人の気配があった。

 弘徽殿の南端まで行った時、妻戸が中からそっと開けられた。

 源氏は胸の鼓動が止まらんばかりに、その場に立ちすくんでしまった。

 妻戸の中から顔が出て来た。男なのか女なのかも暗闇の中で分からなかった。

「源氏の君様」

 女の声だった。それも聞き覚えのある……。

 源氏の胸が高鳴りだしたその瞬間、手が伸びて源氏の腕をつかみ、源氏は廂の中へと引き込まれた。弘徽殿には誰もいないはず……しかし現実問題として人がいて、今その人に源氏は中へ引き込まれたのだ。

 言いようのない香りが漂い、それとともに黒髪が源氏の胸にとびこんできた。

「お会いしとうございました」

 自分の胸の中で小さくなっている存在を、しゃくふところにしまって、源氏は両手で優しく包んだ。

「嘘だ」

 源氏の小声に、女はふと顔を上げた気配があった。折から昇った下弦の月影が、微かに妻戸から中をのぞき込んでいた。

「嘘じゃありませんわ」

 懐かしい小野宮の二の君の声は、必死で源氏の懐疑に抵抗していた。

「そなたは、尚侍ないしのかみになったというではないか。尚侍といえは帝のお側近くに仕える女官の最高位」

「前にも申しましたでしょう。私はそのようなものを望むような心は持ってはおらぬと」

 そういえば、后の位さえ望まぬ変わった価値観を持つ姫だった。本来なら自分のせいで女御としての入内も不意になり、尚侍にならなければいけなくなった身、源氏を怨んでこそ当然なのに、会いたかったとは……。

「あなたにお会いしたかったのです。でも父が私を大后様の元にお預けになっておしまいになりましたから、今までふみすら……」

「怨んではいないのか? 私を」

「怨んでますとも」

 やはりと、源氏は思う。

「亡くなった姉のあと、あなたの後添いに私をというお話を、あなたはなぜお断りになったのですか?」

「え? ちょっと待って」

 意外な言葉に、源氏は何とか女の白い顔を見ようとした。まだ妻戸の扉は開いたままだった。

「それは違うよ。私が断ったんじゃない」

「嘘」

「本当だ。私がその話を噂で聞いた時は、すべてがなしになったあとだった」

「え? 本当ですか」

 少しの沈黙のあと、女はいっそう激しく源氏の胸に飛び込んできた。

「よかった。それを聞いて安心しました。嫌われてたんじゃなかったんですね」

「あなたのことを忘れたことなんて、一度もなかった」

 我ながらよく言うと源氏は思う。しかし今のこの場の雰囲気に流され、そんな嘘も自然に言えるように源氏はなっていた。

「嬉しい。実は今日、尚侍として内宴に奉仕している時に、あなたのお姿を御簾越しに拝見したのです。そうしたらもう一気に昔が蘇ってきて、どうしても会いたくて。でも、私の方から行くことなんてできないでしょう。だからここで、待っていたんです。無駄な努力だって思ってはいたけれど、でも待っていたかったんです。そしたら、本当にあなたがおいでになるんですもの。もう胸が張り裂けるかって思ったくらい」

 これは偶然ではないという実感が、源氏の中にあった。運命の悪戯いたずらにしては、あまりにできすぎている。しかし今はそう思うしか、納得のしようがない。

 源氏は後手で妻戸を閉めた。闇だけが部屋の中に閉じ込められた。

「源氏の君様」

 尚侍は倒れるように源氏にすがり、二人は几帳の陰に入った。そこは薄ぼんやりと燭台に火が灯されており、それに照らされた室内に人影は全くなかつた。

「女房たちも皆、内宴のため常寧殿へ行っております。ここには誰もおりませんから。私も本当は、今夜は常寧殿に泊まっていることになっています」

「しかし」

 二人はすでに一枚敷きの畳の上に、もつれ込んでいた。だが、源氏の手はためらっていた。

「あなたは昔のあなたではない。今や尚侍ではないか」

「罪が恐ろしうございますか。それとも、御自分の身の上にふりかかる災いを御懸念あそばしてのことでございますか」

「いや、あなたの方にこそ、もし露呈したらどんな災いが起こるか」

「私は普通の、そのへんの女とは違います。父と大后様の間で決められたことで尚侍としてこの宮中へ出仕しましたけど、そんな地位なんかどうだっていいんです。でももしあなた様がご自分のことを思われてなら」

「いや」

 源氏の返事は、ほとんど怒鳴り声に近かった。

「私は今や無官の身。近衛中将でも大蔵卿でもないただ人なのだ。失うものなんか、何もない!」

 本当にないのか…そんなことが頭をかすめはしたが、すぐ消えた。女の紅袴のひもを解く。小袖の胸の中に手を入れる。まぎれもない女体が、自分の腕の中にある。

 この女は亡き先妻の妹、今の妻の従姉、そしてかの六条御息所の姪――そんな思いが浮かんだりもしたがあえてそれを源氏は打ち消して、名もないひとつの女体と肌をふれあわせていた。香りとともに、温かい体温が感じられた。

