新旧合わせて七人いる参議の中で、兼職がないのは源氏だけだった。従って議定で召集されない限り彼は暇のはずだが、それがけっこう忙しい。だから、住吉参詣も思い立っただけで、なかなか実行には移せずにいた。

 彼を忙しくしていたことの第一は、新参議としてのあちこちへの挨拶回りである。まずは摂政太政大臣の小一条邸への慶申よろこびもうしで、いわば任官の礼ともいうべきものだ。

 さらには、気は進まないまでもやはり形として、新大納言の小野官邸へも顔を出さないわけにはいかない。それにその邸には、我が子がいる。源氏は帰京以来一度も我が子の顔を見ていなかった。そのことだけがかろうじて、源氏に小野官邸へと車を進ませた。

 南面でかなり待たされたが、ついに大納言は出て来なかった。形どおりの慶祝の辞を家司に伝えさせただけで、あとは西ノ対でごゆるりとということだった。病だとかいう説明も全くなかったが、源氏とてかつての舅の顔を見ずに済んだのだからほっとした感じだった。

 とりあえず西ノ対へ行く。ここだけは敵地のような小野官邸でも、まるで別世界だ。帰京して初めての源氏の来訪ということで、女房たちもいつになく着飾っていた。

「お帰りなさいまし」

 いまだに源氏は、ここではそう迎えられる。一斉に響く女房たちの声に、源氏は思わず立ちすくんでしまうほど胸が熱くなった。

 何も変わってはいない。死んだ前の妻がいた頃と、室内の調度すら変わってはいなかった。

 座に着いた源氏に、我が子の乳母が女房たちを代表して挨拶を述べた。

「長いひなでのお暮らし、さぞご不自由でございましたでしょう。それなのにこのたびは真にめでたく……」

 もうよいという思いだった。それよりも早く源氏は我が子を見たかった。乳母もそれを察したようだ。早々に挨拶をきりあげ、手を打ち鳴らした。

 ひとりの女房につれられて、半尻姿の我が子が現れた。

「おおッ」

 源氏は目を細めた。こんなに成長していようとは思わなかった。頭では我が子も来春は六つ、須磨へ行く前と同じではないはずと分かってはいてもついついあの時のままで目の前に現れる気がしていた。

 なにしろ調度もそのまま、大人たちも変わってはいないのだ。たった二年で、大人が様変わりするはずはない。しかしその理論は子供には通用しない。何をおいても短い歳月の中でも顕著に見せる変化、それは子供の成長である。

 我が子はかわいらしく、源氏の前に座った。

「お父上様、つつがのうお帰り、祝着に存じます」

 おそらくは乳母に繰り返し覚えこまされた言葉だろう。まるで鸚鵡おうむのように、たどたどしい棒読みがかえってかわいらしくもあった。

「さあ、おいで」

 源氏は手をのばした。我が子は走りこんできた。

「父を覚えているかい?」

「はい」

 やたら大きな声での返事だった。源氏はただただいとおしくて、父強く我が子を抱きしめた。

「そなたたちも留守中、よう若を守り育ててくれた。礼を言うぞ」

 我が子を抱いたまま、源氏は女房たちに頭を下げた。そうしながらも源氏の頭の中には、この子の将来のことが飛来していた。

 自分と小野宮大納言との関係を考えると、いつまでもここへ置いておきたくはない。大納言は源氏の子というよりも、自分の亡き娘の忘れ形見という意でこの子を置いているのだろう。しかしこの子は、自分の子なのだ。源家の嫡男なのだ。

 だからといって今二条邸に迎えるにも、大納言に対する名目が立たない。それでは表立って大納言に宣戦布告をするようなものだ。まさか東国ではあるまいし兵乱にはなるまいが、宮廷内で冷たい兵乱が始まる危険性はある。ただでさえ大納言とは、中の君事件以来嫌悪なのだ。

 恐いのは大納言だけではない。その背後にある存在――今は病に伏せてはいるが、弘徽殿大后が自分にどのような影響を及ぼしてくるか――。

 そのことについて源氏は忙しい日常の中でも思案を重ね、それでもなかなか思いあぐねていた。そしてようやく妙案が浮かんだ矢先に、宮中より召しがあった。折しも紅葉が都じゅうを染めあげ、風も冷たくなる頃であった。


