梅雨もようやく明けて暑い日が続くようになった頃、源氏は西宮邸に戻った。

 思えば一年以上も源氏はここを離れていたことになる。それでも実に手入れが行き届き、長い間主人が不在だった屋敷とは思えないほどだった。屋敷の主人と家司は主従関係ではなく雇用関係にすぎないことを考えれば、これは異例なことである。

 源氏は寝殿に入った。そこには姫とともに薫が来ていて、源氏の帰りを待っていた。姫はまだ、喪服姿であった。

「お帰りなさいませ」

 しおらしく姫は、源氏の前で手をついた。そして顔を上げたとき、源氏は思わず息をのんだ。ほんのわずか見ない間にも、娘はどんどん成長していく。一歩一歩女になっていっている。そしていくら表向きは紫の上の娘ということになっていても血は隠せず、確実に実の母の明石の御方の面影を宿してきている。

 女三宮はこの姫と同じ年だ。その自分の姫と同じ年の女を妻にという話が、今自分に降りかかっていることを不意に源氏は思い出した。もし目の前にいる自分の娘が、自分と同じ年の老人に嫁ぐことになったりしたら……そのようなことは考えるまいと、源氏は黙って首を横に振った。娘の夫となるべき人は、すでに定まっている。

「父上、お帰りなさいませ」

 もう一つの甲高い声に、源氏は我に返った。薫ももう昔のように胸の中に走りこんできたりはせず、神妙に手をついている。源氏は微笑んだ。この子に罪はないのである。こんなにも自分を父と思いこんでいる薫が、今さらほかの男を父と呼ぶはずもないという考えが頭をよぎった。幼い薫は、まだ喪服を着る必要はない。

 そこへ、次男もあいさつに出てきた。姫と薫は西ノ対に、次男は東ノ対に別れて住んでいるが、ともにまだ喪服であった。ただ、この次男だけが、唯一の紫の上の真の忘れ形見なのである。源氏は思わず目を細めた。

「お帰りなさいませ」

 墨染めとはいえ、次男は立派な大人の直衣姿である。

「留守中、世話をかけたな。よくこの屋敷を守ってくれた」

 いつになく源氏は優しい面差しを次男に向けた。そして娘と息子の喪服に、少しばかり嫉妬を覚えた。妻の喪は三カ月で明けるが、母の喪は一年間続くのである。だがその子たちが喪服を脱ぐべき時も、今では近づきつつあった。

 夕方になってから、源氏は寝殿の簀子から久しぶりに庭を眺めてみた。こことて、紫の上との思い出がないわけではない。

 今や、庭の池には蓮の花が盛りであった。その蓮の花を簀子に立ったまま、源氏はじっと見つめていた。うつし世の蓮の葉は、傾きかけた陽光の中で微かに揺れている。極楽の蓮の上には、今ごろ亡き妻が座しているのだろうか……しかも中央ではなく片方に寄って……そう、自分の席を空けて、待っていてくれているはずだ……早く往かねば……そう思うが、仕方なく自分は生きている。仏道に入ることもできないのに、死ぬことなどなおさらできそうもない。死ねないので、仕方なく生きているのだ……源氏がそのようなことを考えているうちに、刻々と夕陽は西に傾いていった。

 夜になってから、寝殿に政所の別当が来た。

「お留守中のことについて、申し上げます」

 目の前にいるのは、源氏と同じ年の老人である。乳兄弟めのとごとして長く接してきた相手だが、しばらく会っていなかったせいか今宵の源氏にとってはこの老人が妙に懐かしく感じられた。

「よくやってくれた。よく守ってくれたな、惟光」

「殿がご不在の間、次郎君がご立派な御主でございました」

 源氏は頭がくらっとするのを感じた。遥か遠い昔に聞いたことがあるような言葉だ……そう、明石より戻ったときに、源氏の不在中における紫の上女主ぶりを評した女房たちの言葉だった。それから源氏は、目の前の現実世界の乳兄弟の顔に目を戻した。

