匂宮はその日もどうやら宇治に行くつもりのようで、都に着くや否やとんぼ返りで宇治へ向かう準備をしていた。

 三日間通って、正式の婚儀を挙げるらしい。もちろん、彼の両親には内密にだ。

 二日目も薫は匂宮に同行を求められたが、冷泉院の方でちょっとした小宴があって抜けられそうもなく、それが匂宮に同行を断るいい口実となった。

 そしてその夜、今ごろまた匂宮と中君はと思うと、薫は独り寝の心をかき乱していた。

 そして三日目の夜には、薫は二条邸にいた。別に匂宮に呼ばれてではなく、北ノ対の屋で匂宮の母――すなわち薫の異母姉に呼ばれたのだ。この姉は表向きは紫の御方の娘ということになっているので、薫とは同腹ということになる。だから、御簾越しではなく会える打ち解けた姉弟であった。ところが実際は、姉も薫も紫の御方の子ではなく、ましてや実は薫の姉でも何でもないのだ。

 そのことを知って以来初めての対面だったので最初は薫も少し緊張したが、何も知らない姉のいつもの振る舞いにやはりいつもの姉弟に戻っていた。

「近頃、あれの様子がおかしいって思いませんこと?」

 姉の口調から、「あれ」というのが匂宮のことだということは、すぐに分かった。しばらく見ないうちに、姉も女としてすっかり衰えた。来年は四十になる。姉とはいっても、薫の実の母である尼宮と同年齢だ。夫の式部卿宮よりも二つ年長で、その式部卿宮は今は寝殿にいる。

「なんか、無断で出歩いているみたいなのだけど。しかも結構遠くに」

 この姉は、しっかりと自分の息子の行動を把握していた。どこから噂が入ったものかと、薫はたじろいだ。

「あなた。しっかり監視してちょうだい。あの子には、当分この二条邸から出るのは禁止しておいたけど」

「え?」

 薫は内心困っていた。今宵は匂宮と中君の三日夜の餅の日である。それがもし行かれなくなったりしたら、中君の匂宮に対する恨みは想像に難くない。そして、手引き役の自分も恨まれるはずだ。

「聞いてまして? 何か、知ってますの?」

 薫は、思わず身を固くした。監視しろと頼まれても、匂宮を宇治へといざなった張本人が薫である。

 姉の手前後ろめたくもあり、またその姉が恨めしくもあって、とにかく薫は生返事だけしてその場をあとにした。対の屋に行くと、匂宮は両手を頭の下に入れて寝そべっていた。

「宮様、そろそろ宇治へ行かねば」

「もうだめですよ、兄君。母上からきつく止められましてね」

 匂宮は上半身だけを起こした。このような男でも、母親には弱いらしい。

「宮様、お行きなさい。もう、日が暮れますよ。もし今夜行かなければ、これまでの長い間の宮様の思いがすべて無になります。あとで行ったとしても、もうそれでは取り返しがつきませんからね」

「分かってるんですよ! そんなことは!」

 匂宮もそうとういらいらしているようだった。薫もこの日は宇治へ、匂宮と中君の三日夜の調度や装束を送らせている。中君の幸せのためにも、この話は破談にしたくはない。

「どうぞ、今からでも馬を飛ばしていかれたら間に合います。あとは私がここに残って、姉には何とでも取り繕いますから」

「でも、門は姉の言いつけで侍が固めているし」

「築地の破れなど、いくらでもあるでしょう。早く!」

「よし!」

 匂宮は勢いよく立ち上がった。そして、急に生気づいてきた。

「あとのことは頼みます」

 薫は先にすっかり暗くなっていた庭に降りて、馬場から馬を引いてきた。それに匂宮を乗せて、北の築地の破れから出して薫は匂宮を見送った。馬は全速力で二条大路を西へと疾走し、やがて東洞院との角で一気に左に折れて南の方へと見えなくなった。

 親王の身分のものがたった一人で供もつれず、しかも馬で遠い宇治へ行く――薫は少し心配ではあったが、あの匂宮なら大丈夫だろうと思っていた。

 薫はその足でまた、北ノ対に行った。

「また、出かけたようですね」

 姉はため息をついていた。姉にはもう、ばれている。女房か家司の目撃があったのか、それにしても出かけた所が北ノ対に近すぎたのかもしれない。

「式部卿宮様のお耳に入ったらどうなるか。叱られるのは私なんですからね」

 薫は何も言えなかった。今はただ、匂宮が宇治に無事についてくれることを祈っている。

「あの子には、摂政殿下からいい話がきているというのに……」

 これは薫にとっては初耳だった。だが、これ以上ここにいると、姉からどんな小言が飛んでくるか分からない。

「まあ、匂宮様ももう子供ではありませんから」

 それだけ言い残して、薫は早々に退出することにした。


 匂宮と中君の婚儀は、ついに成立した。そのことを、匂宮の両親が承諾していないだけのことである。承諾どころか、詳しい事情でさえその両親は知らない。父と同じ年の兄弟の宇治の宮のことなら、姉とて知ってはいよう。だが今の段階では、その娘が自分の息子の結婚相手だなどとは夢にも思っていないに違いない。

