第6章 宿木

 梅雨も終わって年中行事としての猛暑が都を襲っていたが、この年はそれ以上の話題性を持つ珍客が夜空に姿を見せていた。それは、東山の上から西山の方までほとんど空を横切る形で、夜な夜な白い光を発する強大な帚星ほうきぼしである。

 今までも空に白く光る尾を引く帚星が現れたことはあったが、これほど桁外れに巨大なものを薫が見るのは生まれて初めてだった。

 だれもが恐れて夜には外出しなくなり、夜の都は静まりかえった。宮中でも陰陽寮などが中心となって、この怪異の吉凶の卜占に余念がなかった。

「中君は、すっかり怯えてましてね」

 珍しく匂宮の方から高松邸の薫のもとにやってきて、薫にそう告げた。

帚星ほうきぼしのせいですね。やはり凶事の前触れですかね」

「そればかりでなく体調も優れないようで、伏せってしまいましたよ。大げさに苦しがるほどのことでもないのですけれど、ものも食べずに横になっています」

「この暑さのせいでしょう」

 そうは言ったものの、薫はやはり心配であった。だが夫の匂宮の手前、すぐに飛んで行くわけにもいかない。だが匂宮も薫もやはり男なのですぐには気づかなかったが、薫の姉はさすがに違った。

 中君が気がかりで公務の合間に二条邸を訪ねた薫が、いきなり西ノ対に行くのもはばかられて、まずは北ノ対の姉の所にあいさつに行った時のことである。そこで薫は、匂宮から聞いた中君の症状を姉に告げた。

「あらまあ、そう?」

 姉はかえってうれしそうな様子を見せたので、薫は意外に思った。いくら息子が自分の意に反した結婚をしたからとて、その嫁の不幸を喜ぶような姑ではなかったはずだ。

「私もとうとう、おばあさんですね」

「え?」

 すぐには分からなかったが、やがて薫ははっと気がついた。

「そうですか……」

 中君は懐妊していたのだ。本人も初めてのことだし、西ノ対にはそれと分かる気の利いた女房はいないであろうことは容易に想像できた。

 姉は上機嫌だった。

「男の子をぜひにと思っています。そうすれば私のお祖父じい様の夢も実現して、父君の流れも栄えますもの」

「それはようございました」

「ところがね」

 それまでの姉の笑顔が急に真顔になり、声も低くなった。

「実は摂政殿下が、六の君のことをまだあきらめてはおられないようで」

 薫は心の中でうなずいていた。自分が六の君との縁談を断ったため、摂政はまたもや矛先を匂宮に戻したらしい。

「八月には婚儀をと強引に推し進めてきまして、式部卿宮様までそのおつもりになっておられて」

「で、本人は?」

「まだ本人には言っていないのですけど」

 果たして匂宮は承知するだろうかと、薫は思う。

 だが、今度は分からない。前にこの話があったときは、匂宮がちょうど中君との障害あるがゆえに燃え上がっていた恋の真っ最中だった。しかし今やその中君も自邸に迎え、子もなした。

 男が次の妻をと考えるのは、たいていその最初の妻の懐妊中が多いと聞く。あの権中納言が薫の妹を娶った時も、最初の妻である源左大臣の娘が懐妊中だった。

 結局薫は中君に後ろめたさを感じて、会わずに帰った。

 薫の心境は、複雑だった。高松邸で、月に照らされた庭を見ながら端近にて酒を飲み、考えた。

 空には月よりも蒼く、無気味な彗星がまだ姿を見せている。こう毎晩見えていると、彗星が見えるのが当たり前のことであるかのように感じられてしまうから不思議だ。

 匂宮が摂政の六の君と結婚して、いちばん喜ぶのは摂政であろう。その摂政は、今は比叡山にいるはずだ。そこに篭もって七日間の修法をすると言っていた。今の薫の向きからは、その比叡山は背後の建物の陰となって見えない。

 そしていちばん辛い思いをするのは、中君ではないだろうか。夫と同居していながらも、独り寝の寂しさを嫌というほど味わうことになろう。

 匂宮の心が六の君の方にばかり向くようになるかもしれないし、そのようなことはなかったにせよ摂政が匂宮を離しはしまい。

 中君の幸福を姉の大君から託された薫は、心が痛かった。そして、自分の中で人妻である中君に、許されない特殊感情が芽生えているのではないかという気さえしていた。いけない、いけないと薫は首を横に振った。だが、やがて子の誕生となれば、匂宮と中君の、自分など入り込む余地のない愛の結晶を目の前に突きつけられることになる。

 だが、薫のそのような心を知らない匂宮は、翌日の夕刻にうれしそうにしてやってきた。

やまいではありませんでしたよ。めでたいことだったのですよ」

 無邪気にも、薫への報告に来たようだ。

「そうですか」

「どうしました? 何かそっけないじゃあありませんか」

「摂政殿下からのお話のことは、お聞きしましたか?」

 いちかばちか、薫は聞いてみた。

「ああ、六の君のことでしょう? そのことも聞きましたけどね。そんなの形だけですよ。あの爺さんがうるさいもんでね。私の心は中君からは離れません」

 そうあってほしいとは思うが、実際に結婚して夫婦の交渉をして肌を合わせたら匂宮の心はどう動くかと、薫には一抹の不安はあった。


 そのうち、世の中も変わった。ほとんど隠居同然の状況だった前関白である小野宮の流れの太政大臣が、夏の終わりに他界した。摂政より四つ年長の六十六歳であった。

 ちょうど彗星も出ていた時だし、また賀茂の社では大樹が倒れ、その中からいくつかの星が飛び出て南の方の空へと飛び去ったという噂も流れていた。そんな中での太政大臣の死だったので、世相は暗くなっていった。

 明るかったのは摂政とその一族だけで、これで彼ら九条流の宿敵である小野宮流の末の、目の上のこぶが消えたのである。

 薫は一応は摂政の九条流の流れの方に与していたが政治的なことにはあまり関心のなく、彼が独り言のように何気なく口ずさんだ歌――さむしろに 衣かたしく 独り寝に なれにしわれは さもあらばあれ――にその心はよく現れていた。

 その独り寝の夜も、風の音にふと目覚めてしまうこともしばしばだった。そのたびに薫は簀子に出て、庭に向かって用を足す。夜中の尿意は体の老化の現れではないかと苦笑してみるが、それでも自分はまだまだ老人になるわけにはいかないと薫は思う。

 だが、この年で独り寝というのは、いくら精神がしっかりとしてはいても体の方が悶々としてしまう男としての宿命があった。

 こういうとき普通の貴種の男は、たいてい仕えている女房を閨房に誘い込むのが常だが、高倉邸の女房は父の代から仕えているような老婆が多かったし、若い女房もいたが、薫の性質上とても手が出せない。出家の折のほだしにならぬようにと、世間の人が誰でもすることを彼は自分に戒めていたのである。

 確かに昔はそのように、み仏が彼の心を制していたように思われる。だが今は、亡き人への思いやその面影が、彼の心を縛っているかのようでもあった。

 こうして眠れぬまま、朝を迎えることも度重なった。

 ある朝、端近で格子も下ろさずに居眠りしてしまい、目覚めた時に庭の朝顔が最初に目に飛び込んできた。夏の朝の光を受けて、朝顔は力の限り咲いていた。

 だが夏が終われば……と、薫は朝顔にかこつけて人生の果かなさを思った。そして、まるで朝顔のような短い命を、大急ぎで駆け去っていった人のことを……。

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