 柔らかくて甘い、実に不思議な生き物を源氏は愛撫しているうち、それと対照的に源氏は充分に硬くなっていた。

 妻ではない女――自分を疎んじている弘徽殿大后のおぼえめでたき尚侍かんの君――そんな名辞が嫌でもただの女体についてまわり、それがますます禁断の勅激となって源氏を燃えあがらせた。

 源氏が抱いているのは過去の女。ところが抱いた瞬間に過去は過去ではなくなり、腕の中の女は現在の現実の存在となった。源氏の頭には「今」しかなかった。

 二つの体がひとつになっている「今」しかないのだ。

 胸の隆起に頬をあて、手は長い髪をかきあげてうなじを抱きしめる。自分より細い腰と自分の腰をあわせ、源氏の両手は女のその腰をつかんだ。とぎれとぎれの声が、暗い室内に響いていた。


 燃えていた二つの身体は今は冷めて、脱力感から並んで畳の上に横たわっていた。

宿直とのい申しさぶろう―!」

 庭先で声がする。うとうとしていた源氏は、その声に驚いた。

「寅ひとつ!」

 宮中を巡回している近衛府の舎人とねりが叫ぶ声に、源氏はもうそんな時刻かと思った。女はまだ眠っていた。日中は汗ばむこともあるような陽気になったとはいえ、明け方はまだまだ冷えこむ。夏の更衣ころもがえまでには、まだ十数日ある頃だ。

 源氏は暗くて見えないが露わであろう女の体に、その小袿をそっとかけた。それで女は目覚めた。

「行っておしまいになりますの?」

「ああ。じき、夜も明ける」

「また、おいで下さいまし。私は今は、この弘徽殿ひとつを全部与えられておりますから。大后様は今では、ここにはおられませんし」

「分かった。今は宮中に来ることも少ないし、宿直も全くないからそうたびたびとはいかないかもしれないけど」

「嫌です!」

 言葉を叫びでさえぎられて、庭の舎人に聞こえはしないかとひやひやしながらも、源氏は苦笑した。

「分かった。何とかしてたびたび来るよ」

「嬉しい!」

 尚侍は源氏がかけた小袿をはらい、なやましい姿のまま源氏の首にしがみついた。

 真っ白な頭のまま、源氏は衣装を正した。彼は昨夜の宴のあとの束帯のままだ。まさか女房を呼ぶわけにもいかないので、自分で着付けをしなければならない。悪戦苦闘の末、まがりなりにも何とかころもをつけた源氏は、出る間際にもう一度女をふり向いた。

「こんな状況だから、後朝きぬぎぬふみれないけれど、今、心で受けとってくれ」

「分かりました。私も今、心でお返しを差し上げます」

 薄暗い中で何とか目をあわせたあと、源氏は妻戸を押した。

 外は少しは明るかった。まだ日は昇ってはいない。中天の半月の光が黄色から、かなり白くなってはいた。

 こんな時刻に束帯で歩いている状況に不自然さを感じていた源氏は、東の簀子を北の行くのをやめ、南廂をまわって弘徽殿の背後へまわることにした。

 東側を行けは、常寧殿のすぐ近くを通ることになる。昨夜内宴が行われた場所でもあり、帝の御座所でもあるから、誰に見られないとも限らない。大事をとって南の簀子を源氏は、東面している弘徽殿の西側の裏へまわろうと歩いた。

 わずかな中壷を隔て、滝口の陣の北側と弘徽殿の南側は接している。

 その時源氏は滝口の陣の小窓から、自分をのぞいている人影に気がついた。目が合うと、人影はすぐに消えた。

 全身が凍った。今、はじめて自分を見たのだろうか。それとも、弘徽殿の妻戸を出てくるところからすべてが見られていたのだろうか。いずれにせよその人影の人相に、源氏は推測される人物がいた。

 故本院大臣の三男――現在の頭中将ではないか……?

 確かめるすべもない。しかし見られていたのは事実だ。

 たびたび来る――尚侍の君にはそう言ったもののやはり宮中での逢瀬はまずいと、源氏は思った。そして今の人影に目撃されたことが、大事に至らぬことだけを念じつつ、弘徽殿の西の簀子を北へと向かった。

 宮中での逢瀬がまずいのか、それともあの姫君との逢瀬自体がまずいのか。しかしどうしようもなく彼の感覚にはまだ甘い記憶と感触が残っている。振り捨てられもしない。

 そのまま登花殿の西側を進み、貞観殿の背後をまわって、源氏は淑景舎へと向かう。それまでの間、結論が出るはずのない思考を彼はあえて放棄し、ぼんやりとした感情のまま歩いていた。

 ただ、体は震えていた。とにかく見られてしまったのである。

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