8
年が明けて一月、二月と過ぎても、姫に出した手紙は梨のつぶてだった。
花が咲くはずの季節には各種の年中行事に加えてさまざまな公務が入り、源氏は身動きも取れない忙殺された状態となった。花が咲くはずの季節というのは、この年はその時期になってもいつまでも莟が開く気配がなかったのだ。
源氏の公務はまず政道に関する意見書の提出であつた。公卿や大夫、京官、そして畿内以外の諸国の五位以上の国司や儒士に詔が下され、政道に対する意見書の提出が義務付けられたのである。それは即位のあと初めてといっていいような、帝ご自身による政治的活動であった。だが源氏たち参議にとっては大変な負担で、まずは自分たちがその意見書を書くばかりでなく上ってきた意見書の事務上の処理もしなければならなかった。
帝としては摂政が関白になったことで自分は一人前になったのだと自覚してやる気を起こし始めたのと、東西の兵乱や天変地異など天子としての不海山ゆえの事態を招いたことへの反省の意味もおありになったのであろうが、それを処理する下の者たちにとってはたまったものではなかった。
源氏などはまだいい方であり、実際に事務を執る役人は大わらわで、夜になっても宮中を退出できない毎日が続いていた。だが、国司からの意見封事は、内容は白紙同然であった。反応はほとんどなかったのである。
それと重なり、東西の兵乱の軍功も議せられた。
長々しい議定は、源氏にとっては時間がもったいなくて仕方がなかった。やらなければならない事務上の決裁が、衛門府の方も含めて山と積まれている。
さらに春の除目の議が、それに追い打ちをかける。
結局、修理大夫は征東大将軍としても征西大将軍としても何ら論功はなかった。いい加減に彼もすねはじめ、欠勤も多くなっていった。老齢による体調不調と兼任が民部卿という冗官であることも、彼の足を宮中から遠ざけているのかもしれなかった。
だが人々はそうとはとらず、大納言などは露骨に皮肉を言っていた。
除目といえは、またかなりの異動があった。
権中納言左金吾が、一気に正規の中納言を飛び越えて大納言となった。これで大納言は二人となり、しかもその二人は兄弟であるという状況になった。
兄の小野宮大納言は右大将で
関白太政大臣の力を、源氏はひしひしと感じた。
しかし宮中には、それと対抗する別の力が、表立ってはいないにせよ裏には厳として存在していた――すなわち弘徽殿大后である。その弘徽殿大后は最近では病もだいぶよくなり、たびたび帝の御座所に足を運んでいるという。
その大后が目を掛ける昨年権中納言に昇格した左兵衛督は故本院大臣の遺族で、それが九条大納言のそれまでの兼職であった左衛門督を引き継いだ。そしてその弟の宰相左中将は権中納言となり、これまた従四位上からいきなり従三位だ。
源氏はといえは、宰相右衛門督兼備前権守に据え置きだった。
忘れているわけではなかったが、とても源氏には備前にいる明石の姫を顧みる余裕はなかった。
入道とて同様で、彼にとっては身内にちょっとした慶事があった。彼の兄はかつて東国推問使のごたごたで官位を剥奪されていたが、このたび右衛門権佐に復任が許され、さらに侍従にも任じられたのである。すなわち伯父でありながら、甥の源氏の旗下に入ったことになる。
遅い桜も咲いた。数年前と同じで天候が狂っていたのではなく暦が狂っていたからで、それを修正すべく閏の三月が入った。それによって普通よりひと月長くなった春も終わり、
悲観的になって、源氏は東ノ対を訪ねた。今すぐにでも自分が自ら迎えに行きたい。しかし、今の公務がそれを許さない。
「わしが文を書きましょうぞ」
と、入道は言った。それがいちばんいいと源氏も思った。ただ、少しだけ心に寒いところがあったのも否めない。自分は姫に嫌われてしまったのか……それならそれでもいいという自虐心が、少なからす源氏の中にあった。
梅雨の頃になって、不吉な事件が宮中で起こった。
左近衛府内で死穢事件があったのだ。下女が朝起きると、五歳ほどの童女が犬に食われて手足もなく、頭と胴体だけの遺体となって転がっていたのである。
かつて厨の下女として仕えていた女が病で退出してそのあとで死んだが、その遺児がいつまでもここを離れずに物乞いに来ていた。死んでいたのはその子だった。
問題はその触穢がどの範囲まで伝播しているか、そしてその触穢による物忌も期間がどれくらいになるかということで、そのためたちまち公卿による陣定となった。
そんな公卿たちにとって多忙な毎日にも、少しだけ花を添える行事があった。殿上において、異国の使節が来たという場面を設定して演じる詩興である。
源氏もそれを見ることによって、少しは毎日の憂さを晴らそうとした。
