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これではいくら帝がもち直したからとて、左大臣にとってはすべてが水の泡である。
小野宮邸では大騒ぎとなり、一応の弔意を見せるためにひとつ車に同乗して出かけた右大臣と源氏は、その騒ぎの真っ只中に巻き込まれた形となった。
思えば小野宮邸は、源氏にとって因縁の屋敷であつた。ここで自分はかつて婿として迎えられ、最初の妻が身まかったのもこの屋敷でであった。
だがこの日は、主人の左大臣は不在だった。弘徽殿女御が身まかったのは左大臣が最近になって女御の里邸として新築した東三条邸の方で、左大臣もそちらに行っているという。
右大臣と源氏は
今は数こそ少なくなったが、小野宮邸には源氏にとって顔なじみの女房も少しは残っていた。もはや彼女たちから「お帰りなさいませ」と言われることはないが、その女房たちは源氏の姿を見ると懐かしそうに近づいてきた。
「
乳母は源氏にそう語っていたが、すぐ隣の一段上で聞いていた右大臣もうなずいていた。
「さもあろう。わが身に置き換えれば、兄君のお嘆きもいかばかりかと」
そうは言いながらも、右大臣は本当はどう考えていたかは分からない。たしかに彼の四の君である藤壷女御が去年、帝の皇子を生んでその日のうちに皇子が他界した時の彼の取り乱しようは尋常ではなかった。だが、藤壷女御は今も健在であり、再び授かったお腹の中のお子も順調だ。
右大臣にとって弘徽殿女御の薨去は競争相手の死にほかならない。だが、ここでそれを表に出して喜ぶなどという不謹慎なことは、さすがの彼でもしなかった。
だが彼が勝ちに一歩近づいたのは事実であった。弘徽殿女御の死はその腹中の帝の御子の死をも意味する。
「ううっ」
意味も分からないうめき声をあげて、右大臣はうつむいた。その御子の産み月は今月だったのである。もし疱瘡の流行がなかったら、彼の勝負は実に危ないことになっていたのだ。
それでもこの状況は右大臣にとっても他人事ではない。疱瘡の感染拡大が続いている以上、いつ明日は我が身とならないとも限らないのだ。
「
乳母もその袖で目頭を押さえた。右大臣はすくっと立ち上がった。
「これにてお
「あの、しばし。
乳母はそう言ったが、右大臣は首を横に振った。
「よい。参ったことのみ伝えておいてくれ」
右大臣が立つので、源氏も従った。別に心からの弔問ではないから、このくらいで十分であろうという右大臣の腹であろう。源氏とて、この屋敷に長居はしたくない。あの昔の舅とは顔を合わせたくなかった。朋友の右大臣の兄でありながら政敵であり、また自分を須磨へ追いやった人物である。
紅葉も盛りを過ぎた頃、半年ばかり猛威をふるった疱瘡もやっと終息に向かいつつあった。
もうすっかり快癒された朱雀の院が宇治へ御狩りにお出かけになることになり、九条右大臣とともに源氏もその供に召された。
本来なら新嘗祭も近い忙殺されている頃のことでもあるので、そのような時に狩りの供などに召されたら不平の一つでも出そうなものだが、しかし今回はこの狩りが院の疱瘡からの完全なご快復を物語っているものであるだけに、右大臣も源氏も喜んで供についた。
空はよく晴れていた。供は二人のほかにも右大臣のすぐ下の弟の宰相伊予守もいた。その下の弟の小一条宰相左兵衛督が父の左大臣べったりであるのに対し、宰相伊予守は右大臣寄りで、源氏よりは一歳年長だがほぼ同世代であった。朱雀の院の供には、見事に九条側の人のみがついたわけである。
そのほかの供は二十人ばかりで、行列は南の宇治へと向かった。
かつて御病弱だった頃の院のご在位中の面影は、今回の疱瘡で一掃されたかのようにも見える。誰よりも生き生きとして、お顔も輝いておられた。それはご在位中には決して見せたことのないお顔だった。
宇治院について、一行は遅い朝餉を取った。皆が院と膝をつき合わせてである。時刻はほとんど午の刻に近かった。
「いやあ、私は生き返ったよ」
と、不意に院は言われた。笑顔だった。
「
右大臣が語りかけると、院は一層笑みを増された。
「苦しかったよ。でもひとつだけ、あの病のお蔭で私には約束されたことがある。つまり、今後どんなに疱瘡が流行ろうとも、私は二度と疱瘡を患うことはないということだ」
院は大声で笑われた。
「いやあ、実はね」
院のお顔が、少しだけ真顔になられた。
「私が生き返ったと言ったのは、病からだけではないのだよ。帝の位にいた時は、こんなに晴れがましい気分になったことはなかった」
やはりと、源氏は内心思っていた。その思った通りのことを、院は話し続けられる。
「すべての重圧から解放されて、今は自由を満喫している。それもこれも、右大臣。そなたのお蔭だ。礼を言うぞ」
「はい?」
「母君のお言葉を右大臣が私に告げてくれたお蔭で、私は位を降りることができた」
「いえ、恐れ入ります」
右大臣は苦笑していたが、院はまたにこにこと笑われた。
夕刻には狩りも終わり、帰途につくことになった。来るときは右大臣も源氏もそれぞれの車に乗っていたが、帰りは右大臣は自分の車は空で走らせ、自らは源氏の車に同乗してきた。
「まいったな」
右大臣はまた苦笑した。
「策を弄してやったつもりのことに、あんなふうに礼を言われてはな。あるいはもしかして、朱雀院様は私の謀略に気づいておられながら、あえて喜んでそれに乗ってこられたのかもしれない。策を逆に利用されたな」
「その可能性はある。実際、その前から幾度となく御譲位の御意志をお伺いしていたし」
そう答えたものの、源氏はあまり右大臣の話には乗っていなかった。
「どうしたんだ、今日の君は。宇治院でもため息ばかりついていたではないか」
「宇治だからね」
「あ」
弾けたように、右大臣も声をあげた。
「宇治といえは、修理大夫殿……」
宇治は修理大夫の別業のあった所で、彼はそこで死んだ。しかも源氏が修理大夫と最後に会ったのもこの宇治であった。
源氏はほんの短い間無言でいて、小さなため息をついてから右大臣に言った。
「君は変わったな」
「え?」
「昔の、頭中将だった頃の君とは、まるで別人だな」
「当たり前だ」
右大臣は大笑いをした。
「あんな若僧だったころと同じであってたまるか。もう四十を超えた爺さんだ。君だってお互い様だろう」
右大臣の笑いにつられて源氏も笑ったが、その笑みの中には十分苦笑が混ざっていた。そんな二人の横顔を、牛飼い童が持つ松明の炎が車の前方の御簾越しに微かに照らしていた。
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