暦の上でだけ秋にはなったが、まだこの盆地ではうなるような残暑が続いていた頃であった。この日、屋敷の外が朝から何やら騒がしかった。

「何ごとかね」

 惟光を呼んで尋ねると、今ちょうど二条大路を斎宮の御禊の行列が通っているのだという。斎宮――御息所の娘である。いよいよ今日、宮中入りするらしい。

「もう御禊は終わったのだな」

 源氏はつぶやいた。六条邸から御禊の鴨河原までは、東京極大路を上ればそのまま着くから、この二条邸の後ろは通らないはずだ。今の騒ぎは宮中へ向かう二条大路西進の行列だろう。

 扇で顔をあおぎながら、源氏は立ちあがった。

「惟光、車を出してくれ。見に行こう」

 東山の上の空には山の数倍の高さまで白雲がわきあがり、蝉の声がけたたましかった。そんな入道雲に見下ろされて門を出た源氏の車は、一度東門が面する高倉小路を下って押小路を曲がり、二条邸の正面を横切って東洞院ひがしのとういん大路に出た。そしてそのまま右折して二条東洞院の角で源氏は車を停めた。

 すでに行列は半分は行き過ぎていた。それでも右前方に微かに輿が見えたので、斎宮はまだ通り過ぎてはいないようだった。二条大路はかなり幅のある大通りなので、行列が通っても、それが道全体を占領するようなことはない。いくつか見物の車も出ていたが、それでも路上には充分の空間があった。

 路面への日光の照り返しが眩しく車の中で源氏は扇で涼をとっているうち、車の前の御簾ごしに斎宮の輿が見えてきた。

 ところが源氏が奇異に感じたのは、斎宮のそれより少しは格が落ちるが、同じような輿がつきそっていることだった。はじめは別に気にもとめなかったが、すぐに源氏の中で何かが弾けた。それからというもの車の中にいても、源氏は胸騒ぎを覚えて居ても立ってもいられなくなった。


 二、三日後、源氏は御禊行列の見物を別にすれは久々の外出をした。

 向かった先は六条である。すでに六条邸は斎宮の仮斎院ではない。御息所の前回の源氏の来訪拒否の口実はなくなっている。

 今さらという思いもあった。しかし彼が今まで二条邸を出られずにくすぶっていたのは、尚侍の君との一夜のできことが暗い隠を落としていたからである。

 毒を以て毒を制すで、源氏は御息所と会えば少しは気がそらされるのではとも思った。

 それよりも何よりも、ここでひとつの御息所との過去をすべて清算しなければならないという思いもある。これは尚侍の君とのことがある以前から、御息所に対して持っていた感情だった。そしてそのためには最後にもう一度だけ、どうしても彼女に会う必要がある。その思いが源氏に車を出させたのであった。

 六条邸に着いた。やはり門は閉ざされており、惟光がいくら叩いても開かれる気配はなかった。まさか自分の来訪を察知しての居留守ではあるまい。今日は何も知らせずに、突然やって来たのである。物忌ならその旨を告げる札が下がっているはずだ。

 まだ門を叩き続けている惟光を、源氏は車の中から呼んだ。

「もうよい」

 誰もいないのだ。御息所だけではなく、家人も女房もいないらしい。あるいはいても外界とは一切遮断した生活を送っているのだろう。

「帰ろう」

 力なく源氏は言った。

 その夕刻、彼は北の対の姉のところへ渡った。同母姉だから御簾越しでなく対座できるが、身分は内親王なので源氏は一段低い所に座った。姉は言った。

「伊勢の斎宮が、宮中にお入りになったそうですね」

 姉にとっては自分の後任者、やはり関心があるらしく情報ももう入っている。

「ええ。御禊の行列に、お気づきになりましたか」

「そりゃ、もう」

 北の対は二条邸の中でも、いちばん二条大路に近いのだ。

「ずいぶん遅かったのですね。だって卜定されたのが昨年の九月でしょう。そう十ケ月もたっているじゃありませんか。私の時も卜定から半年ぐらいたってからでしたけど、それにしても十ケ月はねえ」

「宮中に穢れの障りとかあったのではないでしょうか」

 源氏は実はそのようなことは知らない。しかし、それ以外に理由は考えられなかったので、そう言っておいた。

「お気の毒なのか、おうらやましいのか」

 姉は目を細めた。この言葉は、斎宮体験者だからこそ出てくるものであろう。

「ところでひとつ、姉宮様にお伺いしたいのです」

「何でしょう」

「伊勢斎宮の初斎院入りに、その母親が同行するということはあり得るのですか」

 姉は声をあげて笑った。

「そんなこと、聞いたこともありません。また、あるはずもないことですよ。なぜ、そんなことを?」

「いえ、別に」

 源氏は一度目をそらし、もう一度姉を見た。

「宰相中将様は、来て下さってますか」

「まあ、もう、この子ったら」

 姉の照れ笑いとともに、源氏も苦笑した。姉から見れば、いつまでも自分は「この子」であるらしい。

「ひとつ、お願いがあるんです。今度通って来られたら、私が話がありますので寝殿の方へ立ち寄られるよう言っていたと、申し上げなさって下さいませ」

 源氏がそう頼んだその日の夜に、宰相中将はもう寝殿へやってきた。かなり頻繁に通って来ているようだ。

「何だね、話って」

 座るなり、宰相中将はそわそわしてきり出した。早く北の対へ行きたいらしい。

「おかしなものだな。私は二条邸の主なのに、同じ二条邸の中でも北の対では女房たちから『いらっしゃいませ』と言われる。それなのに、君が行けは『おかえりなさいませ』だろう」

