薄靄の中の行く手に、うっすらと平らかな陸地が広がった。このあたりは内湾になっているので、少々風はあっても波はおだやかだった。

「難波の浜だ」

 惟光が叫んだ。源氏をはじめ一行は皆、船べりから体を乗り出した。

「おお」

 ひと声だけつぶやくと、源氏は目を細めた。葦が群生する海の向こうに白い砂浜が左右に長く横たわり、松林がその上に細い帯となって重なっている。その上はすぐ空で、山は影すら見えなかった。

 まさしく難波の浜だった。

 ついに帰ってきたという実感が、源氏の中にあった。ここまで来れば都は目と鼻の先だ。

 あれほど悲しい明石での別れであったが、今源氏の目の前には代わりに都への想いが横たわっていた。

 明石が遠く感じられる。何しろ生まれてこのかた、二十五年間を過ごした都である。一年半の空白などすぐに埋まってしまうであろう。

 須磨でも感じていたことだが、やはり都生まれの都育ちは都を離れては生きていけないようだ。

 船はまず難波の津へ入った。ここで船旅が終わるわけではなくこのまま淀川を上るのだが、とりあえずここで船の祓いをする。

「源氏の君様、もう日が暮れますのでここにお泊まりになりますか」

 惟光の申し出に、源氏は首を横に振った。

「今日中に都に入ろう」

「しかし、夜になりますけど」

「いい」

 都を目の前にして足を止め、その一晩の興奮に源氏は耐えられそうもなかったのだ。

「しかし一泊なさって、やはり住吉の神様には参詣された方が」

「住吉の神……」

 これは源氏にとってそのようなものはいいと言えるような存在ではなかった。明石へ行き明石の姫と会ったのも、住吉の神のお導きだったかもしれないのだ。いや、少なくとも入道は、全くそう思っていたようだった。

「今回はとりあえず帰京報告の使いを立てて、後日あらためて参詣しよう。朝忠、すまんが行ってくれ」

 命ぜられた朝忠と都への早馬の使いの者をおろし、船は夕闇の中を再び出航した。これからは川路を行くので、暗くなってからでも海賊の恐れはない。


 川がだんだん幅を挟めていけは、その分だけ都に近づいた証拠だ。松明を船首に立てて、船はゆっくりと進む。

 ふと気がつくと、すでに川の左岸に沿って東京極大路が走っていた。ほぼ満月に近い月が中天にあって、都の様子はよく見えた。

 紛れもなく帰ってきた。

 家司の何人かは涙を流していた。人々があまりに左舷によりすぎて船が少し傾き、船頭が慌てて呟払いをしていた。

 二条河原に着く前にそこにおびただしい数の松明が見えたので、そこが目指す所だとすぐに分かった。

 船が着いた。家司たちが一斉にとびおりる。出迎えの家司たちもこぞって走り寄ってきて、二つのかたまりはぶつかった。懐かしい顔に手をとりあって喜んでいる。船を下りた源氏もたちまちに家司たちに囲まれた。

「お帰りなさいませ!」

 口々に叫ぶ声はうるさいほどだった。源氏は黙って微笑み、ひとりひとりにうなずいていた。

 用意されていた車に乗り、二条邸へ向かう。車の中で源氏は思った。もはや明石で自らを都にいるのになぞらえていたのとは違う。ここは本物の都なのだ。

 二条邸に着くと邸内の庭に一斉にかがり火が焚かれ、まるで昼のようであった。懐かしい匂いのする床を踏んで渡廊を歩く。寝殿に入っても、そこにはいつもより数多くの燭台が立てられていた。

 両面に女房たちも留守の家司たちも集まり、ひしめきあっていた。

「お帰りなさいませ」

 ここでも口々に歓待を受ける。

「みんな、よう留守を預かってくれた。皆は変わりないか」

「ありません」

「この通りでございます」

 古い女房などは最前列にいて、何とか膝を進めて源氏に近づこうとさえしていた。

「迷惑をかけたな。しかも、一年半も留守をしたというのに、全く昨日まで私がいたように屋敷の手入れも行き届き、庭も荒れているどころか前よりも調っているくらいではないか」

