それでも日がたって頭も冷静になると、薫の心もかなり落ち着いてきた。そして、あの晩のことについてもいろいろ考える余裕が出てきた。

 そして、やはり自分は中君に心を移すことはできないと、薫は感じた。かといって大君は、あのような態度に出た以上その心を開いてくれる余地はなさそうだ。心を開いてくれたような気がしたこともあったが、あの晩の出来事ですべてが覆ってしまった。

 薫は宮中にいても、右小弁として太政官にいても、公務よりその方のことばかり考えていることもしばしばだった。仕事が手につかない。

 太政官は内裏とは違って漢風建築で石の床の上に土足で入り、その石の床の上に直に敷かれた畳の上に座って公務を執る。畳の脇ではじめて靴を脱ぐのだが、薫がそうして座っている前の机の上にはいつも書類の山が乗っていた。紙は貴重なので書類は木簡や竹簡のときもあり、余計にかさばるのだ。

 大弁や中弁は兼任が多いので、結局その処理は小弁である薫に回ってくる。重要なものは、外記げきふびとには任せられない。その外記局から、さらに書類の山が運ばれてくる。しかし薫はそんな書類の山を前にして、ボーっとしていることも多くなっていた。


 やがて冬となったが、東山の峰の紅葉はまだ始まったばかりであった。冷泉院の庭越しにそれを見ながら、薫はまたぼんやりと考えていた。

 ……自分はなぜ恋などしてしまったのか。あれほど自分自身に対して禁じていたことなのに……。

 本来の自分の願いとは、正反対の方向に向かって彼は突き進んでいる。何もかもが苦しい。なにしろ彼は押しの一手ができない。冷淡にされたらそれが潮時と一気に引いてしまう。とても匂宮のようにはいかない。

 ところが今回に関しては、ここで引いてしまうわけにはいかない状況になっている。間に入ってくれた弁の君の手前もある。ここで引いたら、弁の君にも一時の徒心あだごころだったと思われかねない。それは困る。だから、少し心が萎えてしまったとはいえ、やはり大君を思い切るわけにはいかない。どんな仕打ちを受けたとしても、どうしても憎みきれない存在なのだ。

 それが薫にとってはもどかしくもあった。だから今すぐには無理としても、もう二度と宇治に行かないというわけにはいかない。形式上の経済的援助だけを送り続ければ、亡き宇治の宮への義理も一応は立つ。だがそれでは奥歯の噛み具合が悪い。やはり最上の成りゆきは……。

 ふと、自分は何を考えているんだ、何をしてるんだと薫の冷静な部分が問いかけてくる。だが、同じ薫の中の火のついた部分は、もう止められようがない。

 火のついたまま、薫は二条邸に匂宮を訪ねた。相変わらず手入れが行き届き、風情のある庭だった。匂宮は薫が庭を歩いているうちに、西ノ対の簀子に顔を出した。

「兄君は便利ですな。何も言わなくても、香りで分かる」

 薫も愛想笑いをして、簀子に上がるきざはしの途中に腰をおろした。匂宮も簀子の高欄に身を預けて座った。

「宇治の方はどうですか?」

 やはり思った通り、その話題から始まった。

「故宮の一周忌も過ぎて、落ち着いてはいるみたいですね」

「兄君。不自由な身の私のことも哀れんでくださいよ」

「決して忘れてはいませんがね」

「兄君ばかり宇治に行かれて、いい思いをされて、それはずるいというものです」

 薫に少しだけ顔を近づけて、匂宮は言う。薫はただ笑っていた。だが、内心では苦笑していた。自分の恋に悩んでいる最中に、他人の恋の橋渡しをするのも辛いものだ。だが次の瞬間には、それとて自分のためでもあると薫は思った。