演劇はたしかにおもしろかった。異国の使節の役は源氏の異母弟のかつての中書王、今では源姓に降って左近衛権中将となっている者で、そして帝の役は十四宮だった。
演劇を見ながら酒を飲んでいた源氏の隣に、いつのまにか九条大納言が来ていた。
「どうだい。十四宮の帝役。板についているだろう」
そう言って大納言は笑う。彼は今得意の絶頂なのだなと、源氏は感じた。だから、源氏も共に笑った。
「羽振りがいいな、君は」
互いに酒を注ぎ合い、また殿上の舞を見た。
「羽振りもよくもなるさ。見たまえ、ありゃどう見ても本物の帝だ。わが兄のところの梨壷女御が御懐妊という知らせは一向に耳にしないしな。わが四の君はだいぶ十四宮にはかわいがって頂いているようだ」
「変わらないな」
と、ぽつんと源氏はつぶやいた。
「え?」
大納言は源氏を見た。その顔は大納言という権力の権化ではなく、今だけは昔の頭中将だった頃のままのような気がして、源氏は少しだけほっとして笑った。
「何を笑ってるんだい。気持ち悪い」
「いや、何でもないよ」
さらに少しだけ笑って、源氏は真顔に戻った。
数日後、源氏は修理大夫を訪ねた。この老人はここのところ、さらに欠勤が目立っている。
「いや、何もかもがおもしろくない」
白い髪をいじりながら、細身の老人は言った。
「あ、済まんなあ。お若い方にこんな老人の繰り言をお聞かせして」
「いえ、私とて同じ気持ちですよ」
「何をおっしゃる。お若い方が」
力なく笑った後、修理大夫は庭の方を見た。
「申しわけありませんでしたなあ。明石の姫君のことでは、お役に立てませんで」
「いえいえ、深いご尽力。厚く感じ入っております」
源氏は頭を下げた。
「で、見つかりなさったとか」
「ええ、しかしどうも、私は嫌われているようでして」
「そんなことはございますまい」
また少し笑って、修理大夫は杯を干した。源氏の杯にも女房が酒を注いだ。それを干す源氏の姿を、修理大夫は目を細めて見ていた。
「お若い方はうらやましい。わしはこの年でようやくこの地位じゃ。源宰相殿はたしかまだ二十代で」
「来年は
「いやいや、お若いお若い」
欠けた歯を見せて修理大夫は笑ったが、源氏は笑わなかった。
「お若くないのです。もはや世を捨てて、寺などへとさえ思っておるくらいで」
「何をおっしゃいます」
本気にはしていないらしく、修理大夫はまた笑っていた。源氏はため息をついた。
「もうくたびれましたよ。自分が何者であるのか分からないくらいなのです。今のままでは、いつまでたっても分からないでしょうね。だから、本当の自分を探したいとも思うんです」
「源氏の君様。源氏の君様が通う
「一人です。それも自邸の西ノ対におります。その妻に対する自分の気持ちからして、自分でも分からなくなっていまして」
「ああ、新大納言殿の娘御ですな」
「ええ、ほかにもう一人おりましたが……、それが例の明石の姫でして……。しかも私は嫌われている……」
「しかし源氏の君様はそのお年で、この老いぼれと同じ地位にいらっしゃるのですから、ゆくゆくは……」
「それが恐いのですよ」
源氏は目をあげた。
「若くして高官に登った者は、長生きしたためしがありませんからね。長命のためにも今のうち出家しておいた方が……」
「おできになりますかな」
修理大夫の顔は真顔だった。源氏は痛い所を突かれて答えられず、ただうつむいた。
「わしも今まで日陰で生きてきたものでござるよ。しかしこう見えても、太政大臣殿とは先祖をたどれば、同じ大織冠殿に行き当たる。それでも傍系ゆえのこの人生でござった。それでもいろいろおもしろうございましたよ」
声をあげて修理大夫は笑い、その中でぽつりと源氏は言った。
「しかし、もし明石の姫が形を変えましたなら、同じ形になるための寺は用意してあります」
「寺?」
「はい。皇親源氏の私には父祖伝来の寺というのはございません。だから造るしかないんです。聞けば河原左大臣殿の嵯峨の別荘跡が寺となり、阿弥陀堂が建てられていると聞きますが、今はそれを守る者もなく荒れ果てているとかで、それで
「はう、しかしよくお許しが……」
「我が母の家系は、河原左大臣殿とはいささか縁のある流れでして」
「ま、造寺造塔は滅罪にもみ仏の功徳を得るためにもいいことですな。しかし、それでもう十分ではござらぬか。くれぐれも早まったことはなさらぬよう」
源氏はまた、目を伏せて黙った。
「もったいのうございますよ」
修理大夫はそうつぶやいて、何度もうなずいていた。
(つづく)
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