第8章 雲隠

 いつになく慌ただしい正月であった。仏門に入って心の平安を求めようという源氏の心境とは、対照的であったといっていい。何しろ源氏が右大臣になってから初めての正月で、いくら彼が平穏に暮らしたいとしても世間がそれを許さない。

 まずは、大臣大饗である。日の設定は左大臣大饗の翌日とした。これまでは客として参列していた大饗を、今度は源氏自身が主催するのである。政所の騒動は、任大臣大饗のときとの比ではなかった。請客使の人選と派遣、さらには朝廷からの蘇甘栗使そあまぐりのつかいの接待と正月気分どころではなく、しかもこれがこれから毎年続くのかと思うとうんざりだという気分がみなぎっていた。

 それでも西宮邸の寝殿で行われた大饗の当日には音楽もあり、また数々の舞も舞われた春うららの一日となった。


 だが翌日から、早速に陣定が続いた。春の除目が始まるのである。帝の御意は小野宮左大臣へは形式的に伝えられるだけで、その御本心はことごとく右大臣である源氏へと流れていった。

 亡き親友が右大臣であった頃もきっとこうだったのだろうと源氏は察していたが、その除目の内容も故九条前右大臣の長男の宰相中将が中納言に、次男は内蔵頭にということであった。

 そしてさらにこの人事が発令されてから五日後には、内蔵頭になった前右大臣の次男を蔵人頭にするという宣旨も下った。蔵人頭は除目職ではなく、宣旨職だからである。

 また、同じく前右大臣の三男の左京大夫は二月になってから、東宮坊の次官である東宮亮の役職を兼任として拝命した。これまでは東宮傳が左大臣、東宮大夫が小一条権大納言と東宮に関する役職はすべて小野宮左大臣の側が牛耳っていたが、その状況が打破されたのである。

 その東宮亮左京大夫が桜のつぼみも開き始めた頃、夕刻になって西宮邸を訪ねてきた。

「咲きかけの桜にひかされて、通う所を間違えたのかな」

 源氏はそう言って笑ってはいたが、内心その用向きが気になってはいた。案の定、通された左京大夫は間もなく三十代も終わるという油ののりきった顔をかなりこわばらせており、すぐに風流な来訪ではないことは察せられた。

 きらびやかな直衣は、実にあでやかでもあった。源氏は形ばかりの饗応の用意を女房に命じ、寝殿の東面で東宮大夫と対座した。

「用向きは私事わたくしごとか?」

「いえ、そうではありませんが、とにかく大変なことに……」

 源氏は五十四歳の顔を幾分硬くし、首をかしげた。亡き親友の三男が私事で源氏の屋敷を訪れても、それは全く不思議ではない。それが宮中ではなく私邸に押しかけてきておいて私事ではなく公事おおやけごとで、しかも大変なことだという。

「公事なら、内裏うちででも……」

「それが……」

 一度目を伏せてから、左京大夫は顔を上げた。

大臣おとどのお耳に入れておきたいと存じたのですが、何分宮中では……」

「はばかりありと」

「いかにも。実は私、東宮坊の亮を拝命して初めて分かったのですが、なんと意外な事実が……」

 源氏はそれ以上言うのを手で制し、控えていた女房たちを下がらせた。

「小一条の東宮大夫と、何かもめたのか?」

「そんな程度のことではありません」

 どうやら左京大夫の用向きは、そんな東宮坊の人事を超えた問題らしい。

「東宮様のことかね」

 源氏の中に、不吉な予感とともにある記憶が蘇った。亡き中宮は、源氏の姫が東宮に入内しても幸福にはなれない、東宮にお子は望めない――そう断言していた。ところが東宮に関してはすべて左大臣ががっちりガードしており、源氏サイドの人間にとって東宮はこれまで幕で覆われた存在だったのだ。

