第4章 総角

 姫君たちにとっては長年聞き慣れていたはずの川の音も、今年の秋は特に物悲しく感じているに違いないということは、薫にも容易に推測できた。

 間もなく、宇治の宮の一周忌である。

 姫たちはその準備もしなければならないであろうが、世慣れぬ二人の姉妹ではおぼつかなく、女房たちも頼りにはならず、異腹の兄の源宰相はその父親とさえ疎遠になっていた男でこれもあてにはならない。

 やはりここはどうしても自分の出番だと、薫は思っていた。そうすることによって昨年の暮れに大君に打ち明けた自分の心が、決してひと時のあだ心ではなかったことの証明にもなろう。亡き宮への義理も立つ。

 だが、薫の真意はそのような打算的なものではなく、やむにやまれぬ心情から湧き上がってきたものだった。

 時にはみ仏よりも大君の方が、薫の心の中で占めている割合が多かったりもする。それでいいのかと自問することもあるが、今はもう薫とて自分の気持ちを止められなかった。

 だが宮とも、そしてその娘である姫たちとこのようなことになったのも、すべてが前世からの宿縁であることには間違いなかった。

 宮の一周忌の指示も、薫は都にいながらにして弁の君あてに使いを送って指図することしかできず、自身が宇治へ行くことはなかなかできなかったので、それが歯がゆくもあった。


 この年は、いつまでも残暑が厳しかった。

 そしていよいよ一周忌が間近に迫った頃、やはり阿闍梨への指示はどうしても自分がしたくて、薫は何とか口実を設けて宇治へと向かった。

 宇治ではまず宮が亡くなった寺に向かった。川沿いの道から山の方へ垂直に折れ、坂を登ったところに寺はあった。狭い坂道で、中央だけ道幅が少し広くなっている和琴のような形の坂道だった。登りきったところに門があり、そこからの見晴らしは実にいい。寺にしては、なかなか風情のある庭も持っていた。

 薫はまず寺の僧と、仏事に関するこまごまとした打ち合わせをした。そのあとで亡き人の思い出話も二、三出たが、姫君たちの話題はなかった。

 もちろん薫は大君への思いなど僧には打ち明けていなかったし、そのような気配さえ感じさせまいと努めていたのである。

 そしてその足で、薫は山荘へと向かった。女房たちは薫を下にも置かないもてなしぶりで、薫はすぐに東の廂の客間へと導き入れられた。

「姫様方は、ちょうど仏事のための名香の糸を組んでいるところでございますよ」

 いつも親しく接してくれるのは、老女房の弁の君だった。自分の実の父親のゆかりの人だから、老婆でも薫は疎ましくは感じない。その老婆に、薫は言った。

「今日は姫君様がたと仏事のことに関してどうしてもこまごまとした打ち合わせが必要ですし、話も込み入ってまいりますので、人伝では取り次ぎの方をお悩ませすることになります。ですから、今日はどうしても人伝ではなくお話がしたいと、姫君様がたに申し上げてくれませんか?」

 弁の君は承知して一度中へ入ったが、何の返答もないままかなりの時間が過ぎていった。弁の君と姫君たちは、もめているようだ。

 もう去年になってしまったが、自分の心を漏らしてしまったということがあった以上、すぐに姫が出てきてくれないのも道理だと思う。ところがずいぶんたってから、御簾の内側に衣擦れの音がした。それが、薫の頼みへの返答だった。

 薫は、わざと事務的な話ばかりをした。後見を引き受けたくせに長くこの地を訪れないでいた言い訳をしようとも思っていたが、それではまるで情人が通わなくなってしまったことへの言い訳のようなのでやめた。

 心の中で何かが結晶し、それが熱を帯びて燃えはじめていたとはいえ、まだまだ薫には道心から来る自制心があった。それが、薫の性質たちなのかもしれない。誠意はあるがそれは姫君たちの亡き父親の弟子としての、そして姫君たちの後見人としての誠意であって、男と女という雰囲気は避けようとしている。

「御願文の下書きは、私が引き受けましょう」

「よろしうに」

 ゆっくりと時間をおいてだが、大君の言葉は御簾の向こうから直接返ってくる。

総角あげまきをお作りでしたか」

「はい」

 大君の言葉には、一語一語に理性的な部分に属する薫の本来の性質を押しのけて、感情の部分で燃えているものをさらに燃焼させ、薫は胸の中でどんどん熱を発していった。

総角あげまきといえば、そんな催馬楽さいばらがございましたね。在五中将の物語にも総角あげまき髪の幼い男の子と女の子が、井戸の周りで遊んでいるうちに、いつしか互いに心を惹かれたという話も」

 しばらく、沈黙が漂った。

 そして、

「何がおっしゃりたいのでしょうか?」

 という大君の問いかけに、薫は鋭い刃物のようなものを感じて身を固くした。そして、ひとつだけ咳払いをした。このような時は、わざと話題を変えるのが薫の常であった。決して逃げではなく、自分の心情を激しくはぶつけまいという意固地さからだ。

