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右中将の屋敷を小野宮邸というのは、もともとはかつて小野宮と呼はれた不遇の皇子
「私、まだ弱輩者ではありますが官人の端くれ、今回の落雷については無関心ではいられません」
酒肴も運ばれ少し酔い心地になった頃に、源氏は話題をそのことに切り換えた。ほんの少し、右中将の眉墨が動いた。だがそれ以上は、さすがに彼は露骨には言えなかった。源氏とて左大臣家の一員なのである。
「父上のお噂でござるか」
右中将も勘が鋭い。自分の女婿の来意を、とうに察知していたようだ。源氏はそれでも躊躇して黙っていたが、右中将はひとしきり笑った。
「父の立場からすれは、致し方のないことでござろう」
右中将は自分より十三、四歳は年下の娘婿にも、丁重な言葉を使う。舅づらはできない。自らは臣下、相手は臣籍に降っているとはいえ帝の皇子だ。賜妊源氏でも一世のうちは、世間での扱いも親王となんら変わりはないからだ。
源氏は黙ったまま、右中将の白い笑顔を見ていた。舅の言い分も分かる。分かったつもりでいた。それだけにこの来訪は、無駄足だったのかとも思った。一刻も早く、彼は退散したくなった。手に汗が滲む。舅と左大臣は親子、所詮同じ穴のむじなだったのだ。
「源氏の君様。父はああでもしなければ、左大臣としての力も振るえぬのでござってのう。火雷天神のお名前を父が出されたそうだが、その天神様をあのような目に遭わせた張本人のひとりが、今回亡くなった大納言殿であったことは、こ存じでありましたかな?」
「あ、いえ」
知らなくて当然だ。
源氏の生まれる前の出来事である。
「政治とはそのようなもの。まろが何ゆえにこの年で、いまだ右近中将の地位に甘んじているか、お考えになったことがおありかな?」
そのようなことを考えたことは、確かになかった。右中将は四年前に蔵人になり、一昨年に右近中将になった。エリートコースといえはいえるが、年齢的には遅すぎる。
「父上とて、大納言から右大臣になられるまで一年半、しかもそれまで右大臣は空席であったにもかかわらすだ。それに右大臣から左大臣までは十年! 十年でござるぞ」
「はあ」
弱い声を源氏は発した。舅のあまりの迫力に押されて、という感じだった。
「帝のなされようは……いったい……」
「お言葉ではございますが」
やっと源氏は、力強く言って顔を上げた。
「帝は、私の父でございます」
右中将は明らかに狼狽し、ばつが悪そうに頭をかいた。
「いや、これは悪しう申してしまった。ご勘弁あれ。まろが申したかったのは帝の御事ではなく……」
「あ、いえ、こちらこそ出すぎたことを」
互いに狼狽し合う婿と舅の間に、気まずい空気が流れた。そんな中でも源氏は……分からない……と、心の中でつぶやいていた。政治の世界が、そして大人の世界が……彼はまだそんな悩みの中にいる青年だった。
ただひとつ分かったのは、左大臣は父帝に疎んじられていたこと、そして父と左大臣の間に、今の自分は位置することだった。それなのに父は、自分に対しては慈愛に満ちている。だが、自分が左大臣家の婿となったのは、その父の命だった。
やはり分からない……彼はその疑惑をぶつける相手を、どこにも持っていなかった。
「源氏の君様」
再び黙る源氏に、右中将は不意に言葉をかけた。
「今日は娘の所に、泊まっていってくださろうな」
それは、源氏の意志の中にはないことだった。それでも舅の前で、あからさまに拒否することもできない。
「あいつもかわいそうなやつでな」
右中将の娘……自分の妻がかわいそう……? なぜ……と聞きかけて、源氏は口をつぐんだ。右中将の顔に、失言を悔いる表情を見たからだった。
ゆっくりと渡廊を歩いて、源氏は妻のいる西ノ対屋へと向かった。紙燭を持った家司の女房が、その前を先導している。やがて対屋に着くと妻戸の外で女房は中へと声をかけた。
「源氏の君様、お渡りでございます」
すでに夜、すべての格子は下ろされていた。
中からは、何の返事もなかった。女房が妻戸を開く。源氏が入ると、妻戸は外から閉じられた。中は暗闇だ。室内の女房があわてて
源氏は几帳のそばに寄った。
「ご機嫌よう」
やはり返事はなかった。普通なら、「お帰りなさい」の声が返ってくるものだ。それが世間一般の夫婦だということくらい、源氏とて知っている。
源氏は几帳を払った。たちまち妻は、扇で顔を隠した。もはや女房たちは退いていて、室内にはふたりの他には誰もいなかった。
いつものことながら、今宵ばかりは源氏はムッとした。結婚してから一年半、その間夫婦とは形ばかりで、実質的関係はまだないのである。
