしとねの上に横になっていた。枕が二つ並べられている。

「入ってもいいかね」

 返事はなかった。それでも源氏は、宮の横に並んで入った。

 そのまましばらくは、互いに無言であった。源氏は宮の手をとって体を寄せたが、全く抵抗はなかった。すべてが源氏のなすがままに、黙々と従う宮であった。源氏が動きを止めると、そこで宮の動きも止まる。これでは人形ではないかと、源氏は思った。

 頬を寄せてみる。この時だけは、宮は自分の意志で源氏の方へ顔を向けた。だがそれから互いの小袖の紐を解いても、宮はなすがままだった。源氏は宮の首筋を吸った。肌はしまっていた。完璧に女の香りがする。几帳の外の三日火で、宮の顔も微かに見えた。

 先ほど灯かりのともった室内で見た時も、宮はすでに美しい女性となっていた。それが今、源氏の腕の中にいる。そのことだけが、源氏に手を動かさせた。

 体を抱いても、まだ小さいが形のいい胸を愛撫しても、宮は全く声を出さなかった。宮の顔は全く無表情で、時々眉をしかめるのが見えた。胸板に顔を埋めて、源氏は動きを止めた。

 この中にある宮の心はどう動いているのかと、いぶかしくもなったのだ。もしかしたら、馬鹿な老人と自分のことを嘲笑しているかもしれない……いや、そうに違いないという気にさえなる。

 源氏はゆっくりと下の方へ、舌を這わせていった。それでも宮は全く、若い人肌を持つというだけの人形にすぎなかった。そして秘境の香りをかごうとしたが、この時だけは宮は容易に足を開こうとはしなかった。源氏は、口をつけてみた。今までに味わったこともないような、いや、忘れかけていただけかもしれないが、とにかく甘い味がした。

 ところが、困ったことがあった。源氏の体もまた、何の変化も起こさないのである。年のせいもあるだろう。しかし、それだけではないはずだ。老妻の明石の御方相手の時は、あれほど元気に燃えたのだ。とにかく源氏は苦労した。何とか一つになったあとも、源氏は柔らかいままであった。そのまま彼は、あっという間にいった。宮はその間も、ひと言も声を発することはなかった。

 疲れた……ため息をついていると、宮は源氏の耳もとで、

「寝ます」

 とだけ、そっけなく言った。

「ああ」

 もう宮は、すやすやと寝息を立てていた。源氏は虚しかった。何だかばかばかしくもあった。少しも楽しくない。腹立たしくさえなってくる。

 宮はこの年にして、実は源氏が最初の男ではない。そればかりか、出産まで経験している。処女相手の面倒さはなかったものの、両極端であった。

 源氏はまた一つ、ため息をついた。多武峰の少将の時も……と、ふとそこへ考えがいってしまう。あの時も宮は今日のように、かの元少将のなすがままに抵抗することもなく抱かれたのであろう。

 いずれにせよこの少女は、頭脳のどこかが狂っている。紫の上との初めての夜は、今のこの宮よりも当時の紫の上の方が若かった。それでも紫の上は抵抗もしたし、もっとしっかりと自分というものを持っていたように記憶している。

 もっともあの頃は、源氏自身も若かった。今の源氏と宮との年齢差は、あの当時に源氏と紫の上との年齢差よりも四倍か五倍はある。それだけに、源氏自身の見る目も違うのかもしれない……。

 そのようなことを考えているうちに、源氏もいつしか眠りに落ちていた。


 翌朝の後朝の文の返事も、乳母の代筆だった。これ自体が、尋常のことではない。参内している間は気が紛れもしたが、夜にはまた源氏は高松邸に行かねばならない。気が重い。いやそれどころか、切実に嫌であった。行きたくはないとひしひしと感じる。

 それでも無情に日は西に傾き、源氏は一度宮中から西宮邸に戻って西ノ対に渡り、明石の御方と話をしていた。だが、女三宮の話題が出そうになると、源氏は露骨にそれを避けた。