「兵部卿宮様の話ですよ。兵部卿宮様と中君様のことにかこつけて、申し上げたのです。私はあなたと心を開いて、あの若い二人のことをあれこれご相談申し上げたいと思っておるのですが」

「私はあなた様と、こんなにまで世間に例がないくらいに親しく接しているつもりでしてよ。それもあなた様の、我らが亡き父へのお心と拝してのことです。それなのに、それをお分かりになってくださらないのは、何か後ろめたいお心がおありだからではないでしょうか」

 なかなか手強い。利発な女性である。しかしそれが、ますます薫をひきつけてしまう要因となった。

「父がおりますうちはそのようなことは思っておりませんでしたのに、思いもかけぬことになりまして……。ただ父は、自分の分をわきまえて結婚など望ます、一生独身を守ってこの山荘から出るなとおっしゃっておりました。妹までにもそうさせるのは不甲斐ないと思いますけれども、私に関しましてはどうか今後、何も……」

 切り返されてしまって、薫は言葉が続けられなくなった。だからといって、薫の心の中の炎が消えたわけではなかった。しかしまた例の癖で、薫は話をまたもとの仏事のことへと戻した。

 話がひと段落して大君が中に戻ってから、薫は弁の君を呼んだ。

「今日は、泊まっていきます」

 そう言ってから、薫は何か言いにくそうにうつむいていた。

「どうなさいました?」

 弁の君は、薫のそばに座った。

「あなたは私を軽蔑するだろうか。仏の道を求めてこの地に通い始めた私で、亡き宮さまと接することでそれはかなえられそうな気がしていました。しかし、まさかその私の心が、このような思ってもみなかった方向に向くとは……」

「思ってもみなかった方向とおっしゃいますと?」

「大君様に、恋をしてしまったらしい。馬鹿な男と笑っておくれ」

 薫は両手で、自らの顔を覆った。弁の君は笑んでいた。

「若い殿方なら、当然のお気持ちです。普通のことではありませんか」

「いや、私は自分のことを、普通の男とは思ってなかったのです。普通であってはいけないと自戒して、名目上の妻はいるにしてもこれまで実質上は独り身を通してきましたし、これからもそうあるつもりでいました。それなのに……。前世からの宿世なんでしょうね」

「普通におなりあそばしなさいまし。私どもも薫の君様がお相手なら、心強うございます」

「しかし姫は、お心を開いては下さらない」

 薫はふと、この老婆になら不思議と何でも話せる自分に気がついた。弁の君もいつしか薫のことを、官職名ではなく薫というその通称で呼ぶようになっている。

「何しろあの宮様の娘御ですから、変わったところもございますよ。それに、このように世間と隔たってお暮らしですからね」

 薫が心から慕っていた亡き宮の娘、それが大君だということも、薫がまた大君に引かれる所以ゆえんなのだ。仏道に関しても芸事の才にしても、父からの血を何かしら受け継いでいるであろうと思われる。それだけに、ともに日々を語らうにふさわしい相手だと感じているのだ。

「もしや大君様は、もうほかにお心をお決めになったお相手がいらっしゃるとか?」

「それはございません」

 と、弁の君はきっぱりと言った。

「宮様がお亡くなりになりましてから去っていった女房もおりますけれど、行き場のないものは自分の身を安定させようと姫様方に結婚をお勧めする不届き物も確かにおりました。それでも姫様方はお父君の言い付けを頑なに守っておられるようでした。ただ大君様は、妹の中君様には幸せになってほしいと思し召して、あなた様と中君様がとお思いになっておられたようですが」

「ちょっと、待って」

 これは意外なことを聞く。薫は思わず顔を上げた。

「しかし、中君様には兵部卿宮様が……。そのことは再三申し上げておりますし、その兵部卿宮様と中君様とのことを大君様にもご相談申し上げて来ましたのに……」

 薫は少々興奮気味になって、詰め寄るような口調となった。今度は弁の君の方が、うつむく番だった。

「兵部卿宮様からは折に触れてお文を頂きますけれど、姫様方はどちらもそれを誠実なお文とは思っておられないようでして」

「馬鹿な……。兵部卿宮様は好きものと噂はされていますが、根は真面目だってことは私がいちばんよく知っています。それに私がかたくななまでに執着を断とうとしていたこの世で、はじめて心を動かされたのが大君様なんです。女性に対して、こんな気持ちになったのは初めてなんです。それをそう言われたからとて、はいそうですかとほいほいその妹に心が移せますか」

 薫は顔をそむけ、ため息を一つついた。弁の君から話を聞いた今となっては、大君が妹だけは幸せにと言っていたことにも納得がいく。

「大君様はずるい……」

 そう小声でつぶやいたあと、薫はまた弁の君を見た。

「とにかく今宵、大君様と話だけでもさせてください。協力して下さいますね」

 強い口調だった。薫は言ってしまってから、自分の度胸に驚いた。今までの自分とは全く別人になってしまったように自分でも感じていた。だが、話だけというのは、薫にとっては偽らざる心境であった。

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