「実は」

 左京大夫は声を落とした。源氏は息を呑んだ。

「東宮様は御正気ではございません」

「御正気ではない?」

 源氏はすぐには、事態が呑み込めずにいた。

「どういうことだ」

「すなわち、御狂疾かと……」

「ちょっと待て!」

 激しく源氏は、左京大夫の言葉をさえぎった。

「滅多なことを申すでない」

「ご不審に思われるのも、ごもっともでございます。平静は実に御聡明な御若君でいらっしゃいますが、時折人柄が変わられまして」

 背筋が寒くなって言葉を失っている源氏を前に、左京大夫は東宮坊に出仕して初めて知った秘密をしゃべり続ける。そしてこのことは、東宮坊の職員しきいんなら、誰でも知っていることだという。

 だが、源氏は知らなかった。おそらく誰も知らないであろう。昨年の新嘗祭の豊明とよあかり節会せちえでも、源氏は東宮の姿を見た。父帝によく似た凛々しい皇太子としての姿であったし、誰もが光り輝くもうけの君としてその将来を期待している十八歳の若者だ。

 そんな姿は、かつて亡き中宮が言っていたこととかみ合わないので、源氏は不思議に思っていた矢先にこの知らせであった。

「修法などは?」

「東宮大夫である大納言殿も左府殿も、表沙汰にはしたくないご威光のようでして行っておりません。行えば表沙汰になります」

「帝はご存じなのか」

「はい」

 少なくとも中宮は知っていたようだから、帝がご存じであっても不思議ではない。東宮傳の左大臣などは狂疾について知っていたであろうが、徹底的に包み隠してきたに違いない。

「そうか……」

 源氏は目を伏せた。またもや暗い心が、波になって押し寄せてきた。だが、いくら左大臣が隠そうとしても、東宮の狂乱が宮中の人々に知られてしまうことになったのは、そのほんの数日後であった。


 その日、東宮は一日中蹴鞠けまりに興じていた。それなら普通の公卿でもよくあることだが、東宮の場合は一人で、しかもご在所の襲芳舎――雷鳴壺かんなりつぼの建物の天井のはりに鞠を蹴上げて乗せようとしていたのである。

 鞠が天井の梁に乗るなんてことはほとんど奇跡であって、確率的には皆無である。それなのに東宮は鞠を蹴上げることに、朝から晩まで一日中没頭していたということである。そして一日のみならず、毎日それを続けているという噂が宮中に広まっていった。鞠を蹴っている時の東宮の殺気には、侍従も恐れをなして近づけないでいるということである。

 そんなことを毎日続けているものだから、ついには東宮は足を怪我したらしい。それでも鞠を蹴ることをやめなかったという。そしてついに侍従に取り押さえられたときにはほとんど歩けない状態になったということである。

 そんな話を、ある日源氏はやはり西宮邸を訪ねてきた左京大夫の兄の蔵人頭から聞いた。蔵人頭によると、東宮は雷鳴壺で寝ているようだ。

「それをお耳にされた帝もご心配あそばされて、御宸筆でお見舞いのお文をお届けなさったところ、東宮様は……」

 蔵人頭の言葉が途切れた。源氏の眉が動く。

「お返事にはお文字はひとつもなく、ただ男根の絵が描かれていたと」

 源氏は返す言葉もなかった。蔵人頭は声を落とした。

「東宮様は、これからも皇太子でおあり続けることができましょうや」

「滅多なことを申すでない!」

 源氏の声が、急に荒くなった。

「東宮様の御狂疾は時折のことで、平素は穏やかにされているとのことではないか」

「はい。確かに。発作が鎮まっております間は好青年の皇太子としてご立派なご様子で、公務に当たっておられますが……」

「それならばなおのこと、廃太子などとんでもないことだ。以後、そのような大それたことを口にするでないぞ」

 確かに廃太子ともなれば、次の東宮は同じ故中宮腹の四宮しのみやとなるであろう。それは亡き中宮の遺言でもあるし、今の東宮にお子がない以上、帝もそのおつもりでおられる。

 しかし、廃太子を受けてというような形で四宮が立太子して、それに嫁いでいる源氏の娘が東宮妃となったとしても、源氏は喜べないであろう。後味の悪さが残るだけだ。あくまで今の東宮が即位してから、四宮には新皇太弟として立太子してほしい。東宮を廃してまでも四宮を立坊させて娘を東宮妃にという野望は、いくら明石の入道の遺言があったにせよ源氏には持てなかった。

