まだ暗いうちに源氏は宮中から退出したかったが、卯の下刻にならないと宮廷の門は開かない。やっと建春門を出た頃は、もうすっかり明るくなっていた。すでに日も昇っている。

 源氏は陽明門外で車に乗ってそのまま東大宮大路を上り、次の門で大宮大路沿いではいちばん北の上東門の所まで行った。ここはいわば大蔵の物資搬入のための門で、貴人はあまり出入りをしない。門といっても塀がとぎれているだけで、屋根のついた門などありはしないのだ。

 いつもなら陽明門から大宮大路を下って二条まで行ってから東進するのだが、大内裏の開門とともに官人たちが一斉に出仕して来るので、その道筋だと多くの官人たちと会ってしまう。それを避けるためにとった処置だったが、それでも土御門つちみかど大路を東進するうちに、多くの車とすれ違った。

 とにかくばつが悪かった。出仕のための車の列とは、不自然な逆方向に源氏の車だけ進むのであるから、人々の奇異な目は容易に想像できた。

 そして今、自分ははぐれ者であることを実感する。人と違う方向に車を進めているのが、何よりの証拠だ。そのまま京極まで出て京極大路を下り、二条を西へ行くという遠回りの道を源氏は選んだ。一刻も早く二条邸に帰りたかったのではあるが、近道をすればすれ違うであろう知人も多い。

 やっとのことで二条邸に戻って着替えると、簡単な朝粥をすすり、そのまま寝所へ入ろうとした。

「対の上様がお待ちでございますが」

 年かさの女房がそんな源氏を引きとめて言ったが、とても西ノ対に渡る気はしない。どの顔を下げて、妻に会えるというのだ。

「今日はくたびれておるゆえ、またにと言っておいてくれ」

 女房の返事も聞かす、源氏はさっさと御帳台へと入った。そのまま仰向けに寝た。

 まだ体中が震えている。尚侍の君の残り香もまだあったが、かえってそれが忌々しくもあった。

 どうしよう、どうしようという思いが、体を震わせる。頭中将は弘徽殿大后が目をかけている故本院大臣の一族、もしかしたらこのことは真っ先に大后に報告されるかもしれない。

 しかし、現場をおさえられたわけではないのだ。見られたのは弘徽殿の南の簀子にいた所だ。妻戸を出たところから、見られていたのかどうかは分からない。まして、弘徽殿の中でのできことを彼がいろいろ語ったとしても、それはすべて彼の推測の域を出ないことになる。

 こう思うことによって、源氏は必死に自分を落ち着かせようとした。

 とにかく眠りたかった。いつ宮中から呼び出しが来るか分からない。その時を、起きたままびくびくして待ちたくはなかった。眠ってしまおう。眠ることによって恐怖という心地から解放されようと思った。少なくとも眠っている間は、この欲世の存在ではなくなるのである。

 すぐに眠り、目が覚めたら夕刻だった。夕餉をとり、またすぐに寝た。あれほど一日中寝ていたのだから眠れないのではないかと思いきや、またもや彼は現実から逃避するように眠ってしまった。


 すぐに更衣ころもがえの日となり、夏の調度に取り替えるために家人が走りまわって、邸内も慌ただしかった。

 源氏は二条邸に篭りきりの毎日が続いていた。宮中での噂を恐れる彼は、もはや自邸に閉じこもっているしかできることはなかった。正確には二条邸の寝殿に篭りきりの毎日だった。西ノ対にすら渡る気もせずに、ただつれづれに日々を送っているだけだった。

 宰相中将だけが、思い出したように見舞いに来てくれる。

「やつれたな」

 宰相中将は気の毒そうな顔つきで、源氏と対座した。

「このような邸内に篭っていては、鬱憤がたまるだろう。通い歩きもしないのかい?」

「通う相手が、全くいないものでねえ」

「隠さなくてもいい。私を舅と思って遠慮するな。舅である前に朋友だって言ったはずだぞ」

「遠慮で隠してるのならいいさ。そうだったら、気も紛れるだろうのにな」

 源氏は思わず苦笑を洩らし、視線をそむけた。

「私だったらこんな毎日がの日の生活になれば、あっちこっち忙しいだろうな。私もとうとう三十の大台に乗ってしまったけど、気だけは若いつもりだから」

「お、君が私の舅であるだけでなく、私は君の小舅なんだぞ」

「そうだったな」

 二人は声をあげて笑った。源氏にとって笑ったりするのは、いったい何日ぶりのことなのか分からなかった。その後また、源氏の顔に翳りがさした。

「毎日が假だったらいいんだけどね、これじゃあ毎日が物忌ものいみだよ」

「そうか、それじゃあ退屈だろう。実はそう思ってな、いいものを持ってきたんだ。君にこれを借すよ」

 宰相中将が置いていってくれたのは、一冊の冊子だった。

「父太政大臣より、昨年の九月からいよいよ有職故実ゆうそくこじつの教命を受けはじめてね、その記録だ。いい機会だから、君も研究するといい」

「え? いいのかい? 貴重なものだろう」

「もちろんそれは控えの写しだ。何しろ家宝級のものだからね。でも、書写したら一応返してくれたまえ。いいかい、兄の中納言よりも、私の方が先に今、教命を受けているんだ」

