5
その事件のいきさつとは、次の通りである。
夜の書見は灯火の費えも多くなり、他家に世話になっている以上、薫は努めて早く寝ることにしていた。しかしこの頃は夜になっても一向に気温が下がらず、寝苦しい夜が続いていた。
その晩、やっとうとうとしたころに、庭を走る足音で薫は寝込みを起こされた。もう夜半を過ぎていると思われるのに、足音はそのようなことには全く遠慮していないようである。すわ盗賊かと、薫は跳ね起きた。
この冷泉院とて、築地の破れはいくらでもある。盗賊が入ってきてもおかしくはない。薫は急いで端近まで行って、寝殿が見える位置の格子を内側から押し上げてみた。ちょうど半分に欠けた月が、東山の上の空の低い位置にあって庭を照らしていた。下弦の月が昇っているのだからだから、やはりもう夜半は過ぎていたのだ。
寝殿の方では足音の主らしき男が庭先に控え、簀子の家司に何やらものを言っているのが見えた。盗賊ではなかったようだ。だがその後、急に寝殿の方が騒がしくなった。盗賊ではなかったにせよ、やはりただごとではなかったのだ。家司たちの行き交う声がする。殿内には明かりも灯されたようだ。
「灯火!」
と、薫も叫んでいた。控えていた女房がすぐに化粧っ気のない顔のまま、明かりを灯してうろうろしはじめた。
「狩衣!」
次に薫は、そう叫んだ。この際、一刻も早く寝殿に駆けつけたい。直衣を着付けさせたら、時間がかかる。無礼を顧みず、今はとにかく急ぐことにした。
女房とて白い小袖と緋袴という裸姿の上に、
寝殿の前の簀子に控え、薫は自分付きの女房に寝殿の女房へと取り次がせた。すぐに院へのお目どおりの許可が出た。
院はすでに御帳台より出られ、
「
薫が何ごとかと尋ねるのより前に、院の方から口を開かれた。院は烏帽子はかぶっておられるが、やはり小袖と大口袴の上に単衣を羽織っただけのお姿だった。
「大変なことになった。帝が……」
そこで目を伏せて、院はため息をつかれた。
「帝が、鬼にさらわれた!」
「え?」
薫は耳を疑った。そのようなことは前代未聞だ。なんと言葉を返していいのかさえ分からない。
「宮中は壷々まで、隈なくお捜ししたとのことだよ」
「では、宮中の外に……」
「そう、宮中の外に連れ出されたのかも知れぬ。あるいは……。ああ!」
ついに院は、頭を抱えられた。
「鬼というよりも、我に憑いていた物の怪が我が子に移り、自らのおみ足で宮中を出られたのか……」
何しろ帝はこの冷泉院の第一皇子である。それが、弘徽殿女御薨去以来お人が変わられてしまったというから心配だ。
「
不意に、院は口走られた。薫は目を上げた。
「まさか……」
それが大方等大集経、第十四虚空菩薩所聞品の句「妻子珍宝及王位、臨命終時無随者」の一節であることは、薫にはすぐに分かった。
――妻や財宝、皇位でさえ臨終に際してあの世に持っていくことはできない……
「なんでも帝は、この経文の一句ばかりを口癖のように言っておられたとか」
その経文は「唯我及施不放免、今世後世為伴侶」と続く。
――ただ仏道の修行のみが、今生来世についてくる……
薫は、じっと院を見申し上げた。もしや帝も、今年になってからの流行の出家入道……? 夜中に宮中を抜け出されて……。
院は、目頭に手を当てられておられた。
その時、廊下を走る音がした。女房がすぐに取り次ぎに出る。そして、
「薫の君様」
と、妻戸から中を振り返って小声で薫を呼んだ。ほとんど嗚咽に近い状態になっていた院に黙って一礼して、薫は妻戸の方へと向かった。戸の外には、薫の対の屋の家司が控えていた。
「
まずはそのことを、薫は院に申し上げた。ほとんどお応えはなく、院は泣き伏しておられた。それから薫はとりあえず対の屋に戻り、束帯にと着替えさせた。そして車を出させて、西門を出た。下弦の月はだいぶ高くなってきている。それが中天に達した時に、夜が明ける。あとは有明の月となって白く輝くはずだ。