「しかし……」

 目の前の蔵人頭は、まだ不服のようだ。やはりその父――源氏の亡き親友だった男の血が流れている。

 源氏の亡き親友は策士だった。朱雀院を無理やりご退位おさせ申し上げ、自分の娘が妃となっている弟宮――今の帝を皇位にお即かせ申し上げた。その彼の娘は中宮となって、今の東宮や四宮、そして五宮ごのみやの母となったのである。

 あの男なら、東宮御狂疾を口実に廃太子をくわだてるかもしれない。しかし、自分はそのような策士ではないと源氏は思う、またなりたくもなかった。今年こそ仏門に入るつもりだった彼は、これ以上政治権力の争いの渦に巻き込まれたくはなかったのだ。

「とにかく、大それたことは考えるな」

 源氏は蔵人頭に釘を刺しておいた。彼ら兄弟にとっては東宮も四宮も自分たちの甥であることには変わりはないが、自分たちの庇護者である源氏の娘が妃となっている四宮を早く東宮にと彼らが考えないとも限らない。しかし、それは源氏にとって、甚だ迷惑なことであった。源氏にとって四宮立坊は自らの権力のためではなく、あくまで娘の幸せを願ってのことだったからである。

 翌日、宮中の宜陽殿で、源氏は蔵人頭や左京大夫の長兄である元の宰相中将――すでに四十代後半になっている今の一条中納言と、蔵人頭から聞いた話について語っていた。ほかには誰もいなかった。すべての話は、中納言にとっては寝耳に水であったようだ。

 そのとき、外の玉砂利を踏む音がこちらに近づいてくるので、二人とも会話をとめた。だが足音の主は左京大夫で、その声が外から響いてきた。

「申し上げます」

 中納言が遣戸を開けると、かつては左近の陣であったが大火の後の改築後は土廂となっている宜陽殿の西廂に左京大夫は控えていた。

「東宮様が雷鳴壷を走り出られてございます」

「何ッ!」

 源氏ともに、あとの二人も立ち上がった。確かに、目の前の紫宸殿の大屋根の向こう側から人々が騒いでいるのが聞こえてくる。また東宮の発作が起こったようだ。

 しかも今度は、お住まいの外に出られてしまったというのだから始末が悪い。

 何はともあれ、源氏は中納言や蔵人頭らとともに、紫宸殿の北の簀子を回って清涼殿の方へと駆けていった。すると、騒ぎとは別に高らかな歌声も聞こえてきた。

 人々が集まって騒いでいるのは、清涼殿の前の中庭であった。その北の黒戸のあたりに人々は群れている。源氏たちはそのまま仁寿殿の西の簀子を渡り、もうひとつ北の承香殿の西の簀子に立った。人々は一斉に上の方を見上げており、その視線の先は滝口の陣の屋根であった。そこには一人の若者が屋根にまたがり、空に向かって放歌している姿があった。

 若者は、紛れもなく東宮であった。だが、顔つきといい声といい、もはや青年ではなく完璧に老人と化していた。

 それを見た源氏は、とたんに全身が震えだした。そして、少ししゃがんで膝をつき、勾欄に手をかけた。今や東宮の顔は、源氏にとって見覚えのある老人の顔となっていた。

 中宮が亡くなった時も、その父の前右大臣の逝去の時も招人よりましかって怨みを述べ、東宮をも許さぬと言っていた老人――自分の娘が生んだ一宮いちのみやをさしおいて、二宮にのみやである今の東宮が立太子したことに憤慨して死んでいった前民部卿大納言……。

 物の怪の正体はそれだと、源氏は確信した。完全にかの前民部卿の顔つきになって、東宮は正気を失って放歌しているのである。

 もう十八年前の出来事だから集まって騒いでいる若い連中は直接には知らないであろうが、あの双六事件の時の前民部卿の蒼ざめた顔を、源氏は昨日のことのように覚えている。

 今や東宮は、完全に浮霊状態となっていた。神仏のご加護も強いはずの天皇すめらみこと家の日嗣皇子ひつぎのみこを浮霊させるなど、前民部卿の霊力はかなり強いらしい。ただ、さすがに浮霊しっぱなしというわけではないようで、東宮が正気に戻っている時間も長いのは、その間は前民部卿の霊は鎮まっているのであろう。

