そしてついに、夜が来た。

 紙燭を持って、弁の君が案内に来た。簀子を歩きながら、薫は気になっていたことを弁の君に尋ねた

「大君様は、いつも中君様とご一緒にお休みなのではないですか?」

「はい、確かに」

「今宵も?」

「はい。今宵ばかりは別々にと申し上げるわけにはまいりません。でも、ご心配には及びませんよ。中君様ももう大人でございます。ことが始まりましたならば、すぐに退出致しましょう」

 弁の君はそう言うものの、薫にとっては厄介なことではあった。

 部屋の中は真っ暗だった。紙燭を持った弁の君は、簀子よりも中には入らない。薫はしばらく目が慣れるのを持つばかりだった。

 やがて弁の君が、火のついた小さな燭台を持ってきてくれた。これなら持ち運びもできるし、床に置くこともできる。

 薫の心は苦しいくらいに波打ち、呼吸すら困難となっていた。このようなことは生まれて初めてである。今では形だけとなっている妻との最初のときはまだ幼かったので何が何だかわけが分からず、三日通いの時もただ並んで寝ただけであった。だから彼は三十にして、このような行為はほとんど初体験に近かった。

 部屋の中央に畳が二畳だけ敷かれ、その上にぼんやりと盛り上がった寝具が見えた。そのそばにあからさまに火を近づけずに、薫はゆっくりと這うようにして畳に近づいた。

 弁の君の話では、畳の上には二人の姉妹がともに寝ているはずである。まずは相手を間違えないことだと、薫は自分に言い聞かせた。だが、その心配は必要なかった。寝具の中で寝ているのは、一人だけだったからである。

 薫はうれしさで、また胸が熱くなった……昼間はあのようなことを言っておきながら、やはり大君は自分と心は一つだった。このことを事前に女房に知らされ、大君は自分を受け入れる気になったようだ。その証拠に、今夜は妹ともに寝ていない。妹にはどう言ったか知らないが、別の場所で眠ってもらったのだろう……そんなことを考えながら、薫は大君の寝顔に自分の顔を近づけた。そして、本当は起きているのに眠っているふりをしているに違いないと、その耳元で亡き宮からすでに聞いていた大君の実名を呼んだ。

 すぐには返事はなかった。そこでも一度名を呼び、薫は大君の髪をなでた。そのとき、大君の目が開いた。薫はその顔をのぞきこんで、微笑みかけた。

 薫が異変に気がついたのと、顔をのぞきこまれた女が激しく起き上がり、腰を床につけたまま後ずさりしたのはほとんど同時だった。

 女は震えていたが、それ以上に薫も狼狽していた。とっさには状況がのみこめなかった。

「あ、あなたは、中君様……」

「もしや……源の弁様……」

「しっ!」

 薫は先に、中君の言葉を制した。

「本意では、本意ではありません……。姉君は……?」

「え? お姉さま? あれ? お姉さまは?」

 中君もきょとんとして、暗い室内を見回した。薫は座り込んで、大きくため息をついた。薫の持ってきた燭台に照らされただけのほとんど闇に近い部屋であったが、それでも今さらながらに中君は慌てて顔を隠した。

「ご心配なさいますな。寝ておられるのがあなただとは知らずに……。それにしても……あなたの姉君はひどい人だ……」

 返事はなかった。中君は少し離れた所に、薫に背を向けて座っていた。薫はようやく、すべての状況を把握した。

 つまりは、こんなにまで自分は大君に嫌われてしまっていた……女房の口からかどうかは知らないが、大君がすべてを事前に察していたというのは推測どおりだった。

 だがそのあとは妹を別の場所に移すどころか、妹を残して自分が別の場所へと消えた。大君は執拗なまでに、薫と中君を結びつけようとしているようだ。

 薫はあこめの白い背中を見た。

「心配しなくてもいいです。私はあなたには何もしません。失礼ですが、あなたが目当てではありませんから。でも、今ここをのこのこ出て行くのもばつが悪いんで、こうして話でもしていてくれませんか?」

 それにも返事はなかった。中君はまだ怯えきっているようだ。薫は中君がかわいそうでならなかった。だが、相手にはかわいそうではあっても、現実として薫の目の前には何の隔てもなく若い女が下着のみで座っている。同じ部屋の中に二人きりで、しかも夜にである。今その背中に飛びついて男の力で押さえつければ、中君は自分のものになる……。

 やめておこう……と、薫は思った。それでは大君の計略にまんまとはまったことになる。その手には乗りたくはない。自分は普通の男ではないのだ……そこが大君の大きな誤算だ。それに、中君が哀れすぎる。さらには、自分がここで中君と結ばれたら、中君にあれほど執心の匂宮からもどういって恨まれるか……。

 中君は、泣いているようであった。何を話しかけても返事はない。また薫自身も、話しかける言葉の内容をそう持ち合わせてはいなかった。

 互いにほとんど無言のまま、時間だけが過ぎていった。

 薫は苦しかった。夜がとても長く感じられた。早く朝が来てほしいと、切実に希求した。とにかく、惨めだ。大君にいいように操られたと思うと、苦笑さえ浮かんできた。

 ようやく外が少し明るくなってきたので、薫は外へ出た。しかし、空は白んではいたがまだ完全ではなく、庭には十分に闇が残っていた。東の方には、三日月を反対にした細い月が昇っている。

 薫は庭の方を向いて簀子に座って咳払いをしてみたが、誰も起きてこなかった。相変わらず川音だけが、あたりを包んでいた。

 座っているうちに、闇は黒から深い青へと変わっていく。もう、庭の景色もはっきりと見えるようになった。

 朝はかなり冷え込む季節だ。薫はもう一度、大きく息をついた。そして、これでよかったのだとふと思った。これが自然の成りゆきで、結局は自分はこうなるしかなく、これも宿世だ……これでいいのだ……こうあってこそ、自分なのだ。これが自分というものだ……やはり、自分は馬鹿ではなかった……薫は妙な満足感を感じていた。中君に対して指一本触れなかったことに対しても、自分を賞賛したい気持ちでいっぱいだった。

 しかしそれはそれとして、大君の策略を思うのは別の感情であった。薫がだまされただけでなく、中君も大いに傷ついたであろう。

 もちろん大君は妹によかれと思ってしたことであろうが、いくらなんでもこのような仕打ちは……と、薫はどうしても大君を恨んでしまった。

 ようやく、弁の君が起きてきた。

「おやまあ、お早いお出かけで」

「あのですねえ、弁の君」

 薫は手短に、中君とは何もなかったことをも含めてすべてのいきさつを語った。

「そんな……。まさか……。大君様がそこまで……」

 弁の君は言葉に詰まっていた。薫もさらに大君への恨み言を述べた、そうでもしないと腹の虫が収まらない。

「こんな恥をかかされたことはありませんよ。もう、宇治川に身を投げたいくらいです。もう、ここへは二度と来ないかもしれません。大君とも中君とも私は結婚はしませんし。とにかく、こんな惨めな私のことを、ほかの女房たちには絶対に言わないで下さいね」

 薫は立ち上がった。今は勢いでそのように語ってしまった。今は、そう思い込んでいなければやりきれなかった。いっそのことこの屋敷への経済的援助を打ち切ることを宣言しようかとさえも思ったが、さすがに亡き宮の顔がちらついてそのことだけは言えなかった。

 薫は帰りの車の中でも、二度と来るものかとばかり心の中でつぶやいていた。それが大君の仕打ちに対しての、最大限の腹いせだった。

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