秋も深まり、宇治の宮の一周忌もいよいよ間近になってきた。ところが皮肉なことに、薫の公務はますます多忙を極めるようになってしまった。

 そうこうして薫は宇治には行けずにいたが、人の心などいいかげんなもので、しばらく当事的状況から離れているとどんどん変化してしまう。

 自分は普通の男ではないと自負していた薫だが、実はただの馬鹿だったのではないかと思えてきた。あの時は大君と何ごともなく一夜を過ごしたのを是としたが、だがそれは据え膳を食わなかっただけで、やはり馬鹿以外の何ものでもなかったのではないかという気がしてきたのである。

 やはり薫は、頭はみ仏に向いていても下半身はやはり男であった。だから、あの夜のことは匂宮には口が裂けても言えなかった。言えば頭ごなしに馬鹿にされるに決まっている。だがそれでも、薫の心の中ではあれでよかったのだという思いも強く、その思いと後悔とが葛藤を繰り広げることもしばしばだった。


 九月の半ばには、摂政が東三条邸とは別にかねてから造営していた二条京極邸が完成し、その落成の宴が行われた。東京極ひがしきょうごくと二条大路がぶつかった東側だから、本来は京洛の範囲外である。鴨の川音も間近に聞こえ、ぐんと東山が近くに見える。川向こうは、白河の郷だ。

 この日は新築された屋敷内に一般庶民や遊女までもが参入を認められ、酒肴も振る舞われて、さらには絹や米までが配られた。

 そして人々の目を引いたのは、東宮大進が献じてきた馬三十匹をも、摂政が参列者に土産として惜しげもなく振る舞ったことである。あとで薫が摂政の五男の権中納言より宮中にて耳打ちされた話によると、その献上主のせいで摂政は喜んではおらず、そういった挙動に出たのだということだった。

 それを聞いた薫は、東宮大進という低い身分のくせに財力のあるところを見せつけようとしたことが摂政の不興を買ったのかと思った。

 源姓の東宮大進は三世か四世の源氏で受領階級であるから確かに財力はあるはずで、東宮職にも金に物を言わせて入り込んだという評判だ。だが摂政の不興はそのような問題ではないと、権中納言は薫に言った。

「要はその父親ですよ。あの男の父親は、かつて多田左馬介といわれていた源氏なんです」

「あッ」

 と、薫は声を上げた。薫の父の光源氏が大宰府へ追い落とされた原因は、源左兵衛佐による謀反のくわだてが発端だったが、多田左馬介といえばその謀反を密告した男だ。その当時は頭中将だった今の摂政が、その多田左馬佐をよく思っているはずがない。その息子からの献上など、受け取る気持ちにならなかったのは当然であろう。

「話は変わりますが」

 権中納言の耳打ちは続く。

「実は妻が身ごもりましてね」

「ほう」

 薫は微笑んで見せた。

「それはそれは、おめでとうございます」

 妻とは、例の源左大臣の娘であろう。顔では祝福の笑みを作っていた薫だったが、内心は複雑だった。薫はまだ子がないのに、自分よりも六、七歳も若い者が人の子の親になったのである。

「源の弁様の方は?」

 それを言われるのがいちばん辛い。薫の年で子がないというのは、いわば「先例」を犯している。以前ならまだ若いからと突っぱねることもできたが、今ではそれもできない年齢となってしまっている。

 でも、こればかりは仕方がないことだった。


 権中納言とのそんなやりとりがあった数日後、匂宮の妹の斎宮としての伊勢への群行があり、さらには宇治の宮の一周忌も滞りなく執り行われた。薫はそのときは宇治には行ったが、寺で法事に参列しただけで山荘には寄らなかった。摂政の名代として権大納言も同行していたし、当然宮の息子の源宰相右衛門督もいたからである。

 そして冬への更衣ころもがえも近づいた頃に、薫はあらためて宇治へと向かった。姫君たちも、すでに喪服を脱いでいるはずである。昔のようなきらびやかな袿姿の大君を見ることができると、薫は期待していた。大君とは、打ち解けて接してくれると約束してあるからだ。

 山荘は法事の名残が残っていて、慌ただしそうな様子だった。薫がいつもの客間に通されても、女房たちは何かと歩き回っていた。

 この日は弁の君ではなく、若い女房が応対に出た。

「何だか落ち着かずに、申し訳ありません」

 部屋の入り口で手をついて女房が言うその言葉も終わらぬうちに、薫は女房に声をかけていた。

「大君様に、対面を取り次いでもらいたい」

 まだ日は高い。しかし女房たちは、すでに薫と大君との間には既成事実があると思い込んでいるはずだ。実際にはあの晩は何もなかったにせよ、女房たちが何もなかったとは思っていないということに、心の片隅にほんの少し虚しさが残るにしても、薫は陶酔感を覚えていた。