 少し声を低くして、宰相中将は身を乗り出して言った。小野宮中納言とつながっているより、自分とつながっている方がいいぞという暗示のように源氏には受けとれた。しかしそれが嫌味には聞こえない。

 なぜなら源氏とて、そう思っていたからだ。

「今日は泊まっていってもいいかな」

「いいけど、どちらにだい? 西か? 北か?」

「両方さ」

 宰相中将は笑って、まず娘のいる西ノ対の方へ渡っていった。


 その夜、源氏は灯火の下で、宰相中将が置いていった冊子を開いてみた。宮中のしきたりや先例が、宰相中将とその父太政大臣の問答というかたちでびっしりと書きこまれている。かつての自分なら、飛び上がって読みふけっただろう。しかし今はなぜか自分とは全く関係のない世界が、そこに描写されているとしか思われない。この世界に再び戻ることができるのであろうかと思うと、ふとため息が出てしまった。

 翌日、それを書写した。気は進まなかったが、返さねばならないものだし、とにかく暇だったので写した。昨年の九月から始まり、十一月末で終わっているので、写すのに四半時しはんときもかからなかった。

 終わってからまた、ため息が出た。自分はこの世界に戻れないとしたら、生きていても仕方がないのではないかとさえ思った。しかし自ら生命を絶つなどは、仏の前に重罪である。重罪とならず、かえって仏への功徳になり、しかも世にいなくなるすべ――出家しかないだろう。いっそうのことこの二条邸を捨てて、山にでも入ってしまおうかとも思う。

 しかしそれはできない。西ノ対の妻、そして小野宮邸にいる若君、それらがしがらみとなって彼にまとわりつく。やはりこのままここで復任の沙汰を待って、ひっそりと暮らしているしかないようだ。その復任すらいつのことか分からないし、本当に頭中将に弘徽殿から出るところを目撃されていたのなら、ますます状況はまずくなるといえるだろう。ただ、宰相中将が全くそのような話題にふれなかったところから察すると、宮中で噂になっているわけではないようだ。しかしいつまでも頭中将が黙っているとは限らない。

 やはり出家――いや、できない。それがもどかしくもある。若君はその成長すら見届けられない。小野宮邸へ行けは会えるが、その小野宮邸に行くこと自体が恐かったし、また嫌であった。万が一あのことが中納言の耳に入っていたら……前とはわけが違う。相手はただの小野宮の二の君ではなく、すでに尚侍なのだ。尚侍――後宮の女官長というだけでなく、すでに帝の妻妾と同義語とすらなっている。まだ帝はお若いから本当にそうなっているかどうかは怪しいが、しかし少なくとも世間はそう考えている。

 いずれにせよ源氏は、わが子と会う自由すら奪われている。

 しかし対の上は自由に会える。自分が会わないだけだ。

 急に源氏は妻と会いたくなった。だからその日の夜は、久々に西ノ対に渡った。自邸の対の屋へ行くのにこんなに意を決して行かねはならぬことで、今の自分の心理の異常性を嫌でも認識してしまう源氏だった。

 妻の機嫌はさほど悪くはなかった。

「殿は、御病気でいらしたの? 私、ずっと心配してたんですから」

「それは悪かった」

 はじめはにこりともしない源氏だったが、この妻は本当に不思議な存在だ、心がなごんでいくのを自分でも感じていた。

「怒ってないかい?」

「いいえ。もし他の女の人のところばかり通ってここへ来てくださらないのなら怒ったかもしれませんけど、でも殿はずっと南殿なでんにいらっしゃったって聞いてますから」

 確かに通ってはいない。しかし、たった一回だが妻に対しての不義があった。源氏はちくりと胸を刺された気になったが、あえて笑顔を作った。

「君は毎日、何をしてたんだい? 私が来なくて退屈してたかな」

「ぜんぜん」

 いたずらっぽく首をふって、妻は笑ったので、

「まいったな」

 と、源氏は笑った。

「あ、嘘ですよ。本当は殿とお会いできなくてさびしかったから、物語ばかり読んでましたから」

 屈託もなく笑う妻は、まだ半分少女だった。

「ひな人形を卒業したと思ったら。今度は物語?」

「また、もう、やだ。殿が来てくださらないからですよ。本当は現実の方がいいのに」

「本当にいい?」

「ええ。だって、この間も言いましたでしょ。現実の私って、物語の中の姫みたいなんですもの」

「ああ、落窪姫とか言っていたね」

 妻は文机の上の書物を、立って持ってきた。

「これがその落窪姫の物語。最初は継母にいじめられるんだけど、すてきな貴公子が現れて助け出してくれて、そして幸せになるんです。ほらね、私みたいでしょ?」

 源氏もそれをとって、開いてみた。少なくとも今の源氏には、あの有職故実がつまった冊子よりかは心が和む気がした。

「では、私がその貴公子かな?」

「そうだって言ったじゃないですか。だって今、殿のおかげで幸せですもの。私を孤独の中から見つけて下さって、お父様とも会わせて下さって。昨日もお父様、来てくださいましたもの」

