右中将の屋敷を小野宮邸というのは、もともとはかつて小野宮と呼はれた不遇の皇子惟喬これたか親王の邸宅であったからだが、その西ノ対屋たいのやに源氏の妻がいる。しかし彼はその西ノ対屋ではなく、寝殿で舅である右中将……正確には右近衛権中将このえごんのちゅうじょう……と対座していた。時に右中将……三十一歳であった。

「私、まだ弱輩者ではありますが官人の端くれ、今回の落雷については無関心ではいられません」

 酒肴も運ばれ少し酔い心地になった頃に、源氏は話題をそのことに切り換えた。ほんの少し、右中将の眉墨が動いた。だがそれ以上は、さすがに彼は露骨には言えなかった。源氏とて左大臣家の一員なのである。

「父上のお噂でござるか」

 右中将も勘が鋭い。自分の女婿の来意を、とうに察知していたようだ。源氏はそれでも躊躇して黙っていたが、右中将はひとしきり笑った。

「父の立場からすれは、致し方のないことでござろう」

 右中将は自分より十三、四歳は年下の娘婿にも、丁重な言葉を使う。舅づらはできない。自らは臣下、相手は臣籍に降っているとはいえ帝の皇子だ。賜妊源氏でも一世のうちは、世間での扱いも親王となんら変わりはないからだ。

 源氏は黙ったまま、右中将の白い笑顔を見ていた。舅の言い分も分かる。分かったつもりでいた。それだけにこの来訪は、無駄足だったのかとも思った。一刻も早く、彼は退散したくなった。手に汗が滲む。舅と左大臣は親子、所詮同じ穴のむじなだったのだ。

「源氏の君様。父はああでもしなければ、左大臣としての力も振るえぬのでござってのう。火雷天神のお名前を父が出されたそうだが、その天神様をあのような目に遭わせた張本人のひとりが、今回亡くなった大納言殿であったことは、こ存じでありましたかな?」

「あ、いえ」

 知らなくて当然だ。

 源氏の生まれる前の出来事である。

「政治とはそのようなもの。まろが何ゆえにこの年で、いまだ右近中将の地位に甘んじているか、お考えになったことがおありかな?」

 そのようなことを考えたことは、確かになかった。右中将は四年前に蔵人になり、一昨年に右近中将になった。エリートコースといえはいえるが、年齢的には遅すぎる。

「父上とて、大納言から右大臣になられるまで一年半、しかもそれまで右大臣は空席であったにもかかわらすだ。それに右大臣から左大臣までは十年! 十年でござるぞ」

「はあ」

 弱い声を源氏は発した。舅のあまりの迫力に押されて、という感じだった。

「帝のなされようは……いったい……」

「お言葉ではございますが」

 やっと源氏は、力強く言って顔を上げた。

「帝は、私の父でございます」

 右中将は明らかに狼狽し、ばつが悪そうに頭をかいた。

「いや、これは悪しう申してしまった。ご勘弁あれ。まろが申したかったのは帝の御事ではなく……」

「あ、いえ、こちらこそ出すぎたことを」

 互いに狼狽し合う婿と舅の間に、気まずい空気が流れた。そんな中でも源氏は……分からない……と、心の中でつぶやいていた。政治の世界が、そして大人の世界が……彼はまだそんな悩みの中にいる青年だった。

 ただひとつ分かったのは、左大臣は父帝に疎んじられていたこと、そして父と左大臣の間に、今の自分は位置することだった。それなのに父は、自分に対しては慈愛に満ちている。だが、自分が左大臣家の婿となったのは、その父の命だった。

 やはり分からない……彼はその疑惑をぶつける相手を、どこにも持っていなかった。

「源氏の君様」

 再び黙る源氏に、右中将は不意に言葉をかけた。

「今日は娘の所に、泊まっていってくださろうな」

 それは、源氏の意志の中にはないことだった。それでも舅の前で、あからさまに拒否することもできない。

「あいつもかわいそうなやつでな」

 右中将の娘……自分の妻がかわいそう……? なぜ……と聞きかけて、源氏は口をつぐんだ。右中将の顔に、失言を悔いる表情を見たからだった。


 ゆっくりと渡廊を歩いて、源氏は妻のいる西ノ対屋へと向かった。紙燭を持った家司の女房が、その前を先導している。やがて対屋に着くと妻戸の外で女房は中へと声をかけた。

「源氏の君様、お渡りでございます」

 すでに夜、すべての格子は下ろされていた。

 中からは、何の返事もなかった。女房が妻戸を開く。源氏が入ると、妻戸は外から閉じられた。中は暗闇だ。室内の女房があわてて大殿油おおとなぶらを点じる。その明かりの中、妻……右中将の一の君が几帳の中にいるのが認められた。まだ休んではいなかったようだ。

 源氏は几帳のそばに寄った。

「ご機嫌よう」

 やはり返事はなかった。普通なら、「お帰りなさい」の声が返ってくるものだ。それが世間一般の夫婦だということくらい、源氏とて知っている。

 源氏は几帳を払った。たちまち妻は、扇で顔を隠した。もはや女房たちは退いていて、室内にはふたりの他には誰もいなかった。

 いつものことながら、今宵ばかりは源氏はムッとした。結婚してから一年半、その間夫婦とは形ばかりで、実質的関係はまだないのである。

 不自然だった。妻は自分を嫌っているのかとも思ったが、しかしそうでもなさそうなのだ。ただひたすら怯え、はにかみ、身を硬くするだけだった。

 舅の手前、時々は通って来ざるを得ない。しかし妻と実はこのような不自然な関係であることは、無論舅には言ってはいない。語り合うこともなく、ただ黙って同室で別々に寝て、朝になったら退出するだけの通い婚だ。源氏とて十七歳。男としての欲望は、もう一人前になっている。それでも妻は源氏へ。自分に指一本触れさせなかった。