「そろそろおいでになりました方が……」

 明石の御方の方が気遣って、そう促す始末だ。それでも源氏は一刻も長く、ここで時間を稼ぎたかった。しかし、いつまでもそうしてはいられない。

 源氏が高松邸に着くと、心配そうな顔をして年かさの女房が迎えに出た。

「遅うございましたから、まさかおいでにならないのではと」

「いろいろとあってね」

 そっけなく源氏は言って、西ノ対の身舎に入った。

「実は……」

 女房たちは、言いにくそうにしていた。

「あれほど言い聞かせまして、なだめ申し上げましたのですが……、実は愛宮様は……」

「どうしたのかね?」

「お休みになってしまわれました」

 また源氏は、肩透かしを食らったようでため息をついた。

「お起こししましょうか」

「いい」

 女房はただただ、申し訳なさそうな顔をしていた。この日もまた出された酒肴を源氏は一人で口に運んだあと、御帳台の中に入った。灯かりが消される。女三宮はよく眠っていた。この晩源氏は宮に指一本触れず、同じ衾で寝ただけであった。

 翌朝、女三宮は目覚めて隣に源氏が寝ているのに気づいても、驚くでも気にするでもなくすたすたと起き上がって女房を呼び、すぐにまた猫を抱いていた。部屋の中は夜中に猫が走り回ったようで、几帳は倒れ、糞尿の匂いが充満していた。

 源氏も御帳台を出てすぐに、床の上にできた猫の尿の水たまりをもろに踏んでしまった。猫をかわいがるだけでそのしつけさえできないこの宮に薫の母親が勤まるだろうかと思うと、空恐ろしくさえなる。

 やはり、紫の上に生きていてほしかった。実の母ではなくとも薫の母親が務まるのは紫の上をおいてほかにはあり得なかったことが、今さらながら実感される。

 その日の夜は、露顕ところあらわしの儀であった。高松邸の西ノ対にはまるで昼のようにこうこうと明かりが灯され、屋敷には続々と縁者が車で乗り付けてきた。

 女三宮は今はあくまで九条家の五女の愛宮なので、集まってくる縁者は九条家の宰相中将やその弟でもとの中宮権大夫すなわち今の東宮亮、さらにその弟の左京大夫など前右大臣の、今はそれぞれが子持ちの壮年になっている遺児ばかりであった。

 こういった宴には血縁のないものは普通は参列しないし、その血縁というのも女の方の血縁に限られていたからだ。

 几帳の中で、源氏と女三宮は餅を食べた。

 ――嘉辰令月歓無極、万歳千秋楽未央――

 そんな朗詠が繰り返される。源氏が自分のためのその朗詠を聞くのは、長男の母、紫の上、明石の御方、そして今度とこれで四度目であった。

 宮はまったくの無表情で、箸で丸い餅をつまんではその口に入れていた。源氏も三つ食べた。婿はこれ以上食べることはできない。宮はまだ食べつづけている。そんな宮を見ながら、源氏は宮が今何を考えているのだろうかと考えたが、皆目見当もつかない。その心の中は全く見えないのだ。

 確かに成長して美人にはなった。だが、心がなくては美人もだいなしだ。しかしこれでどうしようもなく、目の前にいる少女は源氏の妻になってしまったのである。源氏にすべての生涯を預けた妻にである。そこにまた、空恐ろしさを源氏は感じた。

 几帳が払われて、二人の姿が参列者の前にさらされる。これが露顕だ。続いて催馬楽が歌われて、酒宴となった。

 源氏は、昨夜のことを思い出していた。指一つ触れずに並んで寝ただけの一夜――はじめての妻、すなわち今の小野宮左大臣の娘のときと同じである。最初の妻と、そしてこれが生涯最後の妻となろう人との婚儀が、似たような状況になったのである。

