弁の君の計らいで、客である薫にあてがわれている部屋の隣の仏間に大君は出てきてくれた。

 たが、仏間との間には御簾のみならず屏風までもが隔たりとして立てられている。それが今の姫の、心の壁を象徴しているかのようでもあった。

 薫は自分の方には灯火をもつけさせず、横になって寝そべっていた。からだの脇には、果物が盛られた高杯がある。そんな部屋を、川の音が相変わらず包んでいた。

 しばらくは、世間話をしていた。この頃都で起こったことや宮中の様子などを話していたのであるが、姫は一向に打ち解けてこなかった。

「どなたか、おりますか?」

 と、姫はしきりに近くに女房たちがいてくれているかどうかということばかりを気にしている。だが、その問いかけに返事があった気配はなかった。

 姫は、今度は薫に向かって語りかけてきた。

「申し訳ありませんが、少々疲れておりますので、休ませてもらえませんでしょうか。朝方にでももう一度……」

 そのまま衣擦れの音がして、姫は奥に入りかけた。このまま何と答えようと、あるいは黙っていようとも、姫は奥に入ってしまう……そう思った薫は、ついに爆発した。

「どうして、隔て心をとり払っては下さらないのですか。草をかき分けて山道をはるばるとやって来た心を、どうして分かって下さらないのですか」

 薫は立ち上がった。そして御簾をかき上げ、屏風をも押しのけて大君のいる仏間へと入った。仏前の灯明が、驚きで身動きもできずにいる大君の顔を微かに照らしていた。その顔を見た途端に薫は全身が震えるくらいの衝撃を受け、頭の中は完全に真っ白になった。

 すぐに大君は喪服の袖で顔を隠して奥に逃げようとしたが、すでに薫はその体を押さえていた。姫はなすすべもなく、力なく座り込んだ。そして、

「誰か、誰か!」

 と、大声で騒いでいたが、誰も来なかった。その声は女房たちには聞こえているはずだ。だが、このような男と女の状況になった場合、女房たちというのはその主人を助けようとはせず、むしろその場に居合わせてもさっと席をはずすものだということを、この姫は知らないらしい。

「お静かに。これ以上の無礼は致しません。私にはそのようなことはできないのですから、ご安心下さい」

 姫は薫に背を向けていた。その背中は震えていた。その背中にかかる長い黒髪と姫の芳香に薫の胸ははちきれんばかりに激動し、頭がクラッとした。

 そして、思わず手を伸ばして黒髪のつやをなでた。後ろから抱きしめている体のぬくもりと柔らかさが伝わってくる。薫の心は酩酊感に襲われ、もはや川の水音さえ聞こえなくなっていた。

 薫はほとんど理性を失いかけていた。このまま突き進めば、彼女と肉体的にも一つとなれる。しかし、ここは仏間であった。弥陀の尊像の御前である。やはり薫の性分で、このような場所でこれ以上は進めなかった。

 だが仏間でなかったとしても、自制心の強い薫は、本当にそれ以上は何もできなかったであろう。意識して抑えなくても、手が動かない。彼が臆病なわけでもなく、あとのことを考えての理性的な打算が働いたわけでもない。

 これほどまでにも大君を思っているのにこれ以上進めないというのは矛盾だが、長い間、女性に対する思いを押し殺してきた自戒を仏道の師である人の娘を相手にして破ることはできなかったのである。

「これ以上の無礼はって……もう十分に無礼ではありませんか」

 身体的に抵抗するのは不可能と悟った姫の、せめてもの言葉による抵抗であった。

「隔てなくという、私の気持ちを分かっていただきたかったのです」

「こんな……こんな人だったなんて……見損ないました……。ひどい……女の喪服姿を……。今は父の喪中なのですよ」

 姫は、今度は泣きだした。

「確かに、申し訳なく思っています。でも、昨日今日始まったお付き合いではないではありませんか」

「私は今まで、騙されていたのですね。こんなひどい人だったとも知らずに……」

「いえ、それは心外です」

 そこまで言われたら、薫は痛くもない腹を探られたという気持ちだった。姫が世間一般の男に対する基準で自分をも見ているということは、薫にとっては不本意の極みであった。

「私は普通の男とは違います。その証拠に、本当にこのまま何もしません。物越しではなく向かい合って、朝まで話をしてくださればそれでいいのです。そのことを受け入れてくださいましたなら、私が普通の男とは違うということの証明に、あなたには指一本触れないことをお約束します。私はあなたのお父上と、心を一つに通わせていた仲なのですから……。でも……、もしどうしても奥にお入りになるとおっしゃるのでしたら、その時は自分の心がどうなるか保証はできません」

 こんな脅迫めいたことは言いたくはない薫であったが、気がついたら言っていたというのが実際のところであった。

「分かりました。手をお放し下さい」

 薫は手を放した。姫は泣き崩れた。薫もその近くに座り直した。

「お顔を上げてはいただけませんか?」

 泣き伏したまま、大君は首を横に振った。そしてそのまま泣き続けた。薫は心底困っていた。これでは話をするどころではない。しばらくは大君が泣くのにまかせ、姫の鳴き声のほかには二人の間に沈黙が漂った。

 このときになって薫ははじめて、自分が取り返しのつかないことをしでかしたのではないかという自責の念にかられはじめた。

 仕方なく、薫は一方的に口を開いた。

「私の生い立ちでも、お話しましょうかね」

 薫は幼い頃のありったけを、静かに話し始めた。父の光源氏のこと、紫の母と二条邸のこと……今はもうこの世に存在しない西宮にしのみや邸のことや西山の尼宮の母のこと……姫の泣き声は、次第に弱まっていった。それでもまだ、顔を上げるには至らなかった。

