第3章 松風

 冬になって、源氏が新築させていた新邸がついに完成した。

 二条邸の東ノ対に住んでもらっていた入道とその妻に、早速その新しい高松邸に移ってもらった。源氏は入道に寝殿に入るよう勧めたが、頑固な老人はどうしても聞かない。それで入道夫婦は西ノ対に入ることになった。たしかに地券の名義は源氏の所有の屋敷として交付されているから、それが筋かもしれなかった。

 入道たちはこれで落ち着いたとしても、源氏にとって気がかりなのはその娘である明石の姫だ。安否が分からなかった頃の方が、まだ心は落ち着いていたかもしれない。そこには一種の諦観があったからだ。しかし今は、姫は無事に生きていることを知っている。それなのに彼女は、上洛しようとしない。源氏のふみも、秋が深まったというのにまだ梨のつぶてだ。

 それでも源氏はいつ姫が上洛してもいいようにと、高松邸の北ノ対をことのほか繕わせていた。調度もそろえた。西ノ対と同様に政所を置き、家司を定めた。女房も選んでいる。つまり、北ノ対の政所や家司は、存在しない主人に仕えるという妙なことになった。

 そして源氏は、この北ノ対の主は必ず来ると家司たちを励ました。そしてその暁には自分が通うために、入道の意に甘えて源氏は寝殿を自分のものとしておいた。


 源氏が改修している故河原左大臣の別業跡の御堂は、大覚寺の南の方にあった。もとからあった阿弥陀堂にも、源氏はこれまでの六丈の阿弥陀仏に代わって新たな本尊を鋳造させた。後に嵯峨光仏と呼はれることになる阿弥陀三尊像で、その名の由来は仏像の彫刻としてのモデルが光源氏その人であったからである。

 釈迦堂の建立の方もかなり進んでいるという報告もあり、冬晴れのある日、源氏は現地を視察しに行くことにした。

 車が嵯峨に近づくにつれ、源氏には遠い昔のことを思い出さずにはいられなかった。草をかき分けて車を進ませ、嵯峨野の竹林の間の小道を行くと、ふと笛のが聞こえたような気がした。そしてその笛は、まぎれもなく若い頃の自分が吹いていた笛の音であった。

 源氏は車の中で、はっと現実に帰った。そして苦笑した。何もかもが昔で、昔は昔である。そしてひとつだけ言えることは、あの頃は若かったということであった。

 寺の門は山の如く、すでにその姿を現していた。源氏が車から降りると、すぐに阿弥陀堂を預けている僧侶が迎えに出た。

「ずいぶんできましたね」

 源氏がにこにこして見わたすと、僧は腰を低くして源氏に近づいて来た。

「でき上がりますれば、河原左大臣様が一部を頂いたという嵯峨御所跡の大覚寺をもしのぐかと」

「嵯峨御所か」

 源氏はぽつんとつぶやいた。その御所におわしました帝は、河原左大臣と四条大納言の父である。四条大納言とは河原左大臣の兄であるが、四条大納言は入道や源氏の母の祖父である。それと同時に四条大納言、河原左大臣の兄弟のさらに兄の帝は、源氏の父院の曽祖父である。その兄弟の父であった帝がこの嵯峨御所におわしました帝であるが、源氏にとっては父と母の両方に連なる昔の帝である。そのゆかりの地の一部だった所に自分が立っているとことに、源氏には不思議な因縁を感じていた。

「周りのやんごとなき方々の別業からは、普請に対する苦情はないか?」

「いえ。むしろ一番近いお屋敷は今まで主もなく預かりだけが住んでいたようですが、最近そこも普請を始めましたようでございます」

「わが寺とともに改築とは、はて、いかなる御方のお屋敷ぞ」

「さほどやんごとなき方ではないように承っておりますが、そう、たしか元少納言で今は入道された方のお屋敷でしたか」

「入道……?」

 源氏の中で思い出すことがあった。

「ちょっと待て」

「はい。その方が何か……?」

「いや、何でもない」

 今、この僧が言った入道とは明石の姫の父、自分の叔父であの高松邸の西ノ対にいる入道だろうか……? まさかと源氏は思った。叔父はかつて受領としてためこんだ莫大な財産をすべて海賊に奪われ、無一文で都に上ってきて今では源氏の厄介になっている。まずもって嵯峨に別業など持とうはずもないし、だいいちそのような財力があるはずがない。さらにはそんな目的もあるはずはない。

 考えすぎか……と、源氏は思って目を上げた。

「さ、さ、源宰相殿。立ち話もなんですから、どうぞ庫裏へ」

 源氏は静かにうなずいた。庫裏へ行ってくつろいだ後、僧の案内で釈迦堂の中に入り、すでに安置されていた等身大の釈迦像を源氏は見た。その脇で僧はああでもないこうでもないと説明していたが、それは源氏の右の耳に入っては左耳から抜けていた。

 一度は自分の中で否定したが、やはり源氏は気になっていた。もしこの近くで別業を改修している入道というのが、あの入道だったら……。自分のふみに対する姫からの返事は全くなく、姫はもう自分との縁は切れたと思っているからそうなのかもしれない。