 所詮自分はこうなのだと、源氏は思った。これが運命なのだ、縁なのだと。

 亡き親友のように、盛んな女性関係は持てなかった。だがひきかえに、紫の上という三界でも最上の女を得た。しかし今は、その紫の上ももういない。

 源氏の耳には、次々に祝辞を述べる人々の声が虚しく聞こえた。祝意は本当に新しい妻を愛していてこそ、意味があるものである。

 この状況を、祝意を述べている人々の父であった亡き友人はどう見ているだろうかと、源氏は思っていた。やはり祝意を述べてくれるかどうか……宮の実父の亡き朱雀院も、どうご覧になっておられるだろう……、ましてやまだこの世にいる多武峰の前少将の阿闍利がこのことを知ったら……嘲笑し罵倒するかもしれない。何というじじいかと。自分が宮と間違いを起こしたときに、あれほど責めたてておきながら、その本人が……と。

 これでよかったのだろうかと、まだ源氏はためらっていた。目の前にいる人よりも、目の前にいないかあるいはもうこの世にいない人たちの目の方が気になって仕方がない。引き返せるものなら引き返したい。しかし源氏は、もう餅を食べてしまっていた。全身が、ほんの少しだけ震えた。恐怖感さえ感じて、背筋が寒くなりもした。

 そこへ、宰相中将が瓶子を持ってやってきた。

「これで我が姉の前の北の方様が亡くなったとはいえ、我ら九条家と大納言様のご縁が切れることはなくなりましたな。新しい北の方様も、養女とはいえ我らが妹ですから」

 宰相中将に酒を勧められて、源氏は苦笑した。しかし確かにその通りで、はからずも源氏は今再び、そしてあらためて九条家の縁者となった。一門の外にありながらも、まだやっと長男が公卿の座に連なっているだけの兄弟たちの、亡父に代わっての庇護者という立場になったのである。そしてそのことは、反対勢力の小野宮左大臣と真っ向から立ち向かう位置に、前右大臣に代わって立たされたことをも意味した。


 数日後、源氏は女三宮――愛宮を、西ノ対から北ノ対に移らせ、薫を高松邸に移した。源氏も同行して女三宮――愛宮と薫を対面させ、乳母が薫に言い聞かせた。

「薫の君様の、新しいお母様ですよ」

 薫はわけが分からず、きょとんとしていた。新しい母ではなく本当は実の母なのだが、そこまでの説明は薫にはなされていない。

「お母様って母上? 新しい姉上ではないんですか」

 宮はその薫の言葉に少しだけクスッと笑っただけで、その後は全く本来の我が子である少年には関心を向けずに隣にいる猫の背をなでていた。

 そのまま薫は乳母と女房たちにかしずかれて、この北ノ対で暮らすことになる。


 やがて季節は、間もなく冬になろうとしていた。ちょうどその頃である。

 源氏は太政官で、諸国からの申文を決裁していた。その時、大きく床が突き上げられた。そして、爆音を立てて殿舎が激しく揺れた。

「地震!」

 と、誰かが叫んだ。

「大きいぞ」

 舎人たちは戸惑い、文机の下に頭を突っ込んだりしている。

「大きいな」

 源氏はそう言って上の方を見回しただけで、石の床の上に敷かれた畳の上に平然と座っていた。

 やがて、揺れも収まった。大きいと思った割には殿舎に損傷もなく、机の上の書類さえ落ちていなかった。源氏は畳から降りて沓を履き、外に出てみた。外の景色は、何ら変わってはいなかった。

「内裏に走れ。帝のご安否を!」

 源氏はすぐに令史に叫んでいた。やがて内裏からも、内裏に何の損害もなく、帝をはじめすべて無事だという知らせが届いた。

 また、揺り返しがあった。若い人たちはうろたえて、わめいて走り回っている。

「落ち着け。どうということはない。あの播磨の地震はこんな程度ではなかったぞ」

 確かに、源氏が須磨にいるときに播磨や摂津の西部を襲い、多大な犠牲者を出した震災に比べれば、物の数ではない地震であった。しかし源氏がいくら落ち着けといっても、人々にはぴんとこない。うろたえ走っている若者たちは、あの播磨の大震災を知らない。その頃は、まだこの世に影も形もなかった人びとだ。そのような人たちがひげを生やし、働き盛りとなって源氏を囲んでいるのであった。

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