6
秋も終わりに近づいた頃、また屋敷の北側の二条大路が騒がしい日があった。
伊勢斎宮の鴨川御禊だと、女房たちも騒いでいる。ついに斎宮が野の宮に入る日が来たらしい。
二、三日おいて、源氏は家人の一人を六条邸へ走らせてみたが、やはりそこは
行くか――源氏は思い立った。きわめて身分を隠した
二条大路を西行すると、嫌でも大内裏の正面の朱雀門の前を通ることになるので、ひと筋南の押小路を源氏は西進した。
朱雀大路のまるで広場のような大通りを横断すると、そこからは西の京ということになる。西大宮を越えたあたりからは貴人の屋敷はおろか、庶民の家すらまばらになっていく。
九条あたりもさびれてはいるが、それでも人々の
幼い頃より鴨川の東と西の京は狐狸の住む所と教えられてきたが、あながち大げさな表現ではなかったことを源氏は知った。
まわりに建物がないだけに、都をとり囲む山々がここからは一望できる。比叡山などからは遠ざかっているはずなのに、建物の甍越しに見るより遥かに大きく近く感じられたりもする。
行く手の彼方も、西山がどっしりと横たわっていた。その麓に、御息所はいるはずだ。まわりの景色が淋しくなるにつれ、こんな所のさらに奥へと行ってしまった御息所の心情を源氏は察せずにはいられない。
「ここで、西の京極ですな」
供の良清が何気なく言うのであたりを見まわしてみても、いよいよ都から出るという気にはならない。なぜならその内と外で様相が少しも変わるわけではなく、荒れ地が続くだけだからだ。
西京極大路は東京極とは雲泥の差があり、草で埋もれたそれはほとんど道路としての機能を果たしてはいなかった。二条大路の末は両側からの草に覆われながらも、田舎の街道としてさらに西に続く。源氏たちはその道を進んだ。
すぐに一面まわりは、桑畑となった。その中に集落が見える。秦一族の本拠地
都の貴人もよく篭る太秦である。源氏はその寺の門前で一度馬から降り、一礼をしてから再び西へと進んだ。
行く手に小倉山が立ちふさがった頃はもう日は沈み、西山の上あたりの空が真赤になっていた。
やっと嵯峨野に到着した時は、黄昏時の青い薄暗さの中に彼らはあった。
川の向こうは嵐山となって盛りあがり、貴公子の一行を見下ろしていた。
「あと半月もすれは、あの山が紅葉で真赤になるんですよ。ちょっと早く来すぎましたね」
良清の言葉に、源氏は表情も変えなかった。そのようなもののために来たのではないと源氏は思っていたが、あえて口には出さなかった。
川の手前を小倉山の方へ向かうと、道の左右は一面に広がる竹林となった。竹は真竹で、道は細い。両脇ともずっと柴の小枝を束ねた小柴垣が続いており、その向こうの竹林の竹と同じ竹を縦に割ったものが、小柴垣の結び目に横につけられていた。
秋の風が竹の葉をゆらし、その音がまるで
こんな草深い里にあの人は――こう思うと、源氏は胸がしめつけられるような思いがした。
御息所にこの来訪のことは告げていない。告げれば拒絶されるに決まっている。だから突然にやって来た。これから、この小道の先でどのような時間が待っているのか、源氏には全く見当もつかない。それだけにさらに緊張感が増し、胸の呼動で息苦しいくらいだった。
急に左手の竹林が開け、人工の建造物が夕闇の中に姿を現した。そして風や虫の音ではなく、人間の奏でる
垣根はやはり小柴垣で、御殿も板葺きという質素なものだった。それでも鳥居だけは皮がついた丸木そのままで作られた黒木で、ここは神域であることを威示して来訪者を威圧していた。
中には白装束の神宮が、行ったり来たりしているのが見える。俗人の身で今この黒木の鳥居をくぐったら、たちまち彼らに咎められようし、また源氏自身にとってもはばかられることであった。
さらに暗くなるまで源氏は待った。