 久々に見る都の紅葉だ。やはり田舎と違ってそれは洗練されていたが、そのみやびの裏の泥沼に源氏は浸ろうとしている。少年の頃と違い、その泥沼の異臭も鼻につかなくなっていた。

 宮中では陣の座に公卿すべてが集められた。陣の座は紫宸殿の東、紫宸殿と宜陽殿を結ぶ渡り廊下のような所で北側にのみ白壁があり、南側は壁も格子もなくただ几帳が立てられているだけで、軒廊ごしに南庭とその向こうの承明門が見える。

 召しは直物なおしもので、秋の除目の召名めしなの記載に誤記があったのでそれを改めるということだ。これとて事務手続きは弁官の方で済んでおり、書き直した召名を再発表するいわば儀式である。

 直物とともに小除目が行われることもあるが、今回はなかった。

 いずれにせよ参議として、源氏が実質上参内した初めであった。

 直物はすぐに済み、続いて東国の兵乱の話となった。何しろ自分が知らない間のできごとだ。源氏はこの際、知っておきたかった。

 とにかく、宮中の流れという波に乗るのが大変だ。しかも、それが今の自分にとっていちばん大切なことだと、源氏は実感していた。

 自分が服解ぶくげして宮中の官職を離れ、また都そのものからも離れて田舎へ行っていた間にも、確実に世の中は動いていた。取り残された者は、追いかけて追いつかなくてはならない。一歩後退した分、三歩前進しなければならない。

 左大臣はひとつ、咳払いをした。

「ご存じのことではあると思うが、推問使のこともあるので、今一度情勢をおさえておこうと存ずる」

 源氏にとっては、「ご存じのこと」ではなかったので、その説明はありがたかった。

「かの坂東の皇胤、豊田小次郎とよだのこじろうなる者、一度は一族内で騒擾に及び、都へ呼びつけて糾問したるも、うえの御加冠の特赦にて罪を滅し帰東いたしたるはご存じのはず」

 確かにここまでは、源氏とて知っていた。

「然るにその後、再び一族内にて兵乱に及び、さらに今年になってからは武蔵権守や当地の郡司と結んで、武蔵介六孫王殿を都へ追い返した。今は平穏を保ってはおるが、油断のならぬ男。よってこのたびの東国推問使の派遣となったのだが、またそれがごねていてなかなか発向しようとしない。このたびも軍士をともにつけよとか、主典さかんをつけよ、医師をつけよとうるそうてな。それでこの直物を機に、おのおの方に諮りたい」

 さっそく意見の陳述が始まる。源氏は年齢は最年少でも正四位下。従四位上の参議が三人いて、発言はその下位の者から順なので、源氏の発言は四番目ということになった。

 まず本院大臣三男の宰相中将、次にその兄の宰相左兵衛督、そして伴宰相と発言は続く。その間源氏は、老人の中にひとり入った若者としてその状況に反発すべく、あらぬことを考えていた。

 豊田の小次郎なる人物――会ってみたいものだ……と。かつての源氏なら、坂東の荒武者と聞いて髪ふり乱した般若の相を連想しただろう。しかし今は違う。彼は昔の彼と違って土の香りを知っている、潮の香りも知っている。そこに根ざし、大地をなりわいの場として自然とともに暮らす人々も知っている。彼らはいわば軽蔑すべき下賎ではなかった。自分たちと同じ重さの魂を持っていた。案外その豊田小次郎という男も、土の香りを愛する素朴な男なのではないか……。

 しかしこの座の人々はそうは思うまい。今の源氏は昔の自分と違うように、ここにいる人たちとも違う。彼らは土の香りを知らない。この宮中にはそんな香りは微塵もない。

 そんなことを考えているうちに、源氏の番となった。一気に源氏は気が焦った。まさか今まで考えていたことを言うわけにもいくまい。

「ま、まろはまだ、状況がよく把握できておりませんでして…」

 たじろいだ口調だった。座が白けた。これでは議は進まない。源氏はまわりを見まわして、失言に気づいた。若輩者に対する老練者の軽蔑の眼が、一斉に向けられているようにも感じて冷や汗が出た。