 ただ薫にとって、摂政殿下からのいい話というのが気になっていた。その話の前に強引に中君と結婚したことは、果たして匂宮にとって吉だったのかどうかが気がかりだ。

 中君の血筋は悪くはない。薫やその姉にとっても、また一院法皇や冷泉院、そして匂宮の父の式部卿宮から見ても従妹である。ただ両親ともに亡く、何の後見もない。だが少なくとも中君にとっては、これでよかったはずだ。

 数日後、薫は公務が引けてから二条邸に匂宮を訪ねた。新婚の匂宮なのだが、さらに厳しくなった母の監視のせいで一向に宇治には通えずにいる。

 時に都を取り囲む山々の紅葉は、次第にその色を濃くしていた。薫とて宮中の塀の中に閉じこもっていると、いつしか自然の野や川が恋しくなる。

「山里は……」

 匂宮と対座しているうちにふと薫がそうつぶやいたのがまるで合い言葉のように、匂宮は立ち上がった。

「兄君、参りましょう。宇治へ」

 薫はうなずいた。そして薫だけが帰ると見せかけて、その車にひそかに匂宮を同乗させた。

「やれやれ、あの母上のせいでひと苦労ですよ。これでは私は、籠の中の鳥だ」

 車の中でも、匂宮はため息ばかりをついていた。

「おや、雨?」

 薫の言う通り、確かに車の屋根をうがつ音がした。

 だが、たいした降りではないようだ。御簾を越えて車の中に吹き込むほどではない。

 山道に入る頃には日もとっぷりと暮れて、従者の松明たいまつの炎に雨の筋が浮かび上がるのが御簾越しに見えた。そして宇治に着いてもまだ雨は降ってはいたが、蓑を着るほどでもないので、二人の貴公子は衣を湿らしながらも、山荘への小径こみちを供の者の松明について歩いた。

「蓑一つだになきぞあやしき」

 不意に薫は口ずさむ。

「ん?」

 匂宮は怪訝な顔をしたが、それは亡き宇治の宮が生前に詠んだ「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞあやしき」という歌の一節であった。

 心なしか、山荘はにぎやかになったように感じられた。女房の数も増えたようだ。中君の結婚によって、離れていた女房も戻ってきたのだろう。

 薫は顔見知りになっている女房に指図して、匂宮を饗応する宴の仕度をさせた。こうしてまるで自分がこの山荘の主になったように振る舞うことも、匂宮に対する一種の見栄だった。

 だが、実際に宴が始まると、薫の席はいつもの廂の間だった。いくら主人づらしても、身舎にも入れてもらえないのが現実だったのである。

 世も更け、宴も果てて、静まり返った山荘では明かりも消された。今ごろ匂宮は中君の寝所に入った頃だろうと思って薫が廂の間でぼんやりしていると、襖の内側に衣擦れの音が聞こえてきた。

 今回の宇治行きは匂宮のためで、こうして薫が一緒に来なければとても匂宮は一人で来られる状況ではなかったが、薫にとっては正直言って辛くもあった。大君とも、気まずい状況になったままだ。だから今宵は、強いて大君への対面は求めないつもりでいた。

 だが今、求めてもいない衣擦れの音が聞こえる。女房なら直接廂の間に妻戸から入ってくるはずだ。

「源の弁様」

 やはり障紙の向こうの声は大君だった。途端に薫の胸は激しく波打った。

「これは、どうした風の吹き回しで」

「さすがにその場所では、お気の毒でございます。それにいろいろとお心尽くしを頂き、そのお礼も申し上げねばなりません」

 しかし、それだけではあるまい。いつも姉妹が寝所にしている部屋には、今日は匂宮がいる。大君がともにそこにいる訳にはいかない。

「そのようなお心がおありなら、隔てなくお話し下さいませんか」

「それは……。もう少し心が落ち着きましてから」

 大君の心は、まだ頑ななようだ。いつもの大君のずるい引き伸ばし作だ。

「妹の結婚はそれはそれで喜ばしいことなのですけど、兵部卿宮様がなかなかおいでにならないのをじっとお待ち申し上げている時の妹のため息などを聞きますと、やはり私は独り身でいたいと……」

「兵部卿宮様には、いろいろとご制約がおありなのですよ。その点、私は自由です。それともあなたは、私がそんな不誠実な男とでも……?」

「いえ、決して。でも今はお互いに偶像を見ているのではありませんか? もし私たちが結婚したとしても、今まで見えていなかったことが見えて互いに失望するなどということがあるのではないでしょうか。やはりこのままあなた様とは清い関係で、いつまでも交情を暖めていただきとう存じます」