 東宮は霊に操られて、わけも分からなくなって屋根の上で放歌している。操っている霊の方も幽界脱出の罪を犯していることになり、いずれにせよ悲しいことであった。政治という世界の、泥臭い争いの渦の所産である。目の前の光景に、源氏は今さらながらにそれを痛感していた。


 いずれにせよこれで東宮の狂疾は世間一般の目にさらされ、白日のもとにさらけ出されてしまったことになった。四宮立坊は、左大臣側としてはどうしても阻止したいことである。だからこれまでひた隠しにしていた東宮の狂疾であったが、とうとう明るみに出てしまった。

 富小路右大臣が亡くなって源氏が右大臣になったことにより、除目の人事権を源氏が握って左京大夫が東宮亮になったことが発端ではあったが、東宮自身がこのように殿舎を走り出て衆目の前に狂疾をさらしたとあってはもう隠しようがない。

 そこで、それまでは秘密にするために控えられていた東宮のための修法も、もう隠しても仕方がないので堂々と行われるようになった。

 三月に入ってからはそれに加持が加わり、また度者三十人をも賜った。高山寺の聖僧を宮中に召しての修法も行われた。だがそれとは反対に、夏の灌仏会は東宮の御所では中止となり、清涼殿で行われたのみであった。

 このような東宮であるから、その妃である故朱雀院の女一宮との間に子ができようもなかった。女一宮は東宮の狂疾を恐れて、近づこうともしないということである。

 すべてはあの時、亡き中宮が語っていた通りであった。

 その一方で、東宮の弟の四宮の妃となっている源氏の長女の懐妊がその頃になって分かった。それによって、四宮は十六歳と年こそは若いが兄のような異常はなく、男として一人前となっていたことが証明された。源氏の姫ももう十八歳である。また、源氏がほとんど顔も見ずに過ごしている高松邸の女三宮も、十八になっているはずだ。そして源氏が仏門に入ることへのほだしとなっているその娘――すなわち源氏の次女はいまだ二歳であった。


 何から何まで、源氏の意のごとくにならなかった。

 源氏はくたびれ果てて帰宅し、西宮邸の寝殿の簀子から立ったまま庭を見つめていた。庭はうっすらと夕闇に包まれつつある。この屋敷には家司や女房は多数仕えていても、もはや源氏の身内と呼べる人は全くいなくなっていた。だから精神的には、家族を持たない一人暮らしと変わらない。

 長男は独立しており、次男もここのところ通う女ができたらしく、そちらにいりびたっていてこの屋敷には戻ってきていないようだ。

 源氏は孤独であった。人生の終焉をこのような孤独の中で迎えることになろうとは、思ってもみなかったことであった。ただ老いだけが、ひしひしと自分に迫りつつあることを感じている。

 源氏は空に向かって、最愛の妻の実名を小声で呼んでみた。もちろん、返事はない。そしてその父であり、源氏にとっては終生の友人であった人を呼んだ。

「頭中将!」

 彼の最終官職は右大臣で、今やその同じ職に源氏が就いている。しかし源氏の心の中では、彼は右大臣というよりも永遠に出会ったときの頭中将のままであった。

 こんなとき、彼だったらどうしただろうかと思う。しかし彼は逝ってしまった。今は何も語りかけてくれない。

 唯一の源氏の心のよりどころは、異腹ではあるが源氏の弟である帝だけだった。

「兄君、頼みますよ。兄君だけが頼りです」

 折を見ては清涼殿に伺候する源氏に、帝は常にそう言われた。帝とて中宮を亡くしその中宮の父である前右大臣をも亡くし、また今回の東宮の事件にもよって、孤独と不安は源氏と同じ御様子であった。

 勅旨も形式だけはまず左大臣に伝えられても、その御真意を内々に承るのは源氏の方である。帝は源氏の側であった。しかしその帝も、四十をお過ぎになってめっきりお弱くなっているように拝せられた。

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