 ここは何でもいいからもっともらしいことを言って、取り繕っておくべきだった。

「源宰相殿」

 かなり間をおいてから、上卿の老左大臣が咎めるような口ぶりで、ゆっくりと言った。さらにその先を言おうとしていたようだが、その上座の摂政太政大臣が咳払いをした。

「源宰相殿はしばらく都を離れておられたのだから、無理もござらぬ。まろから説明いたそう」

 摂政からの思わぬ助け舟に、源氏はほっと胸をなでおろした。

「かの豊田小次郎なる者は、かつてはわが小一条邸の地下じげの家人として、まろに名簿みょうぶを差し出していたこともある」

 そうなると、太政大臣がまだ左大臣だった頃だ。豊田小次郎とは源氏が左大臣邸に出入りした折に、源氏の視界の中に入ったこともあるかもしれない存在だった。

 摂政太政大臣は話を続けた。

「今回の武蔵騒擾についても、まろ宛てに小次郎は私信を送ってきた。それだけでなく、関八州の国司の文書も添ええてあったのじゃ。彼は無実だ。それもまろが直々にかの者に御教書みきょうしょを与えたからじゃ」

 太政大臣の旧家人――それだけで源氏にとって、豊田小次郎なる男がますます身近に感じられてきた。

 左大臣がまた、咳払いをした。源氏の発言を促している。

「は、はい。それで、その推問使とは、どなたで?」

 発言ではなく質問だった。座の人々はざわめいた。

右衛門権佐えもんのごんのすけだ。では次」

 源氏の発言はそれで打ち切られた。いづらかった。

 結局、推問使の要求はことごとく却下と議は決した。

 退出しかけた源氏の束帯の袖をかつての舅の大納言が引いた。そのまま源氏を宜陽殿の西の土廂の方へ引いていった。恐い顔だった。

「光の君様。故実を学ばれよ」

 言葉つきこそ丁寧だったが、口調と眼光はするどかった。源氏はただ目を見開いて唖然として大納言を見ていた。

「光の君様の先例にないお尋ねにより、これまた先例になく父君が口を入れられた。これによってその後の議は、父の意どおりにもの申すことしかできなかったではござらぬか」

 なぜそれが不服なのかと思ったが、源氏は黙っていた。

「故実を学ばれよ」

 もう一度繰り返してから、

「もっとも源氏の君様は、そのすべもございませぬがな」

 と、大納言は鼻で笑った。

「まろは父君より、教命を受けておりますれば」

 それだけ言って、大納言は行ってしまった。源氏は始終無言でひとことも反論できなかった。

 だがその時、ひとつの顔がその場をのぞいた。その顔を見た途端に源氏はやっと少し心が晴れた。

「兄者の言うことなど、気にするなよ」

 同じ座に列していた朋友の権中納言左金吾だった。

「ああ、気にしてなんかいないさ」

 源氏の顔に笑顔が戻った。

「兄者は父君から有職故実の教命を受けているなんて言ってたけど、父君の子息は兄者ひとりじゃない。教命を受けているのもひとりじゃないんだよ。そして私への教命は、すなわち君への教命だ」

「持つべきものは…」

 場所柄もわきまえず、源氏は微笑んでその友の両肩に手をおいた。

「実は君の父君に、折り入って頼みがあるんだが、君も口添えしてくれるかい」

「いいけど、院の御八講のことはやっぱりだめだよ」

「いや、そうじゃない。若のことだ」

 源氏が内心を話すと、権中納言も賛成してくれた。

 ことはすんなりと許された。源氏の子は童殿上わらわてんじょうとして、官仕えすることになった。しかも小野宮大納言へは、摂政太政大臣の方から言いわたしてくれたのだ。これなら事も荒立つこともないし、また小野宮大納言も抗えない。

 摂政から見ても、源氏の子はかわいい曾孫なのである。源氏も今は参議として公卿に列しているので、その子が童殿上になる資格も充分だった。


 しかしもうひとつの源氏の願望……住吉詣では、まだなかなか実現しそうにもなかった。

 ふと源氏の心の中に弾けるものがあった。東国のこと、小次郎という男のことに思いを巡らせていた時に、その連想で思い当たったのだ。

 推問使に任じられているのは、右衛門権佐といっていた。陣の座でそれを聞いた時は聞き流していたが、今はっきりと思い出した。――それは明石入道の兄、すなわち自分の母方のもう一人の伯父ではないか……。帰京したらぜひ訪ねるようにと明石入道からも言われていたが、これまでなかなか機会がなかった。

 そこでこれを機に源氏は、その翌日に五条近くの右衛門権佐の邸を訪ねた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る