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もし
ここでも源氏は右衛門権佐を伯父として立てようとしたが、彼は上座を源氏に譲って厳として動かなかった。明石の時と違い、今や源氏は四位の宰相である。世間から見ても当然の序列だった。
「いやあ、お懐かしい」
右衛門権佐はまた目を細めた。
「我が妹、あなた様のお母上の御息所様が身罷られた時以来ですな。ほんの四、五年前なのに、今は御立派な公卿ですから、わしも年をとるはず」
「いえいえ、まだ若輩者にございます。伯父君に対しましてこれまでの無沙汰、お詫び致します」
「いえいえ、どうもまあようお忘れなくお越し頂きまして」
「いえ、実は」
源氏は明石へ行ったいきさつ、明石入道のこと、さらにはその入道からこの伯父のことを頼まれたことなどを、手短に話した。
「そうでございますか。明石にとは奇偶ですなあ。しかしあのおしゃべりの弟には閉口されたでしょう。何しろわが一族の中でもいちばんの変わり者なのですよ、あの入道は」
公事に忙殺された日々を送っていた源氏にとって、明石入道の名が出ただけで胸が熱くなる思いがした。明石入道、そしてかの地への想いが再燃した感じだ。まるで上京者が出身地を恋うるような思いだった。それに加え忘れ得ない明石の姫君の存在があった。
目の前の伯父は明石入道の兄だけあって入道と顔立ちはよく似ていた。恐らく入道に還俗させて髪を生やさせ、烏帽子をかぶせれば今目の前にいる人物ができあがるであろう。
源氏の中に明石時代のことが一気にこみあげてきてはいたが、あえて彼は話題を変えた。
「時に伯父上は、東国推問使に任ぜられておられるとか」
伯父の眉が少し動いた。
「ひとつだけ、お伺い申し上げます」
その伯父の声も急に低くなり、顔もこわばった。
「光の君様は本日はわが甥として私事で来られたのか、それとも源宰相として朝命で来られたのか、お聞かせ願いたい」
「もちろん、ひとりの甥としてでございます」
「ではなぜ、推問使のことを?」
「実はいささか、坂東の状況に関心がありまして」
伯父はゆっくりとうなずき、もとの笑顔に戻った。同時に低くため息をついた。
「気の進まない役でございますよ。それゆえにいろいろ難題をふきかけて、出発を後らせている次第でしてね」
「軍士や医師のことですね」
「いかにも。私は真にそういうのがほしくて、願い出ているわけではございません」
「私、……」
源氏は膝を一歩進めた。
「その坂東の小次郎という男が、根からの悪人には思えませんでして」
「ほう、現職の宰相殿のお口から、そのようなお言葉が出るとは。しかし宮中では慎まれた方が……」
「心得ています。伯父上だからこそ申し上げるのです。私は本日、一人の甥として私事で参上したと申し上げたはず」
右衛門権佐はゆっくりうなずいた。
「かの小次郎が武蔵の国府を襲った発端というのも、今では逃げ帰った武蔵介六孫王殿の勘違いと判明しておりますし、坂東は一応平穏になっております。そこへ推問使などが派遣されては、せっかく鎮まりかけた火に油を注ぐようなもの。摂政殿は何を考えておられるやら、坂東がそんなにも恐ろしいのでござろうかのう」
またひとつ、右衛門権佐はため息をついた。源氏は少し目を伏せてから、すぐに顔を上げた。
「摂政殿下は実は、小次郎を信用しておられます。何しろ御教書も出されたようですし、第一もともとが小次郎は摂政のお屋敷の郎党だったといいますし。ですから、軍士などを一切、却下されたのですよ。
「いずれにせよ、御免被りたいな」
力弱く笑ってから、右兵衛権佐は目を伏せた。伯父の心はよく分かる。源氏は地方において国司がいかに民衆からの搾取によって腹を膨らませているかを、自分の目で見てきている。都にいたならば、絶対に見えない実情だ。尾張で国司が射殺されたこととて非は国司の方にあり、理は民衆の方にあるに決まっている。
元服した頃の若い源氏がもしその状況をその時に知ったとしたら、彼はそのことを朗々と論じ立てたであろう。しかし彼は今、自分の立場をわきまえている。決して言えない。言えないだけではなく、国司に非があるなどとは考えてもいけないことなのだ。国司とは地方における、朝廷の代行者なのだから…。
「この話はやめましょう」
わざと明るくふるまって、源氏は顔を上げた。伯父もうなずいた。
「うん。せっかくの肉親の久方の対面なのですから、そう、酒でも」
伯父は手を打った。酒肴が運ばれた。源氏にとって数少ない肉親が目の前にいる。それとともに飲む酒はうまかった。
しばらく明石入道の話などしていたが、自然と話題は明石の姫君のことに及び、源氏はいきさつのすべてを打ち明けた。
「そうでござるか。お腹にややが……」
「生まれましたなら、一日も早く都に引きとりたいのですが…」
伯父は少し何かを考えていた。やがて目を上げた。
「このようなくすんだ都で育てるより、明石の浦の潮の香りの中で生い立ってもらったほうがいいのでは?」
源氏はうなってしまった。それも一理ある。しかし、いつまでも明石に姫とこれから生まれ子を残していたら、姫への愛情が明石一族に疑われるのではないかとも思う。
「弟が播磨守となり、そのまま任地に居つくと聞いた時に、まだ幼かった姫のことを案じましたが、今となってはよかったのかもと思いますよ。だいいちそのお蔭で、光の君様とのご縁もあったわけですから」
「そう言えば」
あることを思い出して、源氏はまた身を乗り出した。
「明石入道殿には、この都に御子息、つまり姫の兄君がおられるはず」
「はい、おりますが」
「今は?」
「さあ、どこかのお屋敷の家人でもしているのでは」
源氏は明石入道から官職と名は聞いていたのでその職へ行って問い合わせてみたが、もうすでにその職にはいないとのことだった。源氏は右衛門権佐にもその旨を告げて、そして言った。
「できれば、わが二条邸の家司としてお迎え致したいのですが。しかし、それはとりあえずのことで、何といっても姫の兄ですから行くは宮仕えの道も何とか」
伯父はただ、小首を傾げるだけだった。
「私に言われましても…」
確かに
伯父右兵衛権佐と明石の話をしたからか、源氏はその晩久方ぶりに明石の夢を見た。
そして数日後、宮中より左近衛権少将を使いとしてまた召しがあった。このたび召されたのは、新任の参議四人だけだった。
宮中で伝えられた仰せの内容は、来たる新嘗祭の
新嘗祭は十一月の二の卯の日に行われるが、その翌日の
普通その舞姫は公卿から二人、国司から二人となっているが、今年は特別にその四人ともを新任参議に割り当ててくれるという。
新任者としては晴舞台で、ありがたき仰せに四人とも畏まっていたが、頭を下げながらも源氏は困っていた。まずは娘を出すのが普通である。しかし源氏には姫はいない。仕方がないので縁者の娘、それでもだめなら家人の娘を一時養女にして出すしかない。しかし今の源氏には、目ぼしい目当てが思い当たらなかった。
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