 匂宮と中君が結ばれれば、自分と大君の縁も切れることはなくなる。また姉妹に宮家という後見もできる。それがあの姉妹にとっては、いちばんの幸せになるはずだ。

「今度宇治に行かれるときは、私も連れていってくださいよ」

 追い討ちをかけるように、匂宮は言う。だが、薫は、

「さあ、どうしましょう」

 と、わざとじらしてみせた。

「どうしましょうって、宇治への道へ防人でも置くおつもりですか?」

 匂宮は少しむっとしてきたようで、それが薫にはおかしかった。だから、あえてわざと茶化すことにした。

「宮様の年来の御振る舞いが、少々心配ですからね」

「何を保護者ぶって。こんなに長く一人の女性を思い続けてきたことが、今までの私にありましたか」

 それは確かにその通りだ。だから、口ではいろいろと言っても薫は心の底では匂宮を信じていた。

「仕方がない。行きますか」

 匂宮のむっとしていた顔が、パッと輝いた。薫は急に真顔になって、山荘での注意をあれこれと始めた。


 その日の昼過ぎに、二人は一つ車で出かけた。もちろん匂宮は、その両親には内緒での外出だった。供のものもみな薫の供で、それも二、三人であった。しかも二人はなぜか、全く同じ柄の直衣を着していた。匂宮の香も今日は薫に競うのをやめ、薫の発する天然の香りとほとんど同じ香りになるように香を調合していた。

 宇治に到着したあと、まずは宇治の社の禰宜舎で薫は車から降りた。そしてそこに車に乗ったままの匂宮と供のものを残して、薫は一人で山荘へと向かった。この頃は日の落ちるのも早く、すでに夕闇が迫る時分になっている。

 薫は、庭から弁の君を呼びだした。

「まあまあまあ、ようこそおいでで。この間、もう二度と来られないなどとおっしゃっておりましたから、心配しておりましたが」

 簀子に座り込んだ弁の君は、今にも泣きだしそうだった。

「私は、そう薄情な男ではないつもりですよ」

 薫はわざと笑みを見せてから、そのまま庭を歩いてきざはしの方へと向かった。

「おやまあ、お徒歩かちで? お車は? お供の方々は?」

 弁の君が驚くのも無理はない。このような貴人がたった一人で、しかも歩いてやってくるなど常識では考えられないことだからだ。

「車も供も、お社において参りました。今日は人目につきたくありませんので。それより、中君様のもとへ案内して頂けますか?」

「え? 中君様ですか?」

 弁の君は一瞬不思議なものを見るような目で、庭に立つ薫を見た。薫は、まだ笑んでいた。

「あの……この間は、中君様とは何もなかったのでは……?」

「大君のあの仕打ちには、まいりましたからね」

 それで……と少し笑みをもらして、したり顔で弁の君はうなずいた。薫が極度に忍んでやってきたことを、自分なりに納得しているようだった。

「では、大君様に知られぬように、案内あない致しましょう」

「いや、大君はどうでもいい。ほかの女房たちの手前ですよ。中君様があとで、女房たちからとやかく言われるのが不憫ですからね」

「まあ、でも、いずれの姫様だとしても、お相手が薫の君様なら女房たちも喜びましょうに」

「それより、いつまで私を地下人じげびとにしておられるおつもりですかな、殿上人てんじょうびとの君」

 薫がおどけて言うと、

「あ、これは、ご無礼仕りました」

 と、慌てて弁の君は薫を簀子に上げ、さっそく薫を案内して歩きだした。すると、薫はすぐに足を止めた。。

「あ。ちょっとお待ちください。やはり大君様にも、ひと言だけごあいさつ申し上げてからの方がいいのでは……」

「まあ、相変わらず律儀な方でいらっしゃいますこと」

 弁の君は、ここでようやく笑った。

「あとで、この場所で扇を三回鳴らしますから、それが合図だと思ってください。そうしたら、この前のように中君様の御寝所に……」

 まるで急に思い立ったように薫は大君のもとへと言ったが、この言葉は決して薫の思いつきではなかった。

 薫はそれから、通されたいつもの東の廂の間に入った。そのすぐ内側の部屋に、衣の音がいざり出てきたようだ。しかし今日はその部屋との間は御簾ではなく堅い障紙がはめられており、しかも鍵までかけられていた。