 限界だと、源氏は思った。そしてこの日ばかりは逆上した。元服してからも一年半、急に彼を襲った政治の世界……そして大人の世界。

「今宵はもう、今までとは違うのだ!」

 源氏は叫んだ。はじめて垣間見た泥々した世界へのいらだちが、彼の欲望爆発の導火線となった。

 源氏の手が伸びて、妻を抱きしめる。

「やめてください!」

 妻は激しく抵抗した。はとんど強姦に近かった。

 ますはうちぎ単衣ひとえは、難なく剥ぐことができた。その下に紅袴は着けてはいるが、乳房も透けて見える小袖だけの裸姿に妻はなった。大殿油は点じられたままだった。

「そなたは妻じゃないか。私は夫なんだぞ」

 そのひとことで、源氏は不自然な関係に終止符を打つつもりでいた。結婚一年半目の、異常な初夜だった。女は唇をかみしめて、必死に何かに耐えようとしているようだ。そしてその頬に、一筋の涙を源氏は見た。源氏ははっとする思いだった。

 考えてみればこの女は一年半前、自分の知らない間に妻になっていた。元服と同時に三つほど年下の、まだほとんど子供に近いこの女が妻であることを、父である帝に言い渡されたことを彼は思い出した。左大臣も舅の右中将も承知の上のことであったようだった。

 源氏は一時だけ手を止めたが、再び妻の涙を見てついに切れた。指をただ欲望のままに動かした。紅袴の紐を解く。まず前の紐、そして後ろの紐……あとは小袖の裾をまくり上げるだけだ。生まれてはじめて見る秘境が、そこにあった。源氏はすぐに口をつけ、それを吸った。

「やめて…やめて…恥すかしい…」

 妻の声が小さくなった。

 こうなるのは運命だったのだ。そう思いながら源氏は、愛撫を続けた。もはや女の抵抗は、全くなくなっていた。もしずっと拒み続けていたら、紅袴は容易にとれるものではない。それなのにはじめはなぜあんなに拒んだのか。そしてあの涙は……?

 源氏は女陰からも、政治の臭いをかいだ。

 婚礼の三日通いの間も、彼女との関係はなかった。乳母めのとに教えられたとおりにしようとした源氏を、彼女は激しく肘で打った。仕方なくただ並んで寝ただけで、三日目の露顕ところあらわしの日にともに餅を食べた。その時も彼女は源氏に、視線すら合わせてはくれなかった。

 それ以来彼は小野宮家の婿として、この屋敷に時々通って来なくてはならない身の上となった。そしてそれは彼にとって、苦痛以外の何ものでもなかった。

 一度だけ母に、その苦痛を訴えたことがあった。もちろん拭況をありのままに伝えたわけではなかったが、それでも母は言った。

「夫婦というのは、前世の因縁で決められるものです。それにあなたが通うのをやめてしまったら小野宮家も左大臣家も、両目がまるつぶれになってしまうではありませんか」

 それが大人の世界……吐き気がするはど嫌悪を感じる……しかし今やその嫌悪感が、彼を一人の女に向かわせていた。

 源氏は今度は自分の直衣のうしを、どう脱いだらよいのか分からずに焦った。いつもなら女房たちが、衣替えをしてくれるのだ。とにかく手当たりだい紐をひっぱっていたら、どうにか脱ぐことができた。指貫さしぬきの足首を結んだ紐はそのままで、充分に変化していた自分を彼は妻のものへと当てがった。

 途切れがちの声が、妻から上がった。このとき彼は妻の顔に、はっきりと諦観の表情が表れているのを見た。

「痛い! 痛い!」

 源氏が中に入るにつれ、妻は叫びをあげた。それでもおかまいなしに源氏はつき進み、名実ともに二人は夫婦になり、源氏は大人になっていった。


 翌朝源氏は、昨夜の直衣姿に復するのに窮していたら、女房たちがやって来てたちまち着付けをしてくれた。

 出て行く夫を妻は、帳台の中から出もせず、全く無言のままで見送りもしなかった。女房たちだけが一斉に頭を下げた。

「行ってらっしゃいまし」

 どんなに多くの女房にそう言われても、妻のひとことがなければどうにも後味が悪い。帰りの車の中で源氏の脳裏を飛来していたのは、昨夜の妻の涙、そして諦観の表情……。

 二条邸に戻ると、彼はいつものように形だけの後朝きぬぎぬふみを遣わした。


  つゆばかり たのむ心はなけれども

    たれとかかれる われならなくに


 このような歌を送ったところで、今までは返歌が来たためしはなかった。ところがこの日は、小野宮邸と二条邸は目と鼻の先だが、それにしてもあまりにも早くに返歌が届けられた。

 

  かくしつつ 月日を経ぬる世の中に

    ありがたき身を われいかにせん

 

分からない女だと、源氏はつぶやいた。

「申し上げます」

 簀子すのこの方で室内に向かって、激しく言いかける者があった。この二条邸の家人けにんだった。

「何ごとかね」

「今、宮中より知らせが参りました。帝におかせられましては、昨日より呟病を煩いあそばされておられるとのことでございます」

「呟病?」

 源氏はとりあえず、妻からの文をたたんだ。

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