 だが、親子の縁は切れるものではない。もしかしたら、父の入道には姫は文を遣わしているのか。そして上洛も近いのか……。別業の改修はそのことと関係があるのか……。

 とにかくあれこれ考えても始まらない、直接入道本人に当たってみるしかないと、源氏は釈迦像を見ながら思っていた。


 年が明けても、源氏はなかなか入道のいる新邸の高松邸を訪ねる機会がなかった。

 源氏はいよいよ三十の大台に乗った。何かが今までと違うという実感のある正月は、行事に押されまくって瞬く間に過ぎていった。

 の日の興もあり、男踏歌もあった。そしてさらに女踏歌には十四宮――帥宮そちのみやが元服して初めておおやけの宴に参列するというので、九条大納言などは大騒ぎしていた。それに源氏も巻き込まれていた。

 花の頃を過ぎれば、除目の議が始まる。またしても源氏は、身動きがとれなくなることになる。明石の姫の文は一向に来る気配はない。

 そうこうしているうちに、本院大臣の三男の権中納言が逝去した。これで三人いた本院大臣の息子は、その次男の中納言左金吾の一人を残すのみとなった。――あな恐ろしや、これも火雷天神のなせるわざ――と、人々はまたもや噂した。三十代での突然死である。

 この頃はまた大風が吹いたり、大内裏の中で火災があったりと世間は騒がしくなってはいたが、あの東と西の兵乱のことはもう人々の中で早くも風化しつつあった。

 だが、源氏の中では決してそれは終息してはいなかった。明石の姫が上洛するまでは、西国の兵乱は終わったことにはならないのだ。


 更衣ころもがえも過ぎた頃、いいかげん源氏は心の中にわだかまっていたことを晴らそうと、高松邸を訪れた。

「実は叔父上にいささかお伺いしたいことがございまして」

「は?」

 いぶかしげにも源氏の下座で控えている老人は、少しだけ首を傾げた。

「叔父上は嵯峨に別業をお持ちでしょうか」

 源氏はあくまで砕けた口調だった。

「いかにも、嵯峨野の近くの大井の地の、大堰おおいの川を見下ろす高台の上に別業がございます。たしか前にも申し上げたと思いますが……」

「そうでしたっけ」

 源氏は本当に思い出せずにいた。

「で、その別業とは?」

「はい、わが祖父の四条大納言の築きましたものでございます。それを私が伝領しておりましたが、明石へ行ってからはほったらかしになっておりまして」

「そのお屋敷を、最近になって改修しておられませんか」

 入道の眉が少し動いた。源氏はそれを見てさらに続けた。

「私の所に姫からのふみは全くございませんが、叔父上の所へはいかがですか? 今回の別業の改築と、何か関係がおありでは?」

 しばらく、老人は黙っていた。やがて顔を上げ、前に手をついた。

「申しわけありません。娘よりは再三文をもらっております。上洛を促す私の文に少しずつですが娘の心も動いていますようで……。いや、申しわけありません。今まで、光の君様には何も申し上げずに」

「しかし、なぜでございますか?」

「何しろ娘が文で、そのように申しておりましたもので」

 源氏は、ため息をついた。

「叔父上、お顔をお上げ下さい」

 それでも、入道はそのままだった。

「娘が申しますには、もはや光の君様とは縁の切れた身、自分の身の程はわきまえていると。つまり、を亡くして光の君様と合わせる顔がないということでして、光の君様ご名義のお屋敷にはたとえ父のこの私のもとでも行くわけにはいかぬとの一点張りでございます。そこで何とか娘を都に迎えるために、大井の山荘を修復していたところでございます。とにかく都に呼び寄せてしまえば、いかほどにでも説得できると思ったわけですが、いずれもせめてもの親心、ひらにご容赦のほどを」

 相変わらずよくしゃべるが、源氏はその言葉の内容に衝撃を受けてそれどころではなかった。

「失礼ですが、その財は?」

「それは……」

 入道は口ごもった。答えにくそうだった。源氏は黙って次の言葉を待っていた。

 やがて顔は伏せたまま目だけ上にあげて、入道は源氏を見た。

「五条の兄が……」

「わかりました。今後は私がご援助申しあげましょう。もちろん姫には内密で」

「え?」

 初めて入道は、顔を上げた。あの右衛門権佐の伯父の収入に比して源氏のそれは数十倍もある。それに源氏がちょっと手を振れは、受領志願者の手がたちまち動く。

「叔父上の姫への親としてのお心遣いは、身にしみております。しかし、姫がどう思われようと、私は縁が切れたとは思っておりません。もちろん従兄妹いとこの縁は切れようはありませんが、それ以上に姫は私の正式な妻なのですから」

 源氏の弁に熱が入っているだけ、入道の瞳に光るものがあふれた。

「舅殿の御前で恥ずかしいのですが、今でも愛しいのです。でも姫は分かってくださらないようですね。私には消息しょうそこひとつない以上、あとは直接会って話すしかないでしょう。だからご援助申しあげるのです。たとえ大井にでも結構ですから姫をおよび寄せください」

「光の君様……」

 あとは言葉が続かず、入道は泣き伏した。いつしか源氏の頬にもひと筋の流れが伝わった。

 本当なら、源氏は姫のいる備前に飛んでいきたい。しかし公務がそれを許さない。備前権守という役職よりも参議であり右衛門督である方が遥かに重い。

 夏の始めにもらえる長い休暇である田假でとも考えたが、たとえ休暇中でも官職のある五位以上の官人が私用で都を離れることは許されていない。須磨に行った時のように無官でないと無理だ。

 とにかく今は、姫に上洛してもらわねば、自分の真意は伝えられない。

「叔父上、いや、舅殿!」

 源氏に両手を握られ涙にむせんだまま無言で、入道は何度もうなずいていた。

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