「これでは、私の声も聞こえますまい。大きな声を出すのも人聞きが悪うございますから、障紙を少し開けてくださらぬか」

「いいえ、お声はよく聞こえます」

 その問答の間に、薫はとっくに障紙の下部にあった鍵など壊してしまっている。そしてそっとだけ障紙を開けて、目に飛び込んできた大君の衣の袖をつかんだ。慌てて大君は後ろの方へ下がろうとするが、薫はその手を放さなかった。すべて計画通りの行動なので、薫の心は落ち着いていた。

「な、何をなさいます! 一度ならず二度までも!」

「お静かに。決してご無礼は致しません。少々お恨み言を申し上げねば、先日の腹の虫が収まりませんので」

「どうして今日の対面をお断りしなかったのでしょう。あの日のことはすべてあなた様と、そしてわが妹のことを思ってのこと」

「それは分かります。しかし、ひどすぎます。私にとっては、あまりの仕打ちです。私がどんなに惨めだったか……」

「申し訳ありません。本当に、申し訳ありません。ですから、お手を」

「いえ。もう少しこのままでお聞き下さい。」

「そんな……」

 薫は大きく息を吸った。しかし、手は放さなかった。その手につかまれているのは、もはや喪服ではなくきらびやかなうちぎだった。

「今日は妹の所に参られたのでしょう? すでにあなた様は妹と契りのできたはず。ですから早く妹の所へ。妹と私は一心同体ですから、どうか私ではなく妹の方を愛してやって下さい」

 そのとき、その部屋の外で扇を打ち鳴らす音が三つ、微かに聞こえた。あらかじめ打ち合わせていたように、こっそりとやしろからこの山荘に来ていた匂宮が簀子の上で扇を鳴らしたのだ。それを薫だと思い込んでいる弁の君によって、匂宮は中君の寝所へと案内されるはずだ。

 もはやすっかり暗くなっていて、顔さえ隠していれば弁の君が紙燭を持っていても別人だとは気づかれまい。

 そのようなこととは知らない大君は扇の音を気にもとめず、薫にささやいていた。

「私が妹に言ってきかせますので、頃を見計らってどうか妹の方へ」

「いえ。もうだめです」

「え?」

「実は……」

 薫は一度言葉を切り、そして続けた。

「兵部卿宮様がどうしてもとおっしゃいますので、今宵ここにお連れしております」

「え? どいうことですか?」

「宮様はすでに、中君様の所にお入りになったでしょう」

「そ、そんな!」

 薫はやっと、大君の衣をつかむ手を放した。だが大君はよほど衝撃を受けたらしく、奥へ入ろうともせずにその場で泣き伏した。

「な、何という仕打ちを……」

「それはお相子あいこです。私とて、このような策を弄したくはなかった。本来、策という言葉すら嫌いな性質たちですからね。でも、こうでもしなければ、私のあなたへの気持ちを、あなたは分かって下さらないではありませんか。どうかお気の済むまで私を打つなり何なりと、好きになさって下さい。でも、すべてのことには前世の宿縁というものがあるのですよ。先日はあなたの策で私は中君様の寝所に入りましたが、結局朝まで座していただけで、中君様とは何もありませんでした。私には、あなた以外には考えられないのです。どうか、障紙をお開け下さい」

 大君は、まだ伏して泣いていた。今ならすでに鍵も壊してあるので、薫の方から一気に障紙を開けて中へ入り、大君との本願を遂げることもできる。

 だがやはり薫の中に昔からの性質が残っていて、薫にはそのようなことはできなかった。度胸のない小心者というわけではなく、別の意味で薫はできないのだ。

 大君は、さらに涙ながらに訴えてきた。

「宿世などは、目に見えないものでございます。今はただ、目の前の現実が恐ろしゅうございます。どうか、もう休ませてください。このごろは、体調もすぐれないのです。胸が時折苦しくて。またの機会には、必ずやごゆっくりと」

