3
冷泉院、高松邸、宮中での
春の風が
――宇治からの、お文の使いでございます。
そのような女房の取り次ぎは、もう二度とない。
二度と来るはずのない文が来たのではないかというそんな錯覚に襲われた夜は、薫はため息とともに暗い屋根裏の棟木を見上げる。そして、心の中でつぶやくのだ……あの人は、死んだのだ……と。
ほんの半年前まではいた人が、今はいない。ついこの間のような気もするし、また遠い昔のような気もする。だが、季節は人の心と関係なく移ろいゆき、梅の頃も終わって、いよいよ都中が桜の花びらの色に塗りつぶされる頃になった。
そうなると毎年のこととして、除目をひかえて宮中全体が慌ただしくなる。去年までと何ら変わることのない一年を迎えていた人々は、自薦と付け届けにと走り回る季節なのだ。
今年の異動は大きかった。まずは摂政の長男の権大納言が、三十七歳で大臣となった。だが太政大臣と左大臣、右大臣の三大臣ともに健在でポストの空きがなかったため、彼が任じられたのはここ二百年ほど誰も任じられたことのない内大臣であった。そして即日、その任大臣大饗があった。
その兄の昇進によって空いた権大納言に粟田殿権中納言が就任し、末弟と同じ権中納言であるという不名誉から脱した。そして順を追って故・宇治の宮の長男の源宰相右衛門守が権中納言となったが、薫の妹の婿となった摂政の五男の権中納言の方はそのままだった。
この五男はなにしろまだ若く、しかも参議を飛び越えての権中納言就任だったから、今年は据え置きということのようであった。
ほかにはあの狐顔の小野宮頭中将が参議となり、その従弟の左近衛権中将が蔵人頭となって頭中将と呼ばれるようになった。あの大堰川の紅葉の逍遥の折りに、摂政の五男の今の権中納言から「いつか面を踏んでやる」といわれた三船の誉れ高いあの男である。
以上が、たった一日で動いた人事であった。だが、除目はそれで終わりではなかった。すべては摂政の直盧である淑景舎という密室でことは運ばれており、人々は発表を待つだけである。
だが薫の関心は、宮中の人事よりも宇治にあった。いよいよ大君の、三カ月の喪が明ける頃だ。
中君のもとへは喪明けの潔斎のための博士、都へ上るための車や供のものなどを薫は使わした。薫がそうしたのは、匂宮ではそこまで気がまわらないであろうし、また立場上もままならないであろうと判断したからである。あくまで、保護者としての措置であった。
だが、もしこれが自分が大君を迎えるための措置であったならと薫は空想し、それで薫の胸は痛んだ。
中君のために高倉邸を発した空車が中君を乗せて戻ってきた時は、二条邸の方へ行ってしまうのだ。自分はお人よしだと薫は思うが、しかしこれが
ある夜、薫は新築中の三条邸にいた。
宇治に送っておいた陰陽博士から、中君が宇治を出発するのは今日だと聞いていたからだ。
三条邸の完成は、間もなくである。普請も庭の造作も、間もなく終わろうとしている。
ここのところ薫は毎日三条邸の新築現場にやってきては、最後の詰めの指図をあれこれとしていた。今宵はこのまま、まだ誰も住んでいない完成間近の新邸に泊まる。
柱も床もまだ白木が生々しく、新材の香りに満ちていた。庭はまだ土の部分が大半で、部屋の中にも几帳も御簾も屏風もまだ何もない。家司も女房もおらず、わずかばかり連れてきた供の者がいるだけであった。
中君はどのあたりまで来ているだろうかと、薫は簀子に立って暗い夜空の満点の星を見上げながら思った。暗くならないうちに木幡の山道は過ぎるように見計らって出てきているはずだから、河原の御寺あたりには来ているかもしれない。
中君はいくら都で匂宮が待っているとはいえ、思い出多き宇治の地を離れるその気持ちはいかばかりだったかと薫に察せられた。車の中は、不安であろう。それを思うと、薫は自分の取った措置が本当によかったのかどうかと不安になってきた。
やがて夜半近くになってから、静まり返っているはずの都大路に馬の蹄の音が聞こえてきた。行列が近づきつつあるようだ。薫は西ノ対に渡り、西の簀子に出た。
もはやこのような時刻に外にいても、寒さは感じない季節になっている。目の前の築地の向こうが南北に走る高倉小路で、行列は折しもそこを通過し、三条邸の西北の角と対角線上に境を接している二条邸の方へと上っていく。いくつもの松明の光が築地の向こうを通り、車のきしむ音がした。
いよいよ来たと、薫は思った。空間的にはすぐの距離の所を、あの懐かしい大君の形見の中君が車に乗って通過しようとしているのである。そしてすぐに、都はもとの静けさを取り戻した。行列は二条邸の東の大門に吸い込まれていったのだろう。
「今しがた、到着致しました。宮様は細殿にてご自身でお出迎えになり、内親王降嫁よろしく御自ら姫様を抱き下ろされたようでして」
様子見に行かせていた供のものが、戻ってきて薫にそう報告した。
「そうか」
薫は、それだけを言った。匂宮が下にも置かずに迎え入れたとなると、ひとまず安心である。これから若い二人は、夫婦同殿の幸せな生活をするのだ。
それはそれで喜ばしいが、一抹の寂しさも禁じ得ない。その幸福を作ってあげた自分は、今もまだ独りである。
大君は自分と中君をと言ってくれていたが、それを跳ねのけたのも自分だ。結果として大君を失い、中君も人妻となった。もし、大君の言葉を受け入れていたら……
胸が苦しくなってきたので、薫は考えるのをやめた。これでは嫉妬ではないか……み仏に戒められることだ。自分で仕組んできながら今さらになってそのことを恨めしく思うなど、男として最低だ……だから、これでいいのだ……すべてがよかったのだ……と、薫は自分に言い聞かせた。
匂宮と中君は幸せになり、自分は独り……これが本然の姿だ。自分には大君の面影がともにある……それでもやはり、ため息をついてしまう薫であった。
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