「惟光、老いたな」

「お互い様でございます」

「しかし惟光にはもう、多くの孫がいるな。私はまだ一人だけだ。もうすぐもう一人生まれるけどな……」

 あとは何も言わず、互いに笑顔のままうなずきあっていた。この男とは、言葉はいらない。実の兄弟以上に多くの時間をともにした存在で、源氏にとってその青春時代の証人でもある。

「今夜は七夕でございます」

 惟光に言われて、源氏ははじめてそのことに気がついた。

「そうか。一年に一度の天の逢瀬か。うらやましいことだな」

 それ以上は、源氏は口に出して言わなかった。言わなくても、惟光ならば分かってくれるはずだ。源氏と紫の上は、一年に一度の逢瀬ももはや許されなくなっている。それでも源氏は、今も亡き人の幻ばかり求めて生きていた。

 この屋敷では当然のこと一切の七夕の行事はなく、管弦の遊びもなかった。東ノ対や西ノ対の室内の調度がまだ喪中のもののままだというばかりでなく、それ以上のものが源氏の心の中にあったからだ。


 紫の上の一周忌の法要は、二条邸で行われた。葬儀の日は気が動転していて何が何だか分からないうちに法要は終わっていたが、今度は幾分落ち着いて源氏は準備を進めていった。その間だけ公務に加わったこの私事で源氏はあたふたとし、女三宮のことは少しだけ忘れることができた。法要の手筈もまた長男の左兵衛佐が指揮し、僧都との相談の上で順調に進んでいった。

 そうして迎えた当日には中宮と同腹の前右大臣の遺児である九条家三兄弟も顔をそろえ、四十九日の時と同様に故人の遺物でもある曼荼羅の供養が行われた。

 僧の読経の声を聞きながら、源氏は何とも言えない不思議な気分に包まれていた。あれからもう、一年もたってしまったのである。それが嘘のようにも感じられた。一年も、源氏は紫の上なしで生きのびたのである。

 彼女が逝った日はもう一日たりとも生きていくのは不可能であるかのようにも思われたのに、源氏は一年も生きてしまったのも現実であった。これからも自分は一人で生きていくのかと思ったときに、もう一人の自分が「あの話はどうするのだ」という意地悪な耳打ちをしたりする。

 女三宮のことだ。彼女にあの過去がなければ、次男の嫁として迎えることもできる。かといって、今は多武峰にいる若者を今さらに恨むこともできない。いずれにせよ、女三宮の過去をともに背負えるのは、今では源氏しかいないことも確かである。妻の遺言もあり、また帝からの仰せでもある以上、やはりそうするしかないのかとも思う。

 亡き最愛の人の法事の席でこのような思索をしなくてもいいようなものだと源氏は自分でも思うが、帝へご返答申し上げる期限であった妻の一周忌が今すぎようとしているのである。


 その後も幸いなことに公務が多忙を極め、源氏は帝にお返事申し上げる機会もなく、また激務に気をそらせる日々を送っていた。ましてやその公務も源氏の私事と無関係ではなかったので、余計に彼はそれに没頭することができた、すなわち、帝の四宮の加冠である。

 そのことに関する議定は源氏の亡妻の一周忌の前より宮中では続けられていたが、いよいよその月を迎え、加冠の役を源氏が務めることとなった。東宮の時は左大臣であったが、やっと今度は源氏にその役が回ってきたのである。中宮は今でこそ亡き人となっているがその言葉は生きており、間違いなく源氏の姫は四宮の妃となる。そのことは、帝も保証してくれているのだ。

 ――これは賭けだな……

 源氏は心の中でつぶやいていた。それは、亡き親友の口癖でもあったことだ。だが源氏は故人がそうであったような策士ではなく、その賭けも我が身の栄達のための賭けではなかった。すべてが姫の幸福と、姫の外祖父である故明石入道の遺言のためであった。

