高松邸の西ノ対には、権中納言の妻となった妹が戻っていた。

 これまで住んでいた東三条邸は権中納言との結婚によって夫の父親の屋敷ということになってしまい、そこへ夫が通ってくるというのもおかしな話で具合が悪かったからだ。そこで妹は高松邸に戻し、そこへ権中納言が通ってくることになった。

 もっとも東三条邸の小路一本はさんだ南側に隣接して、高松邸はある。権中納言は東三条邸に住んで、高松邸ともう一人の妻である源左大臣の土御門邸に通うことになる。

 権中納言と薫の妹の高松の上との結婚いついては源左大臣の方でひと悶着あったようだが、一世源氏である光源氏の娘の高松の上の方が格が上で、もう一人の妻の父の源左大臣は光源氏の従弟の二世源氏である。

 どちらの妻も権中納言より年上で、相手の父親が現職の左大臣であるのに対してこちらはすでに父親が故人であるとはいえ、高松の上には権中納言の姉である皇太后の後見がついている。

 だから、妹のことは何も心配することはないと、薫は考えていた。中君も落ち着いた。だから、今が潮時かとも思う。それなら三条邸に母を迎えたあといっそのことそこを寺とし、そこで自分も……と思ったが、京洛の中に寺というのははばかられる。それなら新邸は最初から郊外に作るべきだったと、今さら後悔しても遅い。

 だが現実は、薫が出家の望みをかなえようと決心するような余裕を持てないほどに、蔵人としての激務は続く。なにしろ、除目の季節なのでなおさらだ。

 そんな多忙の中で薫は何とか暇を見つけ、摂政のもとを訪れた。この日摂政は洛東の東二条邸ではなく、珍しく東三条邸にいた。東二条邸には、最近物の怪の噂が立っているのだ。

 摂政の機嫌は、あまりよくなかった。

「兵部卿宮様は、宇治の宮様の御息女を妻にお迎えになったそうですね」

「はあ」

 薫は縮こまっている。

「宇治の宮様に対しては私もお気の毒に思い申し上げていたし、その娘御にいいご縁があったのは喜ばしいのですが……」

 摂政の顔は、苦りきっている。

「わが六の君とのことは、どうなるのかな。本人もその気になっておりますからな」

 薫は背筋が寒くなった。もしや匂宮と中君を結びつけたのが自分だということが摂政にはばれていて、それで意見されるのかと身構えた。もちろん薫に対しては摂政はいつも優しい老人だが、摂政の息子たちからはたびたび雷を落とされた話を聞いていた。

「なんと兵部卿宮様は、宇治の姫君を二条邸にお迎えになったと聞く。そんなときにすぐに六の君をというのも難しいかもしれませんが、六の君ももう裳着の日取りも取り決めておりましてな、今さらそれを延期というのもどうも……いい笑いものですな」

 摂政はため息をついていた。そして薫を見た。本当に困っているという目だった。薫は自分がとてつもなく悪いことをしてしまったような気がして、両手をついて目を伏せた。だが、次の摂政の言葉は、実に意外な内容であった。

「それでのう、蔵人弁殿。そなたが六の君をもらってくださらぬか」

「え?」

 薫は頭を上げた。どうやら摂政はまだ匂宮と中君の仲を取り持ったのが薫だということは知らないようだが、その代わりにもっと突拍子もない話が湧いて出てしまった。

「私に、姫君を……」

「年をとってからの子なので、気がかりなのですよ。それにお父君の代からわが家とは縁続きのお家柄だし、わが五郎の小舅殿でもあらせられるし。いかがでござるかな?」

「はあ」

 今度は摂政ばかりでなく、薫も心底困っていた。まだ大君を失ったばかりの今は、とてもそのような気持ちにはなれない。

 薫は、思い切って頭を下げた。

「申し訳ございません。世の果かなさを知って、まだ日が浅うございます。今はとても結婚など考えられる状況ではございませんでして……本当に申し訳ございません」

 摂政は、もう一度ため息をついた。

「そうかもしれませんな。兵部卿宮様が娶られた姫君の、姉の姫のことでござろう。話は聞いております。そのようなこともありますから、お気の毒に思っての申し出だったのですがね」

「まことに……」

 ますます恐縮して、薫は平伏した。人はもったいないと言うかもしれない。しかし今は、薫は率直な気持ちを摂政にぶつけた。その気持ちを押し殺して摂政の六の君を手に入れたとて、それが自分の将来の幸福につながるとは思われない。とにかく今はかたくなになるほうが、かえって自分の心が慰められる薫であった。


 都の周りの山々は霞のような花の色一色となるにつけても、薫は宇治へと思いを馳せた。宇治の山合も今は花が盛りであろうが、主なき山荘は桜をめでる人もなく静まり返っているはずだ。今は尼となった弁の君がひっそりと守ってくれてはいるであろうが、もはやよほどの口実がなければ薫は宇治には行かれそうもなかった。

