更衣ころもがえも終わり、二条邸の室内も庭も冬一色となった。

 自分の意志とはいえ御息所とのことを清算した後は、心の中にぽっかりと空洞ができてしまったような日々を源氏は送っていた。

 このような毎日が物忌のような生活がいつまで続くのかと思うと、不安であった。復任の兆しは全くといってない。経済的にもかなり苦しいようだ。夫の経済的援助は妻の実家がするものだが、妻の父はこの二条邸の婿でもある。互いが相殺されて、それは期待もできない。今さら小野宮邸に頭を下げるのも嫌だ。

 とるべき道は、ひとつしかないように思われる。だが踏みこめない。そこで思い切って仏道に正式に入る前に、少し寺をのぞいてみようと思い立った。自分にできる道なのかどうか、試してからにする必要がある。

 源氏は家人を走らせ、洛北雲林院うりんいんへ参篭の手続きをとらせた。

 出発の前夜は西ノ対に泊まったが、朝になって珍しく西ノ対の上は泣いた。

「何だか殿が、このままお戻りにならない気がして」

「何を言うのかね」

 源氏は笑っていた。

「ほんの数日、もの詣でに行ってくるだけだよ。野の風情も見たいからね」

「私も連れて行ってはくれないのですか」

女人にょにんはだめだよ」

「必ず帰って来て下さいましね。でも、その時にかたちが変わっていたなんて、嫌ですよ」

「分かった」

 源氏は苦笑するしかなく、そのまま妻の頭に手を置いてから西ノ対をあとにした。後ろ髪ひかれる思いだった。


 ここへも供まわりは、ただ二、三人をつれての出立だった。この日は車で一条まで上って西へ行き、一条大宮から大宮大路の末の道を上っていった。

 洛外へ出ると水田が広がり、大宮大路の末は幅も挟まってその水田の中の一本道となった。時折御園と呼ばれる莱園もあるが水田でも莱園でもない草地もかなり広く続き、そこは狩猟場となっているようだ。そんな中にぽつんと賀茂の斎院の建物が見えた。さほど大きくはないが、他に建造物がないので遠くからもよく見える。

 やがて左手に鳥居と斎院の塀を眺めながら通過すると、その向こうの西側に船岡山が見えてきた。紅葉は今が盛りで、全山が燃えていた。紅葉は秋の風物とされているが、実際に山々が色つくのは都では暦の上の冬に入ってからだ。

 その船岡山の北東一帯の、広大な敷地を占めているのが目指す雲林院である。大小数多くの伽藍が立ち並び、その甍は所狭しとひしめきあっていた。

 その中の一坊の門前に、源氏は車を停めた。

 そこはまるで別世界だった。貴族の邸宅と同じような高い文化水準で建造物は造られてはいるがみやびな風情はかけらもなく、あるのはただ厳しさだけであった。

 僧たちは源氏を快く迎えた。さっそく翌朝から読経三昧の暮らしが始まったが、まず驚いたのは僧たちの朝の早いことだった。自分とて宮仕えしていた頃は、冬などはまだ暗いうちに起きたものだったが、朝の身じたくをしているうちに夜は明けたものだった。ましてや今は毎日を家で過ごすようになり、すっかり朝寝の習慣がついていた。

 ここの法師たちは、冬だというのにほとんどまだ真夜中といえる頃に起床し、仏前への供物やら清掃やらで騒がしくなる。源氏にはそのような時刻の起床が強制されたわけではないが、自分だけ寝ているのもばつが悪く、いっしょに起きた。

 すべてが月の明かりを頼りの所作だった。やがて朝の読経が始まり、それが終る頃になってようやく空は白みはじめる。

 源氏はふと僧たちがうらやましくなった。こうして起床の瞬間から、なすべきことが多くある。決して退屈はするまい。そしてそのことが来世のための功徳にもなるのだ。

「念仏衆生摂取不捨」と、繰り返し繰り返し念じられる経文きょうもんを耳に、源氏はふと考えこんでいた。

 心の整理をするためにここへ来てみたが、僧たちの情熱に比して、自分がいかにちっぽけであるかと通感してしまう。彼らはすべてを捨ててここにいる。すべての俗世への執着を断ち切ってここにいるのだ。それにひきかえ自分は俗世を捨てきれずにいる。自分を捨てきれずにいる。もしこんなことで不意に他界することになれば、この世への執着が断ち切れるかどうか……源氏には自信がなかった。

