薫はまだ夜も明けやらぬうちに、家司に車を出すように命じた。行き先は二条邸だ。

「しかし……」

 家司の頭は、まだ半分眠っているようであった。

「兵部卿宮様は、昨日から宮中にいらっしゃったようですよ」

「いいんだよ、対の御方がご病気とかで、御見舞いに伺うんだからね。今日は私も参内する日だから、その前に」

 家司が車を用意させている間に、薫は女房を呼んで直衣の着付けをさせた。朝早くからたたき起こされたことに対する女房たちの嫌味も覚悟の上でだ。準備が調うと薫は寝殿から庭に降り、朝顔の花を一輪手折った。

 車は東三条邸の角を曲がる三条坊門小路は避け、わざと下がって姉小路を東進した。こんな早朝に、しかも内裏とは反対方向へ車を進めているところを摂政家の家人にでも見られたら、おかしな噂を立てられるに決まっている。

 小路には霧が立ちこめていた。人の姿はない。あまりにも早く来すぎたから、二条邸の西ノ対はまだ寝静まっているのではないだろうかと、薫は心配になった。だが到着してから供のものを見に行かせたところ、すでに格子も上げられ、女房たちの動く気配もするとのことであった。

 薫はそのまま車を入れた。この屋敷の家人たちは、だれも警戒していなかった。おそらくは、匂宮が帰ってきたと思っているのだろう。もっともそうではないと分かったとしても、薫はこの屋敷の主の式部卿宮の義弟なのだから何の問題もない。

 女房たちも、薫の来訪にさして驚いてもいなかった。多くは前から見知っているものたちだし、宇治では薫が主人顔で指図をしていた女房たちも多い。

 薫の座は、簀子に据えられた。

「中君様にすぐに面会の用意をしてくださったのはうれしいけど、こんな簀子ではねえ。これでは足も遠のいてしまいますよ」

「しかし……では、どうしましょうか」

北面きたおもてなどのような、隠れた部屋に通してくれたらうれしいのですがね。ま、こちらの御方のお心のまにまに」

 女房は中に入ったが、しばらく音沙汰がなかった。そのうち、薫の座っている簀子と中を仕切る御簾の内側に、衣擦れの音がしてきた。中君が自分から端近まで出てきたようだ。

「お加減が悪いとうかがってまいりましたが、いかがでしょうか」

 薫は御簾の中に向かって、直接声をかけた。中から返事が戻ってくるまでに、少し間があった。

「ええ、少し」

 まるで大君だと、薫は実感した。あの病を得た頃の大君の声そのものだ。もし、この御簾の中に生きて大君がいたら……そう思うと薫の胸ははじけそうになった。とにかく今は、心を落ち着かせねばと薫は焦った。

「ちょうど朝顔が満開でしてね」

 持ってきた花を、薫はそっと御簾の中に入れた。そうしてやっと、御簾の中からは明るい声が戻ってきた。

「まあ、よく露も落とさず」

「でも、やはり少ししおれてしまいましたね」

「そう、花はしおれて、残された露はどうしたらいいのでしょう」

 その声からは、もはや明るさは消えていた。やはりと、薫は心の中でうなずいていた。好きな人の屋敷に迎えれられてともに暮らし、子まで宿したという本来なら幸福の絶頂にあるはずなのに、この人の心はこんなにも憂いを含んだ悲しいものだったのだ。

 薫は励ますように、わざと明るい口調で言った。

「この間、宇治に行ってきましたよ。やはり少し荒れてましたね。でも、私の父の屋敷であった西宮邸などは、父が住まなくなってから火災で焼けて今はもう跡形もないのですが、宇治の山荘は荒れてはいても残っておりますからまだいいです。私にとって父の思い出は遠い昔のことですけれど、親よりもかの人のことばかり思い出す私は罪深いですね」