不自然だった。妻は自分を嫌っているのかとも思ったが、しかしそうでもなさそうなのだ。ただひたすら怯え、はにかみ、身を硬くするだけだった。
舅の手前、時々は通って来ざるを得ない。しかし妻と実はこのような不自然な関係であることは、無論舅には言ってはいない。語り合うこともなく、ただ黙って同室で別々に寝て、朝になったら退出するだけの通い婚だ。源氏とて十七歳。男としての欲望は、もう一人前になっている。それでも妻は源氏へ。自分に指一本触れさせなかった。
限界だと、源氏は思った。そしてこの日ばかりは逆上した。元服してからも一年半、急に彼を襲った政治の世界……そして大人の世界。
「今宵はもう、今までとは違うのだ!」
源氏は叫んだ。はじめて垣間見た泥々した世界へのいらだちが、彼の欲望爆発の導火線となった。
源氏の手が伸びて、妻を抱きしめる。
「やめてください!」
妻は激しく抵抗した。はとんど強姦に近かった。
ますは
「そなたは妻じゃないか。私は夫なんだぞ」
そのひとことで、源氏は不自然な関係に終止符を打つつもりでいた。結婚一年半目の、異常な初夜だった。女は唇をかみしめて、必死に何かに耐えようとしているようだ。そしてその頬に、一筋の涙を源氏は見た。源氏ははっとする思いだった。
考えてみればこの女は一年半前、自分の知らない間に妻になっていた。元服と同時に三つほど年下の、まだほとんど子供に近いこの女が妻であることを、父である帝に言い渡されたことを彼は思い出した。左大臣も舅の右中将も承知の上のことであったようだった。
源氏は一時だけ手を止めたが、再び妻の涙を見てついに切れた。指をただ欲望のままに動かした。紅袴の紐を解く。まず前の紐、そして後ろの紐……あとは小袖の裾をまくり上げるだけだ。生まれてはじめて見る秘境が、そこにあった。源氏はすぐに口をつけ、それを吸った。
「やめて…やめて…恥すかしい…」
妻の声が小さくなった。
こうなるのは運命だったのだ。そう思いながら源氏は、愛撫を続けた。もはや女の抵抗は、全くなくなっていた。もしずっと拒み続けていたら、紅袴は容易にとれるものではない。それなのにはじめはなぜあんなに拒んだのか。そしてあの涙は……?
源氏は女陰からも、政治の臭いをかいだ。
婚礼の三日通いの間も、彼女との関係はなかった。
それ以来彼は小野宮家の婿として、この屋敷に時々通って来なくてはならない身の上となった。そしてそれは彼にとって、苦痛以外の何ものでもなかった。
一度だけ母に、その苦痛を訴えたことがあった。もちろん拭況をありのままに伝えたわけではなかったが、それでも母は言った。
「夫婦というのは、前世の因縁で決められるものです。それにあなたが通うのをやめてしまったら小野宮家も左大臣家も、両目がまるつぶれになってしまうではありませんか」
それが大人の世界……吐き気がするはど嫌悪を感じる……しかし今やその嫌悪感が、彼を一人の女に向かわせていた。
源氏は今度は自分の
途切れがちの声が、妻から上がった。このとき彼は妻の顔に、はっきりと諦観の表情が表れているのを見た。
「痛い! 痛い!」
源氏が中に入るにつれ、妻は叫びをあげた。それでもおかまいなしに源氏はつき進み、名実ともに二人は夫婦になり、源氏は大人になっていった。
翌朝源氏は、昨夜の直衣姿に復するのに窮していたら、女房たちがやって来てたちまち着付けをしてくれた。
出て行く夫を妻は、帳台の中から出もせず、全く無言のままで見送りもしなかった。女房たちだけが一斉に頭を下げた。
「行ってらっしゃいまし」
どんなに多くの女房にそう言われても、妻のひとことがなければどうにも後味が悪い。帰りの車の中で源氏の脳裏を飛来していたのは、昨夜の妻の涙、そして諦観の表情……。
二条邸に戻ると、彼はいつものように形だけの
つゆばかり たのむ心はなけれども
たれとかかれる われならなくに
このような歌を送ったところで、今までは返歌が来たためしはなかった。ところがこの日は、小野宮邸と二条邸は目と鼻の先だが、それにしてもあまりにも早くに返歌が届けられた。
かくしつつ 月日を経ぬる世の中に
ありがたき身を われいかにせん
分からない女だと、源氏はつぶやいた。
「申し上げます」
「何ごとかね」
「今、宮中より知らせが参りました。帝におかせられましては、昨日より呟病を煩いあそばされておられるとのことでございます」
「呟病?」
源氏はとりあえず、妻からの文をたたんだ。
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