 宇治の名残は都に移ってきているので、薫は公務の合間をぬって二条邸の西ノ対を訪ねた。だが、昔のような気楽さはなく、匂宮が独身であった頃のように庭の方からやあと言って訪ねていくわけにもいかない。西ノ対の主は、もはや独り身ではないのだ。

 薫は一応、女房に案内を請うた。そして、西ノ対の南面で匂宮と対座した。

「世は春ですな。私も春です。兄君にはなんと感謝したらよいか」

「いいのですよ。すべて宮様の御ためですから」

 薫は笑みを浮かべた。庭の梅は盛りを桜に譲り、若葉を待つだけとなっている。その桜ももう、枝よりも地面の方を紅に染めつつあった。

「春の名残ですね」

 薫は、庭を見ながら言った。そしてこの対の屋の同じ屋根の下にいるはずの、もう一つの名残のことを思った。匂宮は、薫の心の中はお構いなしに、やはり庭を見ていた。

「この対の屋はかつて、紫のお祖母ばあ様がお暮らしになっていた所ですからね。その同じ場所に私が今こうして妻を迎えることができたのも、不思議な巡り合わせですよ」

「そうですね。時は変わり、場所は変わらなくても人は変わる。これが世の習いでしょう」

「今日は、御公務は?」

 近々、一院法皇の東大寺御幸がある。左右大臣以下すべての公卿が同行し、薫も蔵人としてそして弁官としてその準備に忙しい。まずはそのことを匂宮に告げた。

「月末には主上うえの春日への行幸みゆきもありますしね、なかなか息もつけないですよ」

 今の薫は心の空虚を仕事で紛らわせていると思われてもしかたはないが、それは薫にとって本意ではなかった。

「それではなかなか仏道にも専念できませんね」

 そう思われていた方が、まだいい。しかし、それはそれでまた虚しさがこみ上げてくる。

「今日は私も、珍しく参内なんですよ」

 冗官である兵部卿が参内とは、確かに珍しい。

「それでですね、兄君。あれもつれづれに時を過ごしているようですから、よかったら話し相手になっていってくれませんか」

 その言葉に薫は驚いたが、正直なところ嬉しくもあった。やはり亡き愛する人の形見には会いたいが、まさか自分からそのことを言い出すわけにはいかなかったからだ。それにしても、匂宮の自信にもまた驚いた。

「どうぞ」

 と、言って匂宮は立ち上がった。どうやら自ら薫を案内してくれるらしい。しかし薫とて幼い頃から慣れ親しんでいた二条邸の西ノ対だからその勝手は分かっており、中君がどの部屋にいるかは想像がついていた。

 簀子を裏手にまわる匂宮についていくと、匂宮は妻戸から中へ入った。さすがにそこから中についていくわけにもいかずに薫が簀子にたたずんでいると、中から宇治でも見知っていた中年の女房が出てきて薫に円座を勧めた。

 その顔を見たとき、旧知のものに数十年ぶりに再会したような感情が、薫の中で湧きあがってきた。

「おお、変わりはないですか」

 中年の女房は、畏まってうなずいていた。

「お懐かしうございます」

「どうか姫……ではなく、お方様にお取り次ぎ下さい。あまり馴れなれしくするのはと思ってご無沙汰してしまいましたが、その間に季節も、そして世の中も変わってしまいました、と」

「はい」

 女房は中に入っていった。薫が円座に座ると、入れ替わりに匂宮が出てきた。

「こともあろうにそのような席に兄君を座らせるなんてって、女房たちを叱っておきましたよ。さあ、中へ」

 促されて薫は、廂の間まで入った。身舎との間は御簾だけで、その前に薫の席は移された。

 座ると、中の様子が微かに分かる。紛れもなくそこに、中君がいた。中君が都に来てからは初めての対面なので、薫の胸は高鳴った。だがその胸の高鳴りは純粋に中君に対してではなく、そこに大君の影を見たからである。

 匂宮はさっさと御簾の中へと入った。その自然さが妬ましくもある。その妬ましさは、中君を大君の代用にしか思っていない証拠だと、薫はしきりに自戒した。

「お世話になった方なのだから、よそよそしく振る舞ってはいけないよ」

 匂宮が中君にそう言っている言葉が、薫にも聞こえてくる。中君はまだはにかんでいるようだったが、匂宮はまた笑って言った。

「まあ、あんまり馴れなれしくされても、私は困るけどね」

 そしてまた匂宮はごく自然に御簾から出てきて、薫に笑みを残して去っていった。

 薫はどうしたらいいか、分からなかった。今すぐ御簾の中の中君に話しかけるのもばつが悪く、そこで先ほどの女房に通り一遍の再会のあいさつを取り次がせただけで、早々に薫は引き上げてしまった。


(つづく)

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