「私も同じ心です」

 中君は静かに言った。

「同じ人のことを忍んでその死を悼むことのできる方は、蔵人弁様、あなた様しかおりませんのよ、今は。それにしても、姉や父が起き伏ししたその場に住み続けて、亡き人を忍ぶことが許されている弁の尼君がうらやましい。どうか、蔵人弁様、今度宇治にいらっしゃる時はこっそりと私もお連れ下さいまし。あの寺の鐘の音も恋しいので。実は、かねてから蔵人弁様には、そうお願いしようと思っていたのです」

 中君の心は、こんなにも思いつめたものだったのだ。宇治に帰りたいなどと言い出すのは、幸福の絶頂どころの騒ぎではない証拠だ。しかし夫でもなんでもない薫は、その申し出を引き受けられる立場にはなかった。

「男でさえ行くのに容易ではない山道なのですよ。ましてあなたは、今は普通のお体ではない。お父宮様の三回忌も、私が寺の阿舎利と取り計らいましょう。思い出の中にひたって生きるのは、かえって辛さが増すだけです」

 中君の返事はない。うつむいている姿が、御簾の向こうにかすかに透けて見える。もしかしたら、無言で泣いているのかもしれない。

「山里にお篭もりになろうなんて、考えてはなりません。もっと気持ちを大きくお持ち下さい」

 今は説教ぶってしまう薫であったが、その言葉は自分自身にも向けられていた。さらにその保護者然とした態度は、自分の中に生じる中君への妄想を断ち切るにも有効だった。

 そのうち、どんどん本格的な朝になっていった。これ以上長居していては、出仕に遅刻してしまう。宮中の公務は朝が早い上、彼は一度自邸に戻って束帯に着替えなければならないのだ。

 その事情を中君に告げて、薫は席を立った。そして、侍所の別当を呼んだ。

「兵部卿宮様は昨夜こちらにお戻りとうかがったのだが、お留守で残念だ。宮中でお会いできるだろうか」

 匂宮が後で自分の来訪を聞いて変な勘繰りを入れないため、先手を打ったのである。

「今日はこちらにお戻りと思いますが」

「じゃあ、夕暮れにでもまた」

 そして薫は、二条邸の西ノ対をあとにした。


 秋になって、年号が改まった。もう今ではすっかり見えなくなった巨大な帚星だが、その帚星も改元の理由の一つであった。

 その頃に薫は吉日を選び、薫はいよいよ三条邸に移り住んだ。高松邸の西ノ対の妹は、そのままだった。

 これで二条邸がぐっと近くなる。中君が近くなる。ただそれは物理的距離が近くなるだけで、精神的距離はというと別問題であった。

 三条邸では、薫は寝殿には入らず、対の屋住まいとした。寝殿には、西山の御寺から呼び寄せた母の尼宮に入ってもらったのである。母はしきりに辞して自分は北ノ対でいいと言ったが、薫は引かなかった。

 それが世間一般に思われているような養母ではなく実の母であることを、薫はすでに知っている。そして、母の方は薫がもう真実を知っているということはまだ知らず、養母のふりをして恐縮して見せているのだということも薫は知っていた。だから、引かなかったのである。

 若い母ではあったが、さすがに近ごろでは老いの波が寄せている。すでに四十を過ぎているのだ。それでもおっとりとした性格は、昔のままだった。

 その母が三条邸に移った日の夜、あいさつに来て目をあわさずに薫に言った。

「なにやら式部卿宮様のお家や、宇治の宮様のお家とかで、いろいろごたごたしているようですね」

 世を捨てたはずの母ではあるが、噂は耳に入っているらしい。だからといって、別に薫を責めるような口調でもない。

「もう私も、長くはないと思いますよ。それでもこの目が黒いうちは、幸い人でいて下さい。いろいろごたごたがあったからとて世をはかなんで、それで仏道に入ろうというお心持ちなど、尼となったこの身が咎めるわけにはいきませんが、それでも寂しすぎます。そのような私の考え方は、罪かもしれませんが」

 薫は目を伏せた。

「母上、ご心配なく。万事がうまくいっております」

「そうですか」

 にっこりと笑ってうなずき、母は薫を見た。だます形になってしまったが、母に対してはこれでいいと薫は思っていた。

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