薫が小一条権大納言の小白河邸での結縁けちえんの八講にと、宮中で薫は朋友の一条権中納言より誘われたのは六月の暑い盛りであった。

 だが、場所が小一条権大納言の屋敷というのが、薫にはどうも気に入らない。今年四十六歳の権大納言右近衛大将は、故小一条前左大臣の次男である。小一条左大臣といえば薫の父の光源氏の親友であった故九条前右大臣の弟ではあるが、長兄の小野宮前関白の腰巾着だった男だ。つまり父や九条前右大臣とは敵対していた間柄だと聞いていた。

 すなわち、権大納言はの父は薫の父やその親友の弟であると同時に、政敵でもあったらしい。そして、その権大納言の父のブレーンであった小野宮前関白の子が、今の関白太政大臣なのだ。

 だが、そのような政治的なことで薫は気が重かったが、それでも誘いにのることにしたのは行事が結縁八講だったからであった。仏教行事には貪欲な薫である。

 さらに、講師は文殊菩薩の化身と評判が高い阿舎利で、年はまだ若いがその講釈には定評があって、この機会を逃がす手はないと薫は思ったのである。

「少し早く出ますぞ。そうしないと、車も立てられなくなる」

 権中納言は、そう言って笑っていた。


 当日はその言葉通りに、まだ暗いうちに権中納言は冷泉院に薫を迎えに来た。そうして、一つ車で大路を東進する。小白河は鴨東白河の地に近く、東京極を越えた先だ。ちょうど先日亡くなった大蔵卿宮の東二条邸の南側に位置する。

 車の中は、うだるような暑さだった。多くの車が、大路の上を同じ方向に向かっている。その車の中の誰もが、薫たちの車に関心を向けているようだ。忍び出る得も言えぬ香を焚くのはどこの姫かと思っているのであろうが、その香りは薫の自然じねんの香なのであった。

 早くに出たのに、すでに東京極大路は多くの車で渋滞していた。小白河邸の門は、車は一台ずつしか入れない。ようやく車が門内に入って中の貴人が車寄せから殿上に上がると、車は外に出されて大路に立てられる。入る車も出る空の車も、同じ一つの門を通るのだからたまらない。これが渋滞の原因であった。庭には殿上に上がることを許されない身分の比較的低い地下じげの官人がひしめき合っている。その中に混ざって庭に立てられている車は女房車で、貴婦人たちはその車の中で講を聞く。

 講の会場は寝殿だった。廂の間には上達部がひしめき、奥に向かって座る。権中納言も上達部だが、そうではない薫に気づかってひさしの間でも一番後ろに座った。その背後の簀子が、薫の席となった。簀子は、上達部に入らない殿上人の席である。この日は身舎もやと廂、そして簀子との間もすべての半蔀は上下ともにはずされ、御簾も高く巻き上げられていた。

 上達部はそのほとんどが参集しているようで、いないのは関白太政大臣や左右の大臣くらいであった。みな直衣という、くつろいだ服装で来ている。寝殿の入り口にはこの家の主の小一条権大納言の甥だが権大納言の養子となっている左近衛少将が案内役として控えていた。

 時を追うにつれ、薫の周りの簀子の上にも人があふれてきた。

「おお。これは、これは」

 と、一人が来るたびにあいさつが交わされる。町中の寺院での講などのときはこの待ち時間が傀儡師くぐつなどの表演の場となるのだが、今日はそれもない。だから、互いに雑談などをし合って時間を潰すしかなかった。

 ひときわ人日tの注目を浴びていたのは、東三条右大臣の長男の三位の右近衛中将だった。参議ではないけれど三位なので、公卿の中に数えられている。香の薄物の二藍の直衣と指貫のあでやかさはひと一倍であった。

 薫はこの席に、ぜひあの宇治の宮をも招きたかったとつれづれに考えていた。誘わなかったことが悔やまれる。しかし、誘ったとしても来るような宮ではないことも分かってはいる。左大臣であった頃から人付き合いが苦手であったという話は、ほかからも耳に入っていたからだ。

 そんなことを考えているうちに、前に座って薫にはずっと背を向けていた権中納言が、ふと振り向いた。まずは庭の方を見て、それから薫へと目を向けた。

「庭の車も多くなってきましたねえ」

 そう言われて、薫も庭へ目をやった。

 来た時はまだ空き場所があったくらいだが、今はびっしりと車が立っている。車は後ろ向きに三台ずつが連なって、前の車にながえをかけ、その車にもう一台の轅がかけられるという状態だ。これだけの数の車があるのだから、その牛たちは今ごろどこで放たれているのかと思うと、近所の屋敷の庭の被害が想定できる。だが、権中納言は別のことを考えていたようだ。

「この車の数だけ、女人がいるんですよねえ。女房か、あるいはやんごとなき姫君か」

 権中納言にそう言われてから、薫は急に庭の方を見ている気がしなくなった。

 そこへ右近衛中将が来着した。東三条右大臣の長男だ。この日は二藍の直衣が板についていた。いつもは束帯姿しか見たことがない薫の目には、まるで別人のように映った。

 暑いので、皆が扇を使っていた。束帯と違って直衣なら、扇を忘れてくるというようなことがないので便利だ。上達部たちは、時おり庭の方を見ながらひそひそ談笑している。そのうち、寝殿の近くにまで車は立てこむようになった。もはや蓮の花が涼しげだった池さえ、車の陰で見えない。