「あなたの『またの機会』は……」

 信じられないと、薫は思っていた。今まで何度も、この言葉ではぐらかされてきた。しかし、信じてあげなければこの人を愛しているとはいえないのではないかとも思う。

 大君の声は本当に苦しそうだったから、薫はため息をついた。

「本当に一途にあなたのことを思うからこそ、このようなことをするのです。分かってください。それでもあなたが私に心を開いてくださらず、私を恨み、私を嫌うなら、私はもう川に身を投げるしかないのです」

 薫の口調も真剣だった。それでも返ってくるのは泣き声ばかりで、返事はなかった。

 もはや薫も、今宵の会話をあきらめなければならなかった。しばらくは黙って座っているのも辛い。そして薫はもう肉体的にも精神的にも疲れていた。

 そこで泣いている大君をそのままに、柱に寄りかかった。そして目を閉じた。だからといって、心が高ぶって眠ってしまうことすらできなかった。川の音が耳につき、寒さも身を包む。

 かなりの長い時間、薫は目を閉じたままため息をつき続けていた。だが、あまりにもの疲労から少しだけうとうとした。

 でもその時にすでに鶏の声が聞こえてきた。気がつくと、薫が少しだけ開けたはずの障紙はまたしっかりと閉じられていた。その障紙を見ながら薫はまたため息をついた。

 大君と出会ってから、薫は何度ため息をついたか計り知れない。

 恋の橋渡し役のはずの薫が、自分の恋のままならぬがゆえにため息をついている。宮中の政治は先例こそが命だが、恋の世界とりわけ薫の恋では先例のないことが多すぎた。こと恋愛においても政治のように、「そのようなことは先例がないので、認められない」と割り切って言えたらどんなに楽か。恋は理不尽なものである。

 そのうち、簀子に匂宮が出てきた。そして薫の顔を見ては意味深な笑みを浮かべた。そして二人は庭に降りて、やしろに置いてある車に戻るべく歩きだした。

「兄君、感謝していますよ」

 匂宮は、やけににこにこしている。ついに中君と深く結びついたようだ。薫が大君と物を隔ててあれこれやり合っているうちに、匂宮は同じ屋根の下で中君と肉体的にも結ばれ、二つの体が一つになっていたのだ。

 薫は軽く嫉妬を覚えていた。求道者にあるまじき嫉妬だ。

「兄君の方も、万事うまく?」

「ええ」

 薫は、作り笑いをしていた。

「それはよかったですねえ。お互いによかった。これで兄君と、ますます近くなりましたね。同じ山荘で、それぞれ姉と妹を同時に愛したのですから」

 薫の心の中はただただ苦笑だったが、息巻いている匂宮のいたずらっぽそうな顔に、ふとその幼時の頃の彼の面影を薫は見た。

「しかし、兄君はうらやましい。兄君はあの大君とはずっと前から、すでにそういう仲だったのでしょう? 私なんか今日やっとですよ。それもこれも兄君のせいでね」

 薫はあまりの辛さに、一層のことすべてを匂宮に打ち明けてしまおうかとさえ思った。大君とは今に至るまで何もなく、昨夜も物越しに話しただけであることを告げ、匂宮にがっかりされ、馬鹿にされ、同情され、自分のことを自慢されたりした方がどんなに楽か……。

 ありもしない事実に対してうらやましがられるのは、虚しいし辛いことである。しかし、薫には見栄もあった。見栄を張ることで似而非にせの満足感を得ていたのである。本来、女犯にょほんなどし得ない求道者が女を抱いた――普通の男になった――そういう仮面によってのみ表され得る喜びを、薫は感じていた。そして仮面の下の真実の自分に、自分で同情心を抱いて心が熱くなっていたのである。

 社についた二人は車に乗り、帰途についた。そして車中で向かい合って座る匂宮の顔を見ながら、この若者はどのような顔で中君を抱いたのかと、悪趣味な想像と思いながらも薫は考えてしまった。

 だが、薫にはその時のことが想像できない。それが心の中で、虚しさという名の火薬を一気に爆発させる。その反面、これでよかったのだ、これでこそ本当の自分なのだという声も、薫の心の中で激しく響きわたっていた。

 やがて車は、木幡の山道にさしかかっていた。

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