殿舎の内、ひとつだけやけに明るい光が洩れている建物がある。神火を絶やさず灯している
鳥居の向かい側のあばら屋の柱に馬をつなぎ、従者たちはその小屋で休むように言いつけ、源氏は小柴垣ぞいに歩いて裏木戸より中に入った。目当ては楽の
「こうてさぶろう」
声をかけると、楽の音はぴたりとやんだ。中で人々が歩きまわる
その間、源氏は周りを見ていた。背後はちょっとした庭になっていた。が、どんな庭なのかは、もう暗くて分からない。今夜は月がないのだ。
出てきたのは、見覚えのある女房だった。やはり御息所はここにいた。
「お取り次ぎ願いたい。最後のお話がしたい」
その女房には、名乗る必要すらなかった。
「これはこれは」
驚いた様子を見せて、女房はすぐに中へと戻っていった。またずいぶん待たされた。出てきたのは同じ女房だった。
「御息所様は、源氏の君様のこのようなお心遣いがありがたく、くれぐれも丁重に礼をなして下さいとのことでした」
「お会いすることはかなわぬのか」
女房は申しわけなさそうに、静かに首を横にふった。
「ご来意は私が承るよう、仰せつかっておりますれば」
源氏は目を落とした。
「今は二条邸に篭りきりで、このような遠出もめったにしない私なのだよ。それをこのようにして出かけて来たのだ。だから、この気持ちがお分かりになるなら
「分かりました。私どもも源氏の君様をそのような
女房は戻った。また待つ間、源氏の耳には虫の声だけが充満していた。
やがて女房は二人出て来た。一人は紙燭を持っていた。その微かな光で庭が照らされた。庭は一面の苔で覆われていた。
半蔀の上の格子一枚だけが上げられた。もちろん御簾は降ろされたままだ。その端の方へ、人がいざり出て来る物音があった。
「簀子の上ぐらいは、お許し下さいましょうな」
源氏は言いながらも、返事も聞かすにもう簀子に上がっていた。
「お懐しうございます」
「本当に、懐しう思って下さるのですか」
その声は優しかった。そしてそれを聞いた瞬間、源氏の辞令は辞令でなくなった。本当に懐かしくなったのだ。
思えばいつでも会える頃があった。そして御息所が自分を待っていてくれた頃もあった。その頃には決して持つことのなかった感情が、今あらたに湧きあがってくる。
この女のせいで前の妻を失った――そんな事実さえ、今は頭の中で消えている。今、御簾越しではあるが御息所と対面して、過去の中に源氏は浸っている。
「なぜ、私の後見を断られたのですか」
答えはなかった。御簾の向こうからは、沈黙だけが漂ってきた。
「本当に、伊勢の方へいらっしゃるのでしょうか」
「すべての過去は、振り捨てとう存じます」
源氏ははっと目を上げた。御息所とて同じ思いだったのだ。もうこれ以上、互いの間で語ることは何もない。
「どうしても、行ってしまわれるのですか」
「もし引き止めて下さると言われるなら、そのお心だけで充分です」
やはり御息所は大人だった。すべてを清算しすべてと訣別するために、遠い空の下に身を置こうとしている。これからものほほんと都で生活するであろう自分を思うと、源氏は自分が恥すかしくさえ思った。
風が庭を通り過ぎた。松虫の声がいちだんと高くなり、まるでわざとこしらえられた舞台装置の中に自分がいるような気にさえなる。
もはや御息所へかけるべき言葉は、源氏は全く持っていなかった。そこで
思えは初めて会った時も、こうして源氏は笛を吹いた。そして今、そのすべてが終わろうとしている時もこうして笛を吹いている。
大淀の みるめかるとも いにしへの
香をば忘れじ 行くひささにも
源氏が最後の想いを、歌に寄せた。
すべてが終わったと、源氏は実感した。いつの間にか笛を奏でる源氏の目からも、涙の筋が流れ出て頬をつたわっていた。
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