第2部 夏
第1章 澪標
1
はっきりと父院のお姿が夢に現れなさったあの須磨の嵐の夜のことが、帰京以来源氏の脳裏をかすめることがたびたびあった。明石を思うにつけ、その明石へと導引して下さったのは他ならぬ父――故院であったと源氏は信じていたし、その院の御ために何かお報い申し上げたいと思っていたが、源氏はなすすべを知らずにいた。
そうこうしているうちに源氏は巨大な都の中にあって、官人としての新しい生活の波に翻弄されるようになっていった。目に見えない大きな力が彼の日常を動かし、大きな渦の中にその生活が巻き込まれようとしている。
かつては夢にまで見た都であったが、いざ戻ると逆に明石が思い出される。懐かしさの真っ只中にいるはずなのに、淋しくてしかたがない。
しかしすでに参議に任ぜられていた源氏は、さっそくその職掌に奉勤しなければならなかった。その出発点ともいえる初着座の吉日が
まずは顔合わせだ。宮中の紫宸殿の南庭の東に宜陽殿がある。そこは儀式ばったことが議される所だが、議政官はそこの定位置に座が設けられている。ここに一席が与えられることによって源氏もいよいよ国政に直接参与するのだが、その自分の座に初めて着くのを初着座という。
この日、まず新大納言となった
源氏は彼なりに緊張していたが、一年半ほどの田舎暮らしが身についてしまっているだけに、厳かな儀式が何やら茶番劇のようであった。
新大納言などは最も仰々しく表情も変えずに席に着いていていたが、源氏とはまるで初対面のように視線すら合わせずにいた。源氏も、中央の座卓を挟んで左右に敷かれた畳の上の座に着いた。これが自分に与えられた席なのかと思うとさすがに愛着を感じ、胸が熱くなったりもする。
やがて左大臣が現れた。今年六十の摂政太政大臣より五歳も年長なのだから歩くのがやっとという感じで、かなりの時間をかけて座に着いた。
見わたすと、もちろん二十代の源氏が最年少であった。いちばん年が近いのが故本院大臣の三男で前任が頭中将であった男だが、これとて三十代半ばだ。逆に新人のうちの最高齢の伴宰相と今後呼ばれることになる老人は、棺桶に半分足を入れている左大臣よりもさらに高齢の七十代で、人生の最後にしてやっと手に入れた参議の職という感じである。
この日は新大納言とは別の、やはり老齢に達しているもう一人の大納言から参議としての心得、議定の作り方などについての説明があり、それだけですぐに散会となった。
気は進まないがひとこと挨拶しておこうと思って源氏は新大納言を見たが、やはりかつての舅は目も合わせずに退出していった。同じ席に源氏が着いているのが、不快にさえ感じている様子だ。ましてや同じ仲間のうちただ一人老人とは言えない兼左中将は、弘徽殿大后の息かかる故本院家の者なので源氏は口もききたくはなかった。
そのあと、もう帰ってよいのかどうか分からずに迷って源氏はうろうろしていたが、紫宸殿の南庭の方が騒がしくなっているのに気づいた。
宜陽殿の西廂は土廂であり、当然
やがておびただしい駒音と砂ぼこりが上がり、南庭の小砂利の上を四十頭はあるかと思われる馬が参入してきた。
「武蔵国の御牧の御馬でござるよ」
源氏の隣に、いつのまにか老齢の伴宰相が来ていた。
「はあ」
源氏は愛想返事だけ返したが、伴宰相は構わずしゃべり続けた。
「東国はまた兵乱くすぶっておるというのに、まだ皇威は衰えてはおらぬのう。これほどまでに見事な馬を」
老人は目を細めているようだ。その横顔を源氏は見た。
「兵乱はまだ治まってはおりませんか?」
「ああ。一応は小康状態のようでござるがな」
源氏が須磨に行く前に、兵乱のことは噂には聞いた。あれから二年、もう治まっているかと思っていたがまだくすぶっているらしい。
「はじめは一族間の争いだったのが、ついに国府まで巻きこんでな、その国府というのがあの御馬の国の武蔵の国府じゃ」
老人はまたもや、目を細めて言った。
参議としての第一日目は終わろうとしていた。もう帰ってもいいらしい。源氏は内裏を退出するために、宣明門の方へと歩いていた。
第一日目としては、首尾は上々だっただろう……そう思っていると、背後に声があった。
「おめでとう。源氏の君」
今の自分を源宰相殿と呼ばないことやその声からも、すぐに相手は分かった。
「おお、
この間までの宰相中将――親友の九条権中納言
「いよいよ君も晴舞台だな」
権中納言はニコニコしている。
「いや、いろいろとお骨折り頂きかたじけない」
「何を他人行儀に」
権中納言はまた笑って、歩きながら源氏の耳に口元を寄せた。
「今夜、お邪魔してもいいか?」
「今夜?」
「まずいかな? どこぞへお渡りか?」
「また、何を言うかね。君とは違う。君こそいいのか? 私の所へなど来て。少しも色めいた話ではないな」
「いや、妻を九条邸に引きとってからは、てんでごぶさただからね。娘の顔を見たいしな」
「はいはい、舅殿」
源氏もひとしきり笑ったあと、急に真顔になった。
「私も君に、折り入って相談したいことがあるのだよ」
「何だい?」
「とにかく来てくれ。待っている」
それだけ言って源氏は宣陽門を出たあと、自分の車と従者を待たせてある待賢門へと向かった。
「それはちょっと難しいな」
あごに手をあて、権中納言は首をかしげた。
「なぜだ」
源氏は身を乗り出した。真剣な表情だった。西ノ対で源氏とその妻であるわが娘と三人で歓談したのち、権中納言が寝殿の
「今はどの寺も、修法の過密状態だよ」
源氏は低くうなった。父院へ報い奉る、やっと考えついたすべだったのだ。父の御ための御八講を、源氏は主催しようとしたのである。そして今や、やっとそれができる身分となっていた。
だが彼は皇親源氏であるため、先祖代々より伝わる氏寺というものがない。それが弱みといえば弱みだった。
「東国の兵乱も、一応は治まりを見せているとはいっても、まだ完全に鎮火したわけではないしな。近く東国推問使を派遣するという噂もあるんだ。また兵乱が活発化したら、寺々も修法に明け暮れるだろう。それに大后様も不予(病気)ときている。そのための修法も続いて行われているし、それに」
「それに?」
言いにくそうにしていたが、権中納言は顔を上げた。
「今年はわが父が、六十なんだよ」
「そうか……」
摂政太政大臣の六十賀の宴の時はまだ源氏は明石にいたが、その修法はこれから行うことになっている。このような状態なら、よほど自らの氏寺でもない限り御八講を頼むのも無理だろう。
「仕方がないな」
「申し訳ない」
権中納言は頭を下げた。
その時ふと源氏が考えたのは、自分の須磨から明石への移転には父ももちろんだが住吉の大神のお仕組みもそこにあったということだった。それなのに帰京の際は、住吉大社には使いを遣わしただけで自らは素通りしてしまった。住吉の神の御恩に報いるための願ほどきもしていない。
大社に個人的に参拝するのなら、寺院へ御八講を頼むような面倒な手続きはいらない。源氏は権中納言を見送ったあと、あらためての願ほどきのための住吉参拝を思い立った。
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