 しかし源氏は、四宮の加冠のあとの添伏に自分の姫を出さなかった。これだけは断固拒んだのである。添伏の女は愛されることなく幸せにはなれないというのが、源氏の経験上の知恵であった。

 現に皇太子妃として添伏で入内した朱雀院の女一宮も、今では凝華殿で東宮と同居しているわけではないと聞く。さらに、東宮の加冠、すなわち女一宮の入内方すでに一年半以上がたっているが、東宮妃懐妊の話はまだ聞かない。

 ――たとえ東宮妃となったところで、女一宮は幸せにはなれないでしょう。皇子も望めないでしょう……かつて亡き中宮が生前、源氏に言った言葉だ。それが今、あらためて源氏の頭をよぎった。その言葉の真意はいまだに分からないが、東宮の生母自身の口から出た言葉だけに、源氏はいつまでも忘れることができずにいた。

 いずれにせよ、今の東宮が即位した暁には四宮が次の東宮になるという望みは十分にある。前右大臣がその娘の中宮を今の帝に入内させたときは朱雀院のご在位中で、今の帝はまだ東宮でさえもなく帝の弟の一親王にすぎなかった。そして源氏の亡き友は賭けに勝ち、娘の夫は立太子してさらには皇位に即き、娘は中宮となった。それらのことが、今と状況が似ている。今の帝を源氏の故父院になぞらえるなら今の東宮は朱雀院、そして四宮は今の帝ということになる。そしてその四宮に嫁する源氏の娘は、亡き中宮に当たるということになろう。

 ただ、昔と一つだけ違うのは、弘徽殿大后になぞらえられるべき中宮がすでに世にないことである。


 四宮加冠の当日、清涼殿の母屋にはことごとく御簾が下ろされたが、帝の昼御座ひのおましの前の御簾だけは上げられていた。四宮の座は廂の、帝の御座に向かって左の方で、ちょうど石灰壇の前あたりであった。

 源氏はいつになく緊張していた。加冠役の座も同じ廂に設けられている。やがて理髪が終わり、源氏の出番となった。源氏はゆっくりと、若き親王に冠をかぶせる。この若者が我が娘を将来幸せにしてくれるように……そんな切なる願いをこめて源氏はことに当たっていた。

 その日、加冠した四宮は三品に除せられた。公卿たちは加冠の儀に引き続き、宜陽殿での宴となる。本来なら同じ頃に、加冠した親王に添伏の入内があったはずだ。もちろん、四宮の場合はそれはなかった。


 四宮の加冠が終わったとなると、その将来の花嫁となる源氏の姫の裳着も執り行わなければならない。

 西宮邸での源氏の姫の裳着には帝のお使いも遣わされ、小野宮派を除く公卿もことごとくそろって盛大なものとなった。だが、源氏は一抹の寂しさを感じていた。

 女三宮の裳着は人目を忍んだ果かないものであった。かくも盛大に裳着を祝われることのありがたさを、娘は分かっていないかもしれない。しかしそれはまた、仕方のないことでもあった。


 その数日後、激しい風が吹きすさび、格子を下ろしても風に吹き上げられて激しい音を立てていた。女房たちはおびえきって、あちらこちらで肩を寄せ合っていた。

 源氏は冷静だった。彼の心は、嵐どころではなかったからである。その心は、年がいもなく熱くなっていた。この日源氏は、ついに女三宮を亡き友人の五の君愛宮として、新たな妻に迎える決心をした。

 どう考えても、それ以外にいい方法が思い浮かばない。娘も裳着を終えて成人したのだから、同じ大人の女である女三宮を妻に迎えても何ら支障はないことになる。そしてそのことによって薫も幸せになるし、何よりもこのことは亡き妻が言い遺していったことなのだ。それに、本来なら自分がそう思ったとしても帝のお許しが出るかどうかが問題となるのに、逆に帝の方からも同じこの話があったのだ。

 すべてがそうするべく仕組まれていると、源氏は目に見えない運命の手を感じていた。

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