門を出ると柳並木の続く東大宮大路で、門の向かい側には大内裏の築地塀が横たわっている。その塀に沿って北上し、二つばかりの門を通り過ぎれば陽明門だ。
そして、そこを入ってすぐ左が左兵衛府である。冷泉院は、宮中へのお召しにいち早く駆けつけられる近距離にある。
左兵衛府はごった返していた。
督は参議なのだから、仕方がないことでもある。その内裏にいる督からの指示を伝えるために走り回っているのが、蔵人たちであった。
近衛府には、宮中警固が命じられた。まるで固関使発遺と同様の大騒ぎだ。命ぜられて動く方は、何がどうなったのかも分からない状況である。
しかもその指揮も、次官の
薫が戸惑っていると、そのうち宰相左兵衛督が内裏を出て左兵衛府に顔を出した。
「すでに宝剣、神璽は梅壷にお渡りだ」
督は厳かに薫に言った。薫は身が引き締まった。梅壷――凝華舎にいるのは東宮である。その東宮のもとに剣璽等の渡御があったということは、東宮が帝として即位されたことを示す。
「だから、宮中を固めるのだよ」
薫にだけそう小声で説明してから、督はすぐにまた内裏へと戻っていった。
そうして時間が過ぎ、夜も白白と明けそめる頃、警固の配備も何とか一段落した。薫は昨夜以来、ほとんど寝ていない。そこでいいかげんに睡魔に襲われ、石の床の上に一畳だけ敷かれた畳を朱塗りの柱の方へと引っ張って、柱を背にして座って薫は仮眠をとった。
人々のざわめきで目を覚ました時は、外はもうすっかり明るくなっているようだった。平常でもすでに出仕している時刻だ。
薫はとりあえず外に出て、内裏の建春門の方へと徒歩で向かった。
緋色の束帯を着していることで、建春門はすぐに通してもらえる。さらに宣陽門をくぐって宜陽殿で
殿上の間には蔵人たちが、すでに詰めていた。
「本日、新帝ご即位の儀がございます」
入っていった薫に、一人の蔵人がさっそく顔を上げて告げてきた。
「帝ははっきりと御譲位あそばされたのですか?」
「どうも、そのようです。ただ、神剣などが渡御したのは動かしがたい事実ですから」
ここにいる蔵人たちの顔ぶれを見ても、どうやら一切の命令は関白太政大臣でも左大臣でもなく東三条右大臣の方から出ているようである。薫に事態を説明した蔵人も、まだことの成りゆきがはっきりとは分かっていないらしい。薫の問いに対する答えも、歯切れが悪い。
とにかく何がどうなっているのか全く知らされないうちに事は進み、その日のうちに新帝の即位となった。
御年わずか七歳の新帝は冷泉院の上皇の弟君である新院の法皇の第一皇子で、退位されたことになる帝の従弟である。
ところが帝は本当に退位あそばされたのか……それがまだ謎なのである。御父君である冷泉院によると帝は鬼にさらわれたということであったが、行方不明であることは確かなようだ。それならば、見つかりなさったのか……そのすべての情報は、官人たちの耳には入ってこようもなかった。
その日、冷泉院に戻った薫は、寝殿で院に内裏でのことをご報告申し上げた。院のお耳にも新しい情報は何一つ入っていないようであった。ただ、か細いお声で院は、
「弘徽殿女御は、身ごもったまま亡くなったのだったなあ」
と、だけ言われた。薫は固唾をのんだ。
「最高の罪障を背負われて、女御は亡くなったことになる。帝は我が子ながら、その女御の罪を何とかご自身で贖おうとされたのか……」
あとは涙につまって、言葉にならなかった。院は帝が鬼にさらわれたなどとは信じてはいないご様子で、あくまで出家なさったと推測されておられる。そのご推測の根拠は、薫にも何となく察せられる。
やはり……という感じだった。そしてその背後の力にも、薫の推測は及んでいた。