 そのうちでも、寝殿にいちばん近いところに立てられた車からは、見事なあや出衣いだしぎぬがあった。御簾の中は、どんな美麗な姫君かと思われる。上達部たちの話題は、そこに集中しているようだ。

「少将殿」

 突然権中納言が、案内役の左少将を呼んだ。

「誰か、気の利いた使いのできるものを」

「は」

 すぐに若い家司が、庭先へ来た。その間、権中納言はまたひそひそと、周りの人々と何かを相談していた。そして振り向いて身を乗り出すと、薫の肩越しに庭の家司に何やら言いつけていた。

 家司がまっすぐに向かったのは、出衣のある女の車であった。そこで、何かやり取りをしている。

「左佐殿」

 不意に権中納言は、薫に話しかけてきた。

「もしかしたら歌など送ってよこされるかもしれませんからね、返し歌などを考えておいて下さい」

 権中納言は笑っている。薫もつきあいで笑っていたが、内心は冗談ではないと思っていた。

 いったいこの人たちはここに何をしに来たのかという猜疑心すら生じる。仏道の教えではなく女が目的のようにも思われて、嫌悪感も覚えていた。それは権中納言への嫌悪感ではない。権中納言は好きだが、こういった席でこのような状況に往々にしてなる風潮が薫にはたまらなかったのである。

 一度女の車からこちらへと戻りかけた家司は、また車の方へと呼び戻されたようだ。その間、ずっと上達部たちはざわざわと落ち着かずにいた。そのうち、やっと家司は戻って来た。

「どうだった」

 と、まず権中納言が訪ねた。続いて三位右中将までが、身をひねって首を突き出した。だが、家司はどうももじもじしている。

「どうした。早く言え。かっこつけようとして、言い間違えるなよな」

「それが、たいしたことではありませんが……」

 さらに身を乗り出したのは、権中納言の叔父だが権中納言よりも若い藤大納言であった。

「それが……、まっすぐな気を曲げて……」

「なんじゃ? そりゃ」

 人々ははじめ首をかしげていたが、すぐに互いに笑い合っていた。権中納言は、家司にさらに尋ねた。

「向こうに呼び戻される前は、何と?」

「それが一向に何もおっしゃいませんので、あきらめて戻ろうとしましたら呼び止められたという次第でして」

「しかし、あれは誰の車だ? どなたかご存知か?」

 と、右中将が周りの人々に聞いたが、誰もが首をかしげていた。

 その時、講師が入場した。人々は向きを直し、一斉に静まった。薫はほっとした気持ちだった。聖教を受けるべき尊き場で女とのやり取りばかりを考えている人々の中に、今自分も座しているということ自体、自分も愛欲の泥沼にはまっていくような気がして不快だったからである。

 講師は、薫よりも若そうであった。確かに話はうまい。だが、何かが違うと薫は考えていた。どうも宗教の専門家ほど、真理からは程遠いようだ。釈尊とて弓矢取る家に生まれたのだから、宗教の専門家ではなかったはずだ。それを思うにつけ、薫の心の中を飛来するのはあの宇治の宮の存在であった。

 最初に出てきた講師の阿舎利の講は、朝座のみであった。昼過ぎには、別の講師が来る。その間に、庭の女房車のいくつかは帰っていくようであった。結局あの女たちも聖教の教えを聞くよりは、講師の顔、声、若さなどを求めて来ているようだ。先ほどの出衣の車も退出するようで、薫のいる簀子のすぐ脇を通過しようとしている。後ろの方に立てていたため、その前に立ててあった車にどかして出させてもらうのに大騒ぎをしての挙げ句の退出だった。その騒ぎに、上達部たちは笑っていた。

 その時、権中納言が、退出しようとしている女房車に大声で声をかけた。

「まかりぬるもよし」

 おそらくは法華経方便品の「如是増上慢人、退亦佳矣」を踏まえたものだろう。釈尊が説法中に、五千人の人がきびすを返したことに対する釈尊の言葉だ。するとしばらくたってから、その車の使いの童女が駆けてきた。

「あなた様も、五千人に入らないとは限りませんという申し様です」

 それだけ言って返事も聞かず、童女は駆け戻っていった。権中納言だけが唖然としていたが、皆は大爆笑であった。薫も笑った。権中納言は照れて、苦笑とともに頭をかいていた。

 これで、嫌悪感に縛られっぱなしだった薫の気持ちも、少しほぐれた。暑さで思考力もなくなっていた時のハプニングではあったが、これによって権中納言の人間的側面も見た気がした。


 その権中納言が薫より先にさっさと髪をおろして仏弟子になってしまったのは、そのわずか五日後のことである。しかも道心を起こしてというわけではなく、ある事件に巻き込まれてのこととなる。

 その時ばかりは、薫は世の無常を感じずにはおられなかった。

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