「そんなことより、話って何だ?」

「斎宮のことだよ」

 二条邸に篭りきっている源氏にとって世の中の、特に宮中に関する情報を入れてくれる唯一の窓口が今目の前にいる宰相中将だった。

「斎宮がどうした?」

「その母が、いっしょにくっついているなんて話は、聞かないか」

「お篭りのくせに、よく知っているなあ。やはり、噂は伝わって来るのかい?」

「いや、そういうわけじゃない。当てずっぽうに言ってみたんだが、本当にそうなのか」

「ああ。宮中は大騒ぎだ。何しろ前代未聞のことだからな。しかも母御息所は、斎宮とともに伊勢下向するつもりらしい。そのことで陣定じんのさだめも開かれたんだ」

「で? 許されるだろうか?」

「まさか。先例がないからな。ところが当の御息所は、頑として引き下がりそうもない」

「しかし、大嘗祭の折の帝の御禊の時はその鳳輿に母君の大后様がご同乗されていたというじゃないか。もう先例無視の何でもありの世の中だからな」

「それとこれとは話が別だ。いくらなんでも帝と同じに論ずるのは恐れ多い。それよりも。君はなんでそんなこと知りたがるんだ?」

 もちろん宰相中将は、源氏と御息所の過去の関係など何も知らない。だから、勝手にうなずいた。

「あ、そうか。私の姪、つまり君の前の北の方と賀茂の祭りで騒動を起こした人だったな、かの御息所は。まさか君はそのことを今でも根にもって、御息所を怨んでいるのではないだろうな」

「いやいや」

 源氏は笑って見せた。これで源氏がほしい情報はすべて入った。

「初斎院は雅楽寮だよ」

 そこに御息所はいる。しかし、とても会いに行けるような場所ではない。

「で、野の宮入りは一年後?」

 野々宮とは都の北西の嵯峨野にある、伊勢の斎宮が伊勢に下る前に潔斎のために篭もる場所だ。

「いや。仮斎院での禊斎も初斎院での禊斎に加えられるから、すぐに九月には斎宮は野の宮にお入りになるだろう」

 いいことを聞いた。もしかしたら御息所もともに野の宮に入るのではと、源氏は思った。

「そうか。御息所は今は宮中か」

 宰相中将が去ってから源氏はつぶやいた。

 思えは御息所という人は薄幸な人だった。もし自分の兄の故前皇太子が在命なら、今頃皇位についているだろう。御息所は女御、さらに運ついていれは今頃は中宮として時めいていたかもしれない。前坊の命運が定めだったとしても、次に立太子した御息所所産の子が皇位についていたら、彼女こそ国母となっていたのだ。

 それが今は一介の斎宮の母として、再び宮中に入ったことになる。どんな思いで宮中の門をくぐったのかということが、源氏には気になって仕方なかつた。

 源氏が三歳の時に立太子した源氏の兄の前皇太子が、皇位に就くことなく亡くなったのは源氏が十歳の時だった。その同じ年に前皇太子と同じ弘徽殿大后腹の今の帝が源氏の異母弟としてお生まれになったわけだが、前坊の没年から考えてもその娘である斎宮の年は十四歳は下らないはずだ。そうなると十四歳の娘の母親である御息所の正確な年齢は分からないにしても、三十は越えているはずである。すると未亡人となったのは十八歳の若さでだったのだ。

 将来の女御あるいは中宮と目されて東宮妃として入内したのは、いつ頃だったのだろうか。恐らく故本院大臣の遺族に目をかける今の弘徽殿大后が女御となってからだろうと思われるので、十五か十六の頃となる。

 御息所は十六で東宮妃として入内し、十八で夫の皇太子に先立たれ、そして今三十余で彼女は再び宮中に入った。

 源氏はふと白楽天の詩「上陽白髪人」を思い出した。


 ――上陽人     (上陽の人)

   紅顔暗老白髪新 (紅顏暗く老いて白髪新たなり)

   緑衣監使守宮門 (綠衣の監使宮門を守る)

   一閉上陽多少春 (ひとたび上陽に閉ざされてより多少の春ぞ)

   玄宗末歳初選入 (玄宗の末歲 初めて選ばれて入)

   入時十六今六十…(る時十六 今六十)


 源氏はその詩をうそぶいた。この詩の中の上陽人と同様に御息所はまさしく入内の時に十六歳、今や六十とはいかないが、その半分の三十である。


 ――上陽人、苦最多。少亦苦、老亦苦…――

  (上陽の人、苦しみ最も多し。わかくしてまた苦しみ、老いて亦苦しむ)


 その薄幸を思う時、源氏はまたもやどうしても御息所に会いたいと思った。別にいとしいというわけではない。前々からの課題である過去の清算ということも、しきりに彼の胸の中を飛来していた。

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