新帝が即位されたこの日のうちに新しい蔵人や殿上人が補せられ、薫も幸い殿上人として再任されたが、その一切を取り仕切ったのが東三条右大臣であった。
おまけに、蔵人弁だった右大臣の三男が蔵人頭になった。源左大臣は皇孫源氏ゆえに何の力もないお飾り左大臣である。
関白太政大臣とて帝が変わられたらもはや関白ではなく、太政大臣だけならただの名誉職だ。おまけに新帝の外戚でも何でもない。そこで太政大臣には自邸の三条邸に蟄居同然の状態で閉じこもるよう、右大臣が言葉巧みに勧めた。
だが形は勧告ではあっても、実質上は命令に近かった。名誉職の太政大臣で外戚でもない彼は、右大臣の言葉に従うしかない時勢となった。宮中の中心は、今や東三条右大臣である。
新帝の母は右大臣の娘の梅壷女御で、すなわち右大臣は新帝の外祖父なのだ。
ただ、薫が気になっていたのは、権中納言のことであった。薫はこの日、宮中でもとうとう彼の姿を見ることはなかった。退位したらしい帝の外叔父として羽振りがよく、三十になったばかりで権中納言であった彼だ。
薫は即位の儀の翌日、さっそく権中納言の屋敷を訪ねてみた。だが、案内に出た女房からは主の不在が告げられたと、来訪を知らせに走らせた供のものは戻ってきて薫に報告した。薫は不思議だった。宮中にも出仕しておらず、自邸にもいないというのはおかしい。
そこで薫は、車を降りて細殿まで入った。女房はまだそこにいたが、その姿を見た時、その女房の目に泣きはらした跡があるのに薫は気がついた。耳を傾けると、邸内からは複数の女房のすすり泣きの声が聞こえる。
「何か、何かあったのか」
女房は細殿に座ったまま、うつむいていた。薫は沓脱の前に立ち、そんな女房を見下ろしていた。
「何か、何か権中納言殿にあったのか?」
女房は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、まだうるんでいた。
「殿は、殿は、形を変えてございます」
「何ッ! い、いつだ!」
薫は、一歩前に出た。
「いつだ」
「今日の、朝方……」
「なぜだっ! なぜなんだ!」
女房は答えず、袖を目頭に当てるばかりであった。やがて鼻をすすりながら、女房は顔を上げた。
「帝がご落飾なさいまして、殿もあとを追われて」
やはりそういうことだったのかと、薫は肩を落とした。そして、大きく息を吸ってはいた。退位された帝は十九歳の若さで、帝の位を投げ打って出家されたのだった。これで薫の懸念は現実のものとなった。弘徽殿女御に先立たれたのが、やはり相当衝撃であったらしい。そしてその帝のご出家が、権中納言に同じような衝撃を与えたようだ。
すでに退位した上皇が出家して法皇になるのは自由だ。だが、御在位中の帝が出家なさることなどは許されていない。あえて出家なさったら、それは則退位を意味する。
薫はその足で、退位の帝が出家されたという東山の元興寺へと車を向かわせた。だが、東京極に着く前に、薫はその命令を撤回した。権中納言については、今はそっとしておいてあげた方がいいのではないか……彼とて、変わり果てた姿を自分には見せたくないであろう……そう思ったからだ。
薫はまた車の中でため息をつき、御簾越しに真夏の空を見た。入道雲がかなりの高さに上がっている。そして、同じ空の下に続く宇治へと思いをはせた。
退位の帝と権中納言の出家について、いまだに出家もせずに俗聖のままでいる宮がそのことを耳にしたらどう思われるであろうと思う。今回出家した二人はそれなりの事情があっての出家だろうが、少なくとも自分がとるべき道ではないとも薫は感じていた。やはり自分は、宇治の宮よろしく俗聖となりたい……宗教という枠にとらわれずに、直に釈尊や如来、菩薩と交感し、悟りに到達したいと薫は考えた。
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