鬱陶うっとうしい梅雨が続く。

 天が泣いていると、人々の心もどうしても湿っぽくなってしまう。今年もまた五月の宴はなく、そのことが人々の寂しさを余計に増した。

 源氏は女三宮のことが気にはなっていたが、なかなかそれを左兵衛佐に切り出す機会がなかった。

 そんな折、久しぶりに雨もあがって月が顔をのぞかせた晩に、左兵衛佐の方から源氏のいる西ノ対に渡って来てくれた。月はかなり膨らんで満月に近く、夜空は晴れているわけではなくて黒い雲に間から月はほんの顔をのぞかせている程度であったが、それでも久しぶりに見る月であった。

「独り寝にもだいぶ慣れたと思ったけど、やはり月の夜は寂しさが身にしみてね」

 源氏は左兵衛佐が座るや否やそう言って苦笑し、奥の女房たちに声をかけた。

「何か肴になるものを、持って参れ。家司たちを煩わせるまでもないぞ」

 源氏の命を受けて立つ女房たちの衣擦れの音が響き、それを聞きながら源氏は息子に酌を勧めた。

「私はそろそろここを出て、西宮邸に帰るつもりだ」

 それを聞いた息子の顔が、一瞬輝いたように見えた。だが、その内容に喜べば父に対する礼を失すると自制してか、左兵衛佐はすぐに真顔になった。

「いかがなさったのですか? 急に」

「思うところがあってね」

 源氏はそう言いながらも、女三宮のことをどう切り出していいものか悩んでいた。

 妻子ある息子に、もう一人の妻を勧めるのである。世間ではあまり聞かない話だ。息子とて自分の用向きがあって、今日ここへ渡って来たのであろう。息子がそれを言い出す前に、源氏としては自分の用向きである女三宮のことを持ち出したかった。そのきっかけとして、源氏は西宮邸に戻る話を持ち出したのであった。

 ところが急に息子は、居を正した。

「実は父上、申しあぐねていたことではありますが、西宮邸にお戻りになるということでしたらはっきりと申しましょう」

 源氏は眉を動かした。自分の用向きを切り出すきっかけのつもりだった西宮邸帰還の話が、逆に息子にそのよう向きを切り出させる機会を与えてしまった。

「妻をここに迎えて、北ノ対に住まわせようと存じまして」

「おお」

 これは意表を突かれてしまった。源氏は言葉が続かなかった。

「よろしゅうございましょうか」

「よろしいも何も、ここはおまえの屋敷じゃないか。私の許しなど必要ないだろう」

 源氏はただ、苦笑するしかなかった。今度は本当に、息子の顔は輝いた。

「実は、二人目ができまして……」

「おお、そうだったのか」

 それならば無理もない。源氏は自分のさっきまでの悩みも忘れて、素直に喜んでいた。

「あれともいろいろありました。絶縁状態になったこともありましたが、女二宮様のことでは私も血迷っていたようです。いい年をして……」

「おまえがいい年なら、この父はどうなるのかな」

「いえ、父上はいつまでもお若く、お美しうございますれば」

「こいつ。何も出ないぞ」

 二人の父子の笑い声が、庭まで響いた。

 そこへ女房が、肴を運んできた。それで、それまで素直に笑っていた源氏の心が、少しだけ現実に引き戻された。

「今は妻とも、仲睦まじくしております。何しろ、幼い頃から見知った相手ですから」

 とても切り出せない……それが源氏の実感であった。あれほどもめていた妻と今は落ち着いて仲良く暮らしていると言われては、そこへ女三宮が入り込む余地は全くない。

 そのうち、月を愛でるために一枚だけ上げていた格子から、少しだけひんやりとした空気が入ってきた。そのうち、庭を夜の雨がうがちはじめた。

「降りだしたようですね」

「粛々暗雨窓を打つ声……というところかな」

「さすがは父上、すぐに詩が出るとは」

「こんなの、だれでも知っている平凡な詩じゃないか」

 苦笑しながらも、源氏はすべてをあきらめる覚悟ができた。

 もう少し時がたてばあるいは可能かもしれないが、しかし女三宮の立場からいえばこれ以上時を待つことはできない。これ以上先送りしたら、女三宮は生涯独身で終わる可能性が強くなる。

「そろそろ紫の上様の一周忌でございますね。父上はどのようになさろうとお思いですか?」

 息子の方から話題を変えてくれたので、源氏は少しは肩の荷がおりた。

「そう特別なことはしないつもりだ。遺していった極楽曼荼羅の供養をと考えているよ。写していった経も多いからね。僧都と相談すれば、ことはうまく運ぶだろう」

「紫の上様は、あとあとのことまで考えておられたのですね。もっとお子がたくさんあればよかったのに」

 亡き前右大臣は実に子沢山で、その数は二桁にのぼっていた。父院もそうだった。だが源氏の子は仮に薫も入れたとしても四人だけで、その中でも実際の紫の上腹は次郎君ただ一人である。

「私は子の数にはあまり恵まれない宿命さだめのようだね。もうこの年になっては、これ以上は望めまい。だいいち、生んでくれる人がいないからな。だから、おまえがこの源家の末を広げていってくれよ」

