6
九月に入ってから、筑紫の宇佐香椎宮に奉幣使が発遺されることになっていた。その宣命の奏案を源氏が書くことになっていたので、彼はしばらくそれにとりかかって私事を忘れることができた。
しかしその間も、季節は確実に変わっていく。秋も深まって、紫の上のいた日々がどんどん遠ざかっていく。
そのうち、四宮が加冠後に初めて清涼殿で帝と謁見した。そして宮中はそのまま、新嘗祭の準備にと慌ただしくなった。
源氏は女三宮を迎えるなら、その新嘗祭の前にとひそかに思っていた。決意した以上、いつまでも先送りにはできない。
ある日源氏は、公務の合間を見て高松邸を訪れた。西ノ対は素通りしてまず明石の御方のいる北ノ対に渡り、そこで女三宮の過去をも含めて自分の決意のすべてを打ち明けたのである。
「西の御方とは同じお屋敷のうちに住みながら音沙汰もしたことはありませんでしたけど、そのような心の傷をお持ちの方とはつゆ……」
そう言って女は、目に袖を当てる。
「今もまだ、かなり心を閉ざしているようだ」
「それで合点が参りました。時にはつれづれに、同じお屋敷の内に住むもののよしみとしてお便りを差し上げましても、梨のつぶてでございましたから」
源氏はふと屋根裏の
「しかし、娘と同じ年の女性を、しかもこのような年になってから妻にしなければならないなど、何の因果であろうか」
「どうぞ、私にはお気兼ねなく」
昔から、嫉妬ということをしたことのない女だ。
「そう言ってくれたら、心が休まるよ。紫の上からも、このことを遺言として言われたのだ。そうでなければ、たとえ帝の仰せとて、受け入れられることではなかったな」
「紫の上様がお考えになって、さらに帝とて同じことを仰せになったとあらば、そうなさるのが一番よろしいかと。薫の君もこれで行く末安くおなりになりますし。薫の君様も、もし紫の上様がご在世なら、姫と同様に立派にお育て下さったことでしょうけれど」
本当にこの女性は、源氏自身を愛するのと同様に紫の上をも愛してくれていたのだ。自分と紫の上は一心同体であったと今でも信じている源氏は、明石の御方がその紫の上をも愛してくれていたということで、自分をも愛していてくれていることを実感していた。
若かった頃は愛と情欲は紙一重で、往々にして独占欲を愛と勘違いしていた。だが今は老境に達して、魂と魂が触れ合う本当の愛に巡り会ったと源氏は思う。だが、そのような愛を新しく妻になる若い女性にも持てるかどうかということについては、源氏には自信がなかった。それを考えると、また気が重くなる。
「帝にお返事は、もう?」
「親代わりとしてお育てするつもりでならということで、仰せを承りますとは申し上げておいた。お喜びになって下さったよ」
「やはり、西宮邸に内親王という形で、でございますか?」
「いや。宮はまだ九条前右大臣の養女のままだからね、そのまま九条家の五の君の愛宮として来てもらう。そうすれば紫の上の妹ということになるし、紫の上がいなくなった今やそして今後も、私は九条家の兄弟たちと義理の兄弟でいられることになる」
そのような打算が源氏の決心の背後にあったのも事実である。
「ついては、あなたが西宮邸に移ってはくれないか」
これも、明石の女は快く承諾してくれた。彼女とて、当然その話がくると覚悟していたようだ。女三宮がここにいてそして源氏の妻になる以上、同じ屋敷のうちに二人の妻が同殿することはできないからだ。
「今日は泊まっていくよ」
源氏はそう言った。久しぶりのことである。それは床をともにすることをも意味していた。紫の上とさえ、魂の結びつきが強くなっていただけに体の交わりはすでになくなっていた。ましてやこの明石の御方とは、からだの方は全く疎遠になっていたのである。
明かりが消された。
老夫婦は、褥の中で強く抱擁した。頬と頬をすり寄せる。源氏は明石の御方のことを、心からいとしいと思った。
髪を指ですき、そしてそのままその指を女の胸まで這わせてみる。若い女のように弾力性はないが、軟らかかった。全く明かりのないところでの行為でも、それがお世辞にも形がいいとはいえないことは分かる。それでも女はよく反応し、大胆な声を出した。
そして二人は互いの足を絡ませ、上半身はとろけて溶けあってしまうのではないかと思われるほど固く固く抱き合っていた。
源氏の胸は、不思議と高鳴った。腕の中にいるのが、若い恋人のような気がしたのだ。もはや二人の燃え方は、若者同士のそれであった。紫の上ほどではないにしろ、この女ともともに過ごしてきた年輪がある。合わせた肌と肌を通して、言葉はいらない熱い魂が流れあっている。そして源氏の魂は、今度は震えていた。