 官職も何もない身の上である。本来なら執着を持つべきものは何もないはずである。それなのになぜ……そう思って行きあたるのが、西ノ対の妻の笑顔だった。

 自分にはどうも仏道心がないらしい。そう思っているうちに、勤行こんぎょうも終わった。

 昼は高僧が源氏のために特別に、仏道の講義をしてくれた。

「かたよりの心、とらわれの心を捨ててこそ、仏に拾われる時が参ります」

 その言葉のみが心に残ったが、今の源氏には煩悩が深すぎてなかなかとらわれの心を捨てることはできそうもなかった。

 ただ、庭から見る山の紅葉ばかりが眼をたのしませてくれて、それだけで何もせずに二条邸にいるよりかは充実した時間を持っているようだった。

 ここへ来たのは平調な毎日への刺激を求めてということもあった。時には俗世を忘れたような気にもなる。ところがそんな時不意に、妻の笑顔が浮かんだりする。男気ばかりの中にいるからかもしれない。

 思いあまって源氏は、妻へ文を書いた。


  冬の日の とく来たるてふ ものからに

    もみぢは燃ゆる わがこころかな


 他に三条の藤壷の宮へも文をしたためた。かの宮も世に忘れられて、つれづれに暮らしているであろうことを思い、日頃の無沙汰のわびも兼ねてだった。さらに庭の楓の紅葉があまりにも美しかったので、その枝も一枝そえて家人けにんに持たせて遣った。

 とにかく来たからにはと源氏は思い立ち、経典六十巻を読むことにした。難解なところ、疑問を感じたところがあれば、ただちに高僧が質疑に応じてくれる。その六十巻も終わる頃、妻よりの文が届いた。

 あのようなかたちで妻問いしたために、結婿前も後もめったに文をかわしたことのないという珍しい夫婦だったので、久々に見る妻の文に源氏は心が踊っていた。


  もみち葉の 散り敷く野辺に 風吹けば

    色かはりなん いたくな吹きそ


 痛いまでのもの思いが伝わってくる。それにふと気づいたことだが、筆跡が自分にそっくりなのだ。もっとも全く同じというわけではなく、そこに女性としての気品さも含まれてはいたが、とにかく自分の字を手本として手習いをしてきた少女だったのだ。見事なまでに自分の色に染まったと、源氏は嬉しかった。

 そして妻のもの想いを知った以上、どんなことがあってもこの妻を捨てることはできないと思った。

 とにかく経文六十巻を読破するまでは帰れない。しかしそのことは裏を返せば、読破したら帰ろうということにつながった。

 苦しいわが邸の経済状態を知りながらも、源氏は寺とまた近臨の庶民にまで布施を施して、寺を辞した。ありとある僧が出て来て感激し、源氏の志に涙を流さんばかりに喜んでいた。


 戻ると妻は、真っ先に胸にとび込んできた。

「帰ってきて下さいましたのね」

「もちろんさ。君をおいてどこへも行けないことが分かったよ」

 優しく源氏は妻の身体を包む。しかしなぜか彼には、束の間の抱擁に思われてならなかった。

 手を放せばどこかへ飛んでいってしまいそうだった。妻がなのかあるいは自分がなのかは分からない。

 そのようなことはないと言い切かせても、一沫の不安はぬぐいきれない。久々に妻の顔を見て、なぜそのような気になったのかも見当がつかなかった。

「やはり私には、出家は無理だな」

「そりゃそうですよ。私がいるんですもの」

 そんな妻の様子に思わず源氏は微笑んでしまう。妻にとっては、今目の前の幸福がすべてであるようだ。

 出家すれは――源氏は考えた。この女はもちろん、あるかどうかは分からないにしても、復任の可能性を自らの手で葬り去ってしまうことになる。まだまだ執着はあった。源氏は妻とは違い、これからのことも考えていかねはならない。


 その翌日、摂政太政大臣の使いが二条邸を訪れた。

 すわ復任かとはやる気持ちを抑え、南面みなみおもてで源氏は使者と対面した。

 ところが復任の話は全くなく、たまには参内するようにという催促の使いにすぎなかった。参内したからとて官職のない彼は何をするでもなかったが、摂政の特別の計らいで帝にお目通りもかなうという。

 気は進まなかったが、源氏は腰を上げた。もしかしたら直接帝に復任を訴える、そんな機会もうかがえるかもしれなかった。

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