「そうおっしゃいましても、私ももう三十路みそじを越えましたが」

「何、まだまだ若い!」

 親子はさらなる笑い声の中で、杯を重ねていった。しかし源氏の心の中には、ひとつの黒い点が落とされた。

 その晩、息子はそのまま西ノ対に泊まっていった。


 源氏は、清涼殿で帝の御前に畏まっていた。

「そうですか。それなら無理強いしましてもね」

 源氏のあからさまな報告に、帝も状況をお察しになったようだ。そのあと、帝はあごに手を当てられ、声こそお出しにならないまでもうなるような感じで何かを考えておられた。

「次郎君はいかがですかな? 確か年は女三宮と同じだったのでは」

 帝がそうお考えになるのは、自然なことである。だがそれは、帝が何もご存じないからだ。

「それは……」

 源氏は言葉を濁した。女三宮の夫になるのは、彼女の過去をもすべて許容してともに背負い込むことができる人でなくてはならない。そして、薫の父になることにもなる。確かに薫は次郎にはなついているが、それは兄として慕っているのであって、その父親になるには次郎は若すぎる。

「兄君。いかがですかな」

 源氏は、口を一文字に結んでいた。たとえ加冠を済ませているからといって、あの若い次郎にすべてを打ち明けることは絶対にできない。

 次郎はまだ十五歳である。自分と同じ年の女三宮が実は薫の実母であるという事実を突きつけ、その薫の父親になれというのはあまりにも残酷だ。若い心に与える衝撃は、計り知れない。

 さらには、女三宮が納得するかどうか……。

 女三宮の幸福は、いったいどこにあるのだろうか……。

「次郎は、若すぎます。それに今は、母の喪中ですし」

「加冠は済ませたではありませんか。喪だってじきに……」

「いいえ!」

 帝のお言葉をさえぎってまでも、源氏は力強く首を横に振った。

「なりませぬ!」

 あまりの源氏の意地になった拒絶に、今度は帝の方がたじたじになってしまった。

 そして、しばらく時間が流れた。ようやく落ち着きを取り戻した帝は、また少しためらったようにお考えになった末、低い声でゆっくりと言われた。

「女三宮を、兄君にもらっていただくというわけには参りませんか」

 源氏ははっと顔を上げ、龍顔を拝し奉った。

「もらう……とは、養女にということですか? しかし私の養女になったとて、状況は何ら変わらないと思いますが。やはり、しかるべき婿を探さねばなりませんから」

「いえ、その……、兄君に婿になっていただけたらと」

 最初の帝のお言葉に、源氏はまさかと思ったのだったが、そのまさかは現実であった。

「しかし……」

「お願い致す。兄君」

「恐れながら、帝の御養女にされて、内親王に復されては……」

「それこそまた、婿選びでひと騒動起こることになりましょう。今はまだ前右大臣殿の養女ですからまだいいにして、朕の養女となれば内親王降嫁となりますから余計に相手は限定されるでしょう」

 確かにその通りである。本来の源氏なら、このような現実離れした突拍子もない話は、たとえ帝のお申し出であろうと問題にもしなかったはずだ。ところが全く同じ内容のことを、源氏はすでに亡き妻の遺言として聞いているのだ。

 妻に言われたときも本気にはしていなかったが、全く同じことを帝からも言われたとあっては、心に突き刺さらないはずがない。

「しかし、女三宮様は我が姫と同じ年です」

「よくあることです。世間では」

「それに私は老い先短い身。いつ、宮を残して逝くことになるか」

「そのようなことはおっしゃいますな。兄が弟に必ず先立つと決まったものではありません。わたしが万が一のときでも、宮が兄君の袖のうちにいればひと安心です」

 帝とて中宮の逝去で、ずいぶんとお心が弱くおなりあそばしているようである。それは源氏にとっても、我が身に重ねて痛いほどよく分かることであった。

 亡き妻はすべてを知った上であのようなことを言ったのだが、何もご存じない帝が同じことをおっしゃるというのは、帝が心弱くなられている証拠だ。

 源氏は思わず涙をこぼしそうになってしまった。今はなんと申し上げていいか分からない。とにかく今この場で結論を出すことはできそうもなかった。

 亡き妻と帝から同じことを言われたというのは、単なる偶然の一致を超えた神秘の世界に属するような気もしたからだ。

 源氏は目を伏せた。そして、しばらく無言でいた。

「考えさせていただけないでしょうか」

「あくまで前右大臣殿の養女五の君としてですから、内親王降嫁というような仰々しいものにはなりませんし、それに兄君の妻としてといってもそれは表向きのほんの形だけでいいのです。今後も父親代わりとして御養育くださればと思いまして、それでお頼みしたのです」

 帝のお顔は妙案を得たとばかりに輝きはじめた。

「そうなれば婿選びの心配もなく、生涯独身というわけでもなくなり、確かな後見もできます。これ以上のことはないではありませんか」

 帝のお言葉には、さらに熱が入ってきた。源氏は浮かない顔であった。

「いずれにしましても、我が北の方の一周忌が過ぎませんことには……」

 これには帝とて反論は不可能で、源氏は一礼して帝のお顔も拝さずに退出した。

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