「それはもう」

 女房のひとりが、また身を乗り出した。

「対の上様が、すはらしき女御主人でいらっしゃいましたので」

「対の上か」

 源氏はいてもたってもいられなくなり、とにかく旅装束そのままで立ちあがって姫のいる西ノ対へと渡った。

 身舎もやへ入ると姫は両手をついて頭をたれ、夫の帰宅を迎えた。

「お帰りな……お帰……」

 言葉が出ないようだった。姫はそっと顔を上げた。その目はうるんでいた。源氏もその前にかがんで互いにうるむ目で見つめ合った。文をかわすだけだった人が、実物で目の前にいる。

「世話をかけた。もう、どこにも行かないよ」

 わっと大泣きして、姫は源氏にとびついた。はじめは大人らしく、端整に源氏を迎えようとしたらしいが、無理だったようだ。

 ところが源氏の頭の中に昨夜自分の腕の中にあった存在が蘇ってしまい、胸がしめつけられる思いだった。だが、今自分が抱きしめている存在に対する思いが、それで消えることはなかった。同じ年頃の二人の女性だが、大人になってから出会った明石の君と違い、この姫は彼女がいとけない頃より年月をともに過ごしてきたのだ。もはや自分の一部と言ってもいいような存在だ。

「やせましたか」

 まだ涙まじりに、姫は源氏を見ていった。

「そうかもな。あなたも立派にこの屋敷を守ってくれたっていうじゃないか」

「殿の御ためですもの」

 二人はひとつになるべく、再び固く互いを抱きしめていた。


 翌朝、源氏はまどろみの中で、ふと潮の香りを求め、千島の声を期待してしまった。しかしここは都なのだと我に返り、あらためて胸騒ぎがしたりした。

 忙しい日々が始まる。朝食も早々に、源氏は家司、女房の主だった者を寝殿に集めた。

 家政も新たにしてうち立てねばならない。留守中の臨時のそれをとりあえず停め、今日からはまた正式な政所が復活するのだ。

 政所の権別当はそのままにし、惟光を再び別当に据えるよう官に申請もしなけれはならない。

 その時、宮中より源氏に参内を促す使いが来た。

 久方ぶりの束帯に身を包んだ彼は、すべてが昔という時間に戻ったような気がした。しかし昔の彼と今は違う。今の彼には明石という土地での思い出があった。宮中へ向かう車の中で、戻って以来はじめての昼間の都の姿を見て、そのあまりにも人の多さに、そしていろいろな人がいることに驚いたりもした。まるで明石という田舎からはじめて上京してきた人のような心に、少しだけ源氏はなったのである。

 内裏へ入った源氏を迎える人々は皆再会を懐かしみ、温かかった。内裏の空気もいい方に変わっているようだった。

 しかもすぐに綾綺殿へと案内された。そこが今の帝のお常御殿であった。清涼殿はかつての落雷以降再建も進み殿上の間などは機能しているようだが、まだ帝はそこにお住みにはなっていないという。

 綾綺殿は東面する清涼殿と、仁寿殿を間に挟んで向かい合うかたちに西面している殿舎だ。

「お顔をお上げ下され」

 昼御座ひのおましの青年の帝は、直接に源氏に声をかけられた。その脇には摂政太政大臣の姿もあった。

うえにあらせられましては御悩ごのうと承りましたが」

 前かがみのまま源氏が奏上すると、帝はにこやかにうなずかれた。

「だいぶようなりました。心配して下さってありがとう。それよりも今日は兄君様に、わたしの方から謝らねばなりません」

「もったいない仰せで」

「地震、暴風雨と洪水、東国の兵乱など、思えばすべて兄君様が離京されて以来のこと。天変地異はその国のあるじの不徳によるもの。すべては父院のお気に召さなかったのではと」

「そのような」

ふみにもしたためましたが、ある日父院が夢枕に立たれて私をお睨みあそばしたのです。それ以来、目を患いましてね。まだわたしが幼少のみぎり、父院が御遺言で源氏の君を後見として何ごともご相談申し上げるようにと仰せられたのに、わたしはそれをないがしろにした。父院がお怒りになるのもごもっともです」

「恐れ入りましてございます」

 源氏はよほど父院が自分のもとへもお出ましになったことを申し上げようかとも思ったが、それでは帝の仰せごとに同調して帝をお責め申し上げることになるのでやめた。

わたしも今までは子供だったので、何でも母のいいなりになってきました。しかし、もはや一人前になったつもりです。母もやまいで里に下がっておられますし、これからは母から独り立ちして自分の意志で動いていくつもりです」