「何をそう臆病になっておられるのです?」

「やはり妹のことも見ておりますと……。兵部卿宮様の御事情は妹からも聞いてはおりますが、妹はそれでも寂しそうにしておりますれば」

「どうか」

 薫は、少し障紙に近づいた。

「もう少しお近くでお話し下さいませんか」

「私ももう二十六ですから、盛りを過ぎております。あまり何度も私をご覧になりましたら、きっと幻滅されることと思います」

 そう言って、やっと大君は少し笑ったようだ。その点がやはり大人だった。

「いいえ、そんなこと。私はもう、この身が張り裂けそうなのですよ」

 薫はため息を一つついた。

 しかしこの日は、今までのような大胆な振る舞いに出る気にはなれなかった。

 疲れたという気持ちが、心のどこかにあったのかもしれない。

 さらに、少しは安心感もあった。「障紙を開けてくれ」と言って「はい、どうぞ」と開けるような女なら、それはそれでまた困る。自分に対してだけであればまだいいが、ほかの男にまでそうであったりしたら大変だ。

 もし今、大君が簡単にふすまを開けてくれたらそれはそれで薫は発狂するくらいに喜ぶであろうが、そんなことはあり得ないことも薫はもう十分に承知している。だから、強攻策には出なかったのだ。

 そのまま、亡き宇治の宮の話をしたりしながら話が途切れ、互いに障紙を隔てて座ったままうとうとと眠った。

 そして、朝がきた。匂宮のほうが先に、簀子に出ていた。

「遅いですよ、兄君。いくらこの山荘では兄君の方があるじだからといっても」

 そう言って、匂宮はニヤニヤ笑っている。苦笑と胸に刺さった痛みを隠して、薫はそんな匂宮とともに車に乗り込んだ。空はまだ曇っていたが、昨夜からの雨は上がっていた。

 車が動き出す。匂宮は車の後ろの御簾越しに、遠ざかりいく山荘をいつまでも首をひねって見ていた。それから向かい側に座る薫の方を向いて、またにやけた顔に戻った。

「兄君も、ずいぶんお励みになったんでしょね」

 また薫の心に針が刺さる。さらには、大君とのことをそのような俗的な言い方をされるのも不快だった。しかし今は、それらを苦笑で覆い隠すしかない。だから、匂宮にはそこまでは見えていなかったようだ。

「結婚とはいいものですね。私は心底、あの中君を愛してしまった。この世で最高の女性ですよ。お祖父じい様がお祖母ばあ様の紫の上様を愛したように、私は中君を死ぬまで離さない」

 それから匂宮の顔は、少しだけ真顔になった。

「それで、私も中君を二条邸に引き取って、その二条邸に住まわせたいんです。昔そこに、お祖母様がお住まいになっていたそうですからね」

 匂宮は、車の床の畳に目を落としていた。匂宮の本当の祖母は明石の御方だが、匂宮はそれを知らない。

 薫は答えようがなかった。今のあの姉の状況では、中君を二条邸に引き取ることなど不可能である。

 そこは弟である自分がひと肌脱いで姉を説得するというのも一つの手だが、そこに立ちふさがるのが姉の言っていた「摂政殿下からのいい話」だ。この話の正体が分かるまでは下手に動けない。

 それと、中君が二条邸に移ってしまったら、大君は一人になってしまう。

 もし自分が実の母の尼宮のために新築している三条の屋敷に大君を迎えるとすれば、尼宮の母はおっとりとした性格だから何も異論ははさむまい。

 だが問題は大君の方である。大君とはまだ結婚もしていないわけで、中君が二条邸に移って一人になるからというだけでは大君を呼ぶには理由として薄すぎる。

 匂宮は相手に問題はなくとも母に問題があり、薫は母に問題はなくとも相手に問題がある。両者を足して二で割るとすべてがうまくいくのにと、薫は目を伏せてぼんやりと考えていた。

 薫にとってのもう一つの気がかりは、自分の妹のことであった。摂政の東三条邸にて皇太后の庇護のもと暮らしているので生活には問題はないはずだが、その妹ももうとうが立ちはじめている。内親王でもないのにこのままでは生涯独身で終わりかねない。

「兄君、兄君」

 いきなり匂宮から呼ばれて、薫は慌てて頭を上げた。

「兄君も大君様をお迎えなさるんでしょう?」

 我に返った薫だが、その問いには無意識に肯定してしまった。

「そうでしょう。いや、兄君はうらやましい。何の障害もないでしょうからね」

 自分がうらやんでいる相手から逆にうらやましがられるのは一種複雑な気持ちで、また辛くもある。もう匂宮は薫と大君が結ばれたと思い込んでいるようだから、今の状況では匂宮をもだましていることになる。

 薫はため息をつきたい気持ちであったが、その気持ちをあえて笑顔でくるんで押し隠していた。

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