 しばらくして、先ほどの女房が戻ってきた。

「大君様は、今日はご気分がすぐれぬとかでお会いになれません」

 薫は耳を疑った。話が違うと叫びたくなるのをやっとの思いで抑え、低い声でうなるように言った。

「どういうことなのだ。納得がいかない」

「お気持ちはお察しします」

 女房は気の毒そうに言っていたが、それでいて顔はしたり顔だった。

「喪服をお脱ぎになってかえって父宮様から遠ざかるようで、それで胸がふさがっておりますとかで」

「分かった。弁の君だ。弁の君を呼んでくれ」

 女房は去った。すぐに弁の君が来た。

「いったいどういうことなんです?」

 薫は弁の君にも、もう一度同じ問いかけを繰り返した。

「私のことで、何か姫様のお気に召さないことがありましたか」

「いえいえ、そのようなことは」

 弁の君も当惑しているようであった。

「とにかく、もう一度伺ってまいります」

 弁の君は立って行った。薫は憤慨していた。女心とはこうも変わるものなのか、あるいはあの日は自分を早く帰すために適当なことを言っていたのか……あのあと、薫の中に自分を馬鹿だと責める部分があった。今の薫は、その部分に大いに同調する。

 そのうち、弁の君が戻ってきた。何かを言いにくそうに、もじもじしている。

「姫はどうでしたか? やはり、私は姫に嫌われていたのですか?」

「いえ、そうではありませんでして……。今まで頂戴致しました御恩ゆえに親しくお付き合いしてまいりましたが、その自分が薫の君様に恨まれるとは心外です、と」

 やはり姫は、自分に失望したのだと薫は思った。だが、薫の方こそそのように失望されるのは心外だった。男と女のすれ違いのわずらわしさを、薫は実感していた。

「それから」

 弁の君の話は、まだ続く。

「姫様がおっしゃいますには、自分は今まで生涯において結婚しないと決めていましたので、今さら考え直せません……どうかぜひ中君様を、と」

 結婚しないと決めていたのは、薫とて同じだ。その心を変えさせた張本人が大君なのに、その大君がそのようなことを言うのはずるいという気さえした。

「私も大君様に、女は霞を食っては生きていけないのですよと、さんざん申し上げたのですが……」

 弁の君は本当に薫にすまなそうにしていたので、かえって薫は弁の君が気の毒になった。大君とて、考えてみれば一時は人臣の権力の頂点にありながら晩年はこんな山里に隠遁して仏道を求めた男を父親に持つ身だ。世の無常を痛切に感じ、浮き世に交われないのも道理かもしれない。

 しかし薫には、大君との縁がかりそめのものとはどうしても思えなかった。そのとき、弁の君が薫の耳にそっと顔を近づけてきた。

「今宵、姫様の寝所にご案内致します」

 この申し出に、薫は身が固くなった。そのようなことは世間一般の男のすることで、自分とは関係ないと思っていたからだ。

「いえ、そんな……」

「何を申されます。すでに一夜をともにされた仲でございましょう」

 確かに、弁の君や他の女房たちはそう思っているだろう。薫の胸は高鳴った。そして、頭にまで血がのぼってしまった。

「分かった。頼む」

 そう言ってからまた余計に薫の顔は上気した。もはや、自分で自分の心を操れなくなっている。だが、もう後戻りはできなかった。これでいいと思っていた。今宵こそは、あとで自分を「馬鹿だ」と自責するようなことにはしない決意もできた。

 薫にとって、その変節は容易なことだった。薫は女嫌いでこれまで女を遠ざけていたわけではなく、人一倍女好きである自分の本性を自覚していて、それゆえに仏道成就のための強い自戒心でわざと女性と距離を置いていたのである。

 その薫が、今は夜が繰るのが待ち遠しくあった。体がうずき、顔は火照っているのである。自分が今夜しようとしている行為は、自分の大君への思いが真実であることの証しなのだと、彼はしきりに自分に言い聞かせていた。もしこれが女犯にょほんという罪に当たると言う人がいれば、それは真の釈教ではないという反論さえ薫は用意していた。

 ……女犯は罪――これでは女というものを、男に罪を作らせる存在としてしか見ていないことになる。しかし実際は、女といえどもその身に入っている魂は等しくみ仏に通じる同じものであるはずだ。だから薫は、大君と魂の次元で深く結びつきたいと思っていた。

 男同士なら直に魂と魂が結びつくこともできよう。しかし男と女ではなまじっか体が男であり女であることが、かえって障壁となる。それを乗り越えるためにはまず肉体の結びつきが必要なのだ。そのあとで、魂は結びつく。

 男と女は肉体も結びついていないのに、魂が結びつくことはできない。肉体の結びつきのない男女の友情などは、絶対に存在しない。だからこそ、世に結婚という形態があるのではないか。肉体の結びつきは、魂の結びつきの方便である。これから自分がしようとしている行為は、そういう意味がある。それを詭弁と言うならば言え。これが今の自分の真実の声である……。

 薫は何度もそのことを、心の中で反芻していた。これを異常な考え方というのなら、それでもいいと薫は異常を可とした。

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