「おやおや、はじめてここの屋敷につれて来た時は恐がってすねて、泣いてばかりいたのはどこのどちら様でしたっけね」

「ん、もう、殿!」

 その父、つまり宰相中将といるときだけでなく、その娘である目の前の姫とともにいても、源氏には忘れていた笑いが甦る。

「殿は毎日、何をなさっているの?」

「私?」

 あれほど笑ったのに、ふと現実に戻って源氏はため息をついてしまった。

「私も今、物語の中のある人と同じだなって、思っているんだよ」

「え? だれだれ? 何ていう物語?」

 妻が興味深げに寄ってきたが、その時の源氏の顔は真顔だった。

「在五中将さ」

「あの在五中将記の? どうして?」

 妻の無邪気な問いに、源氏は今は答える気はしなかった。


 宰相中将や妻と会っている時だけ憂さも晴れて心が和むのだが、いざ寝殿でひとりぼっちになるとその反動がもろに来る。心が和んでいた時のその前以上に、かえって落ちこんでしまう源氏だった。

 在五中将――今は中納言が住んでいる小野宮邸にかつて住んでいて、その邸宅の名の由来ともなった皇子がいた。その皇子を皇位につけようと画策して矢敗したのが在五中将だ。皇子は比叡山の西麓の小野の里に隠遁したので小野宮と称し、在五中将はそれから酒におぼれて世との交際を絶った生活をし、身を「用なき者」に思いなして都にありわびて東へと下っていくのである。

 それはまさしく今の自分の姿だと、源氏は思った。そして時にはおかしくなる。二十四歳の男が、女子供の読む物語の世界に浸っているのである。しかし彼は、世間のいわゆるふつうの二十四歳の男ではなかった。まず出仕もせずに、いや、できすに、毎日自邸に閉じこもっている。これでは女と同じだ。少しは女の気持ちが理解できたような気もする。

 だが、一概に女といってしまっては失礼だ。尚侍の君のように、女性でも宮中で働いている人たちもたくさんいる。

 どこかに出かけようにも口実はないし、また出かけ先も思い浮かばないまま、源氏は深窓の令嬢ならぬ深窓の丈夫となっていた。


 そうこうして暑い夏も終わり、少し秋風が吹きはじめるようになったある日、惟光がばつの悪そうな顔でやって来た。

「式部卿宮様より、令旨が参ってございます」

 久々に源氏の所へも、政治的な動きが飛び込んできたようだ。しかし式部卿宮は源氏の異腹の兄、復任とは関係なさそうだった。

「何ていってきたんだ?」

「それが」

 惟光は言いにくそうにしていた。正直な男で、内心がすべて顔に出てしまう。源氏の乳兄弟なのだから、当然年齢も同じ歳だ。

中務卿宮なかつかさきょうのみや様が亡くなりあそはしてから、故院の御勅願寺の造塔が止まってしまったとかでして、それで各公卿にそのことを進めるように造塔の運営をしてほしいとか」

「そうか。しかしなぜ、それが当方に? 私は公卿でも何でもない」

「それが、宮様方、及び一世の源氏の方々には、できる限りでよいから財的御奉納をということでして」

「ではするがよいではないか。他ならぬわが父の、勅願寺の造塔のためだからなあ」

「それが…」

 惟光は目を伏せた。そして意を決したように顔を上げ、源氏を見据えた。

「底をついております、わが蔵は」

 惟光は多くは語らなかった。

「分かった」

 源氏もそれしか答えず、あとの裁量は惟光に任せることにした。できる限りでよいというのだから、できないことに文句は言っては来るまい。

 しかしみじめであった。父の御恩にすら報いられないのだ。官人としての給与は全くない。位田、位封からの収入も、今ではその国の受領の懐に入る方が多い。そして荘園もたかが知れている。何しろ普通の公卿の各族のように、先祖伝来の土地というものがない。源氏の一代前は、帝なのだ。

 それにしても、若干は知っていたにせよ、そんなに経済的にも破綻していようとは、思ってもいないことだった。これでは先方から断って来るまでもなく、かの六条御息所への援助どころの騒ぎではなかったのである。

 源氏はこのことがあってから、ふとまたその意識の中に、かの熟女が蘇ってきた。考えてみれば御息所からの援助打ち切りのことについて、本人と話はしていないのだった。

 だが、また訪問を申し出ても、前と同じ理由で断られるだろう。

 ところが事態は一変した。遅れていた御息所の娘の斎宮の、宮中入りが決まったということだった。これで斎宮が自邸にいるからという、御息所の源氏の来訪拒否の理由はなくなるはずである。

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