女は、少し肉付きがよくなっていた、降り積もった年月のせいだ。姫の母でありながら母と名乗れず、日陰の女として暮らしていたのだ。しかし、源氏の妻であることには変わりはない。紫の上がいなくなっても、源氏には
帰りの車の中でも、秋が深いというのにまるで春のように源氏の心は弾んでいた。実に気持ちが晴れ晴れとしている。このようなさわやかな気分は、久しぶりであった。それが明石の人の持つ魔力だ。
たのむこと なき世につゆは 消えぬれど
なほなぐさむは 残れる白玉
源氏は西宮邸に戻ると、すぐに明石の人へまるで若い恋人同士よろしく
そしてそのまますぐ、参内の仕度にかかった。その仕度が終わる前に、早くも返り文は来た。使者もそうとう馬を飛ばしてきたようだ。四条西壬生の西宮邸と西洞院三条坊門の高松邸は、距離はかなり離れている。
玉ぞ消え 露こそ残れど 秋の野に
などかなぐさむ まさらぬつゆに
どこまでも謙虚な人だと、源氏は思った。またそのような女性と生涯の中で知り合い、また妻にできたことを誇らしくも思っていた。
宮中でも宇佐使の発遺が終わり、源氏の公務も一段落ついた。
この頃、秋の除目で源氏の次男に左近衛少将の役がついた。母の喪も明けたからである。その左近衛府の長官である大将は、源氏自身であった。従って、自らの配下に息子を置いたことになる。もっとも大将とはほとんど名誉職で、実務はすべて次官である宰相中将に任されていた。
しかし、その宰相中将とて参議との兼任であるから、少将となった源氏の次男には激務が待っていることとなる。これからは次男も毎朝車に乗っての参内となるのだが、大納言左大将の父のように重役出勤というわけにはいかないから、源氏が起きたときは東ノ対の主はすでに出かけた後であった。
そして明石の御方にはよき日を卜して西宮邸に移ってもらい、そのまま姫のいる西ノ対に入ってもらうことになった。
姫を明石の御方にお返しするという紫の上の遺言を、源氏は形の上でだけでも実現させたかったのである。それで、紫の上の気持ちを無にすることはなくなる。
だが、公には母娘の名乗りをさせてあげるわけにはいかない。それが源氏にとっては心の痛みともなっていたが、いずれはもっといい形にできればと思っていた。
明石の御方の引っ越しの当日、源氏は車の着く細殿まで自ら迎えに出て、明石の御方を西ノ対まで案内した。西ノ対では妻戸のすぐ内側の廂の間に姫が座って待ち、その脇には多勢の女房たちも控えていた。高松邸の北ノ対付きだった女房たちは、それぞれ高松邸の寝殿と西ノ対に振り分けたので、ここへつれて来たのは三分の一程度だった。それがこの屋敷の西ノ対付きの女房と合流することになる。
姫は裳着も髪あげも過ぎ、成人女性のいでたちになっていた。その姿を実の母親が見るのは、この日が初めてである。だが源氏は、自分の感情を決して思い切り表すことのない明石の御方の姿に、一抹の同情を禁じ得なかった。
「これからよろしくお願いしますね」
明石の人はにっこり微笑んだ。内心は自分の娘を抱きしめたかったであろうが、そのような心はおくびにも出さない。
「私のことは、明石の方とでも呼んでください」
「はい、お方様」
返してもらったとはいっても、決して自分を母と呼べなどとは彼女は言わない。また、真実を知ってはいても自分を母と呼べるはずもない娘の心をも、十分に察しているようだ。
「あなたのお母様は、とてもすばらしい方でしたのよ。私はその足元にも及びません。でも何かのご縁でともに暮らすことになりましたから、よろしくお願いします」
「はい」
姫は複雑な顔をしていた。その内心が、そのまま顔に表れているようだ。また、源氏とてこの母娘と同席しながら複雑な心境であった。
紫の上は姫を実の娘ではないと意識したことなどなく、実の子と同じ愛情を注いでいた。そして明石の御方も、自分が実の母親であるなどとあからさまに主張したりはしない。そんな二人のすばらしい母親の間に、この姫はいる。そしてその二人の母親が、そのまま源氏の妻たちなのであった。
だが、源氏はそう考えていたとしても、若い姫の心は激しく揺れ動いていることは間違いなかった。それは十分に予想されることだったので、明石の御方は最初姫のいる西ノ対に入ることは少し難色を示したのだが、東ノ対には源氏の次男がおり、だからといって、では寝殿になどという大胆なことを考えるような明石の御方ではない。しかし北ノ対は源氏にとって紫の上との思い出の聖域なので、源氏がどうしてもここは空けておきたかったのであった。
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