 薫は大きく息を吸った。そして、これまでとは口調を変え、ゆっくりと低い声で言った。

「実は私は、光源氏の子ではないのです」

 これには姫も驚いたようで、少しだけ顔を上げた。

「この宇治へ通うようになって、弁の君から聞いてはじめて知ったことなのですが、このことは他言無用。あなただけに申し上げるのですから」

 姫は目を見開いて、上半身を前に伏したまま首だけひねって薫を見た。その顔が、灯火に照らし出された。あらためて薫の胸は高鳴った。その美しさは、霧の朝そのままだった。

「光源氏様のお子ではないって……。あなた様は、私の従兄いとこではないのですか……」

「はい。実は、私の本当の母親があなたの従姉いとこなのです」

 薫はゆっくりと、自分の知る限りの真実を、感じた疑惑から心の動揺、葛藤などをも含めすべて姫に語った。

「そんな……。そんなことって……」

 はじめ姫はまたうつむいて絶句していたが、しばらくの沈黙のあとにまた顔を上げた。

「どなたも、ご存じないことなのですか?」

「はい。今生きているものでこのことを知っているのは、当の西山の母と弁の君だけです。匂宮兵部卿宮様もご存じないし、お仕えしている冷泉院様も、実の父親の兄である摂政殿下もご存じありません」

 薫はそれだけはあえて大君に言わなかったが、薫がほったらかしにしている妻でさえこのことは知らないのだ。

「そのような大事なことを、私だけにお打ち明け下さったのですか?」

「そうです。ですから、今宵また一人、私の秘密を知っている人が増えたってことですね。このことは、妹君にも言わないで下さい。そして、私があなたに話したということを、弁の君にも内密に」

「はい。知らないふりをしております。それにしても、そのような大事なことを私に……。本当のことがお分かりになるまでは、お辛かったでしょう……」

 姫も大きく息をついていた。

 それから途切れがちにではあるが薫の出生の秘密の話題で話は一晩中続き、そのうち夜も明けてきた。薫の供のものが主人へ帰りを促すため、庭で咳払いなどをしている。馬のいななきも聞こえた。

 薫は立ち上がって端近まで歩き、格子を押し上げた。姫も立って、薫の隣まで来た。そして、驚くほど薫に近づいて並んで立っている。外ではゆっくりと、朝の光が濃くなっていっていた。だがまだ、完全に夜は明けきってはいない。

「私はあなたとこのように、同じ心で月や花をめでる生活がしたいのです。み仏の道についても、ともに語り合いたい。そのようなことが可能な女人は、あなたをおいてほかにはいないと思うのです。都のやんごとなき姫君などは、身分があり財力があり後見があっても、頭の中は空っぽですからね」

 姫は薫の脇で、照れてはにかんでいた。その様子がまた姫を抱きしめたくなる衝動を薫に与えたが、薫はあえて自制した。もはや姫は、朝の光の中で顔を隠そうともしない。

「これからはいつでも、心の隔てなくお話いたしましょう。私には、こんな大事な秘密を打ち明けてくださったのですから」

 それを聞いて、薫の心ははじけた。だが、

「ただし、今後は物越しで……」

 という姫の言葉には、はじけたものはしぼんでしまった。まだ完全には、心を開いてはくれていないらしい。「心の隔てなく」と言いながら「物越しで」とは、少々矛盾してはいる。

 早とちりは禁物と、薫は自戒した。先ほどの姫の「心の隔てなく」という言葉で、姫も自分を愛してくれたと思い込んでしまったらとんだ道化ものだ。そのへんの分別は、さすがに年齢的に薫は持っている。

 川音に重なって、水鳥たちの羽音が一斉に聞こえてきた。寺の鐘の音も微かに響いてくる。

「明るくなってまいりますとここは外から丸見えなので、恥ずかしゅうございます」

「今私が出ていったりしたら、それこそ通い人みたいではないですか」

 事実、彼女との間には何もなかった。二人とも一睡もせず、対座して話をしていただけだ。しかしそれでさえ、薫には生まれて初めての大事件だった。若い女性と御簾もなしに直接に膝を交え、二人きりでこんなにも長時間をともに過ごしたのである。

 だが、他人の目には情事のあとのように映るであろうことは必至で、それなら一層のこと何もなかったことの方がかえって悔しく思われる。もし本当に情事のあとなら、それはそう思われても仕方がない。しかし、何もなかっただけに惨めでもあるし、彼女にも気の毒だった。

 しかし今、こうして並んで庭を見ているということには、薫はわずかながらの満足を覚えていた。それは、偽の金塊を本物ではないと知りつつも、あえて本物だと思い込もうとして満足している状況にも似ていた。本当は違うという後ろめたさと、他人からの羨望によって増してしまう本物ではないことに対する辛さが同居した心情だ。

「これからも、隔てなく接してください。決して普通の男のようなけしからんことはしませんから。私は普通の男ではないのです」

 薫はまた、それを強調した。それでもまだ、薫は帰ろうとはしなかった。

「お気持ちは分かりましたわ。男女の間でも、友情はあると信じています。でも今日だけは、お願いです、このへんで……」

「私はまだ暁の別れというものを経験したことがありませんが、それってこんな感じなのでしょうね」

 薫が苦笑すると、鶏の声が響いた。庭もかなり明るくなってきている。薫は従者を呼んで、大君だけに見送られて車に乗った。

 帰りの車中で薫は昨夜のことを振り返り、彼女の相手が自分であってつくづくよかったと思っていた。

 あの状態でもし普通の男だったら、何もなかったはずはない。今までよくぞほかの男とあのような状況がなかったものだと安心すると同時に、あり得たはずなのに起こっていなかったことに感謝した。

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