 源氏はあらためて帝のご成長に驚いた。臣下としてのみでなく、同じ父を持つ兄としても嬉しかった。そしてそのことが、今回の自分の召還につながっていたのだなと源氏はすぐに察した。摂政太政大臣を見ると、摂政も嬉しそうにうなずいていた。

「これからは、働いていただきたく存じておりますよ」

「は」

 源氏はまた、頭を下げた。

「今宵は月見の宴、久しぶりに参列下され」

 帝のお言葉どおり、その日は折しも中秋の名月だった。

 夕になると公卿が集まり、酒肴のあと詩作の催しなどが行われた。帝からはこの日は何も復任の沙汰はなかったので源氏はまだ無官であったが、親王扱いの皇親源氏の資格で参列した。

 堅苦しいはずの儀式の進行も、今の源氏には新鮮に感じられる。そして帝の退御後の直会なおらいでは源氏を中心に人々は集まり、まるで源氏の帰還を祝う会のような様相を呈した。

 摂政太政大臣も、親しく源氏の近くに来た。源氏が居を正すと、

「まあ、そのまま」

 と、気さくに源氏のそばに座った。

「このたびは六十の御賀、おめでとう存じまする」

 源氏が頭を下げると、太政大臣は笑っていた。

「めでたいのだか何だか、一歩一歩あの世へ近づいておりますよ。それよりも源氏の君様」

 太政大臣は源氏の耳元で、小声で言った。

「復任のことでござるが、実は蔵人頭播磨守が権職ですが中将を兼ねておりましてな、源氏の君様をそこへ復任というのはちと難しうござって」

「はあ、いえ、それは」

 事情は分かる。今の頭中将は故本院大臣の三男で、弘徽殿大后のおぼえめでたき人。いくら病で下がっているといっても、まだ大后の睨みは消えてはいないようだ。

「しかし、なあに、ご心配めさるな。あと半月もせずに秋の司召つかさめしでござるよ」

 太政大臣は大笑いして、その場を立った。

 入れ替わりにその次男が源氏の肩をたたいた。

「おお、宰相中将。いやあ、あの時はわざわざ」

「やっと帰ってきたな。まあ、飲んでくれ」

 手ずから源氏に酌をして、朋友は源氏の脇に座った。

「実はね、私が須磨より戻ってからすぐに、私は権中納言になったんだ。それに左衛門督と検非違使の別当も兼ねていてね」

「ええッ!」

 源氏は目を見開いた。

「すごい出世じゃないか。参議の中で君がいちばん新しく、しかもいちばん若かったのに」

「ああ、七人もとびこえてだよ。父君のお力だな。君もいいことがあるよ、きっと。ちなみに兄上も今は中納言の他に右大将と按察使を兼ねているけどね」

 源氏は小野宮の中納言のことはどうでもよかったが、その前のひとことが妙に嬉しかった。

「私も君にあやかれるのかな」

「もちろんだとも。いつまでも日陰じゃないさ。これからはまたいっしよにやろうぜ」

「ああ」

 二人はしっかりと、手を握りあった。


 宰相中将……今の権中納言左衛門督のいうように、それから十二日後には、源氏にとっていよいよ人生の本番がまわってきた。

 源氏を参議に叙すという沙汰が下った。つまり今度は源氏が宰相になったのである。二十六歳の若さで参議というのは異例のことである。太政大臣家の一族の、たとえば小野宮中納言やその弟で源氏の朋友である元宰相中将の九条権中納言などは別として、それ以外では全く例のないことだった。

 やはりいいことがあった。太政大臣が心配するなと言っていたのも本当だった。これからは宮廷官人の、しかも上級貴族である上達部かんだちめすなわち公卿くぎょうとして、いよいよ自分は働くことになるのだ。

 源氏は闘志に燃えてきた。弘徽殿大后が病で下がられている以上、目の上の妨げはない。強いていえば源氏の宰相就任と同じ日の除目で小野宮中納言が大納言になったことと、蔵人頭播磨守も源氏と同じく参議になったことくらいだったが、さして源氏は気にもとめていなかった。

 このことは、真っ先に西ノ対の上にも報告した。

「おめでとうございます。ご活躍を期待しています」

 宰相夫人となった妻も、心から嬉しそうだった。

 もはや春を通りぬけ、源氏の人生は対の上とともにいよいよ夏を迎えようとしていた。


 第一部 春 おわり  (第二部につづく)

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