翌日はまた少し御堂の方に顔を出してからそのまま都へ帰るつもりだったので、源氏はかなり日が高くなるまで寝ていた。そして昼頃に遅い朝餉を取っていると、御堂の方からけたたましい馬の駒音が響いてきた。

「申し上げます!」

 庭先から源氏の家人が、対の屋に声をかけた。源氏はここに連れてきた家司や郎党および随身はほとんど御堂の方に残し、ほんのわずかの供回りだけで山荘に来ていたのである。

「殿上のお役人方が御堂の方へ、光の君様をお迎えに参上しております」

「誰の使いかね」

「左衛門督殿と頭中将殿とか」

「こりゃ、まずい!」

 源氏は立ち上がり、急いで直衣のいでたちを直した。

「しみじみとした別れも言えなくなったよ」

 姫には、それだけを言っておいた。

「そんな。別れでございませんでしょう」

 そして源氏に向かって座り直した。

「いってらっしゃいませ」

 妻らしくそう言う。

 姫は強い。強くなったと源氏は思う。気位は昔から高かったが、状況を踏まえての芯の強さはなかった。もし西ノ対の上がこの立場だったら、「またあてもなく待つ日が続くのですね」くらいの皮肉は言うだろう……いやいや、比べるのはいけない。そう思って源氏はとにかく仕度を急いだ。

「行ってくる」

 姫にそのひと言を残して、源氏は車に乗り込んだ。

 何しろ相手が悪い。本院中納言左金吾、それに小一条の頭中将……どちらも表立ってはいないが、源氏のひそかな政敵である。さらには、源氏は仏事を理由に休暇を請うたのに、その源氏が寺にいなかったとなるとまずい。

 さらに源氏は、今日が弘徽殿大后の六十を賀する御読経みどきょうの日であったことを思い出した。源氏はもちろん何か障りを申して出ないつもりでいたが、恐らくあの二人はそれを咎める使いをこの嵯峨野まで遣わしたのであろう。

 寺に着くと源氏は裏門から入り、庫裏にいた使者の前に出た。

「待たせてすまない。僧たちと詮方なき用があってね、抜けられなかったんだ」

「実は」

 使いの蔵人たちが話し始めた内容は、源氏の予想した通りであった。

「それでお二方とも、不快のご様子だというわけだね」

「ええ。源氏の君様、都にお戻りになられますか」

「仕方ないだろう。戻りたくはないが」

「戻られることはないですよ」

「え?」

 源氏は耳を疑った。

「そなたたち、私を連れに来たのではなかったのかね」

「確かにそうですが、でも意向はお伝えしましたから、もう役目は終わりです」

 蔵人たちは意味ありげににやりと笑った。左金吾たちからは、命じられたので仕方なく来たという手合いらしい。

「で、戻ることはないとは?」

「実は今日は十三夜ですからね。その宴を桂の院でということで、公卿の多くはそちらに集まるでしょう」

「しかし、大后様の……」

「大丈夫なんですよ。関白様のお許しは頂いておりますし、大后様のために都に残りますのは本院の御族と小野宮右大臣殿の御族ばかりでして」

 源氏もまたにやっと笑った。あの絵合えあわせの組み合わせが、都での弘徽殿大后の六十賀と桂の院での十三夜の宴で再現される。

 源氏はもはや都に戻る必要はない。それにしても関白が大后の六十賀御読経の当日に十三夜の宴を許すなど、大后の影響力も地に落ちたものである。これでは公認の集団すっぽかしだ。九条大納言も桂にいるはずである。

 おもしろい……と、源氏は思った。対の上には今日戻ると言ってあるが、一日延びたとて急に斧の柄は腐るまい。

「で、そなたたちは?」

「もちろん、桂に参ります」

 命ぜられて来たとはいえ、この蔵人たちは左金吾や頭中将とは上司と部下ではあっても主従関係でも何でもない。まだ封建的主従関係はない時代だ。忠義を尽くす必要はない。

「よし」

 源氏は立ち上がった。

「桂へ行こう」

 蔵人たちの顔も輝いた。


 桂は大井の山荘から目と鼻の先で、山荘の下を流れていた川を下流に少し下った所にある。

 その川が桂の院の庭の一部を洗い、天然の川縁に群臣たちはすでに居並んで杯を回していた。もう、日もとっぷりと暮れていて、もう少しで満月になる月もすでに都の向こうの山の上に昇っていた。

 その席にはやはり当然のことながら九条大納言もいた。

「おお、月に桂、そして光の君様のお出ましだ。輝く宴となりましょうぞ」

 源氏の到着に人々はどっと沸いた。だが源氏は今日に限って大納言が西ノ対の上の父親であることが妙に意識され、何となくばつの悪さを感じていた。

 篝火の中で管弦が催され、ここでも源氏はお得意の琵琶を披露し、大納言が琴を合わせた。川風がそれに溶け込み、歌舞も出て、宮中の宴とは違うざっくばらんなおもしろさがあった。

 宴は進む。酔いの中で興じながら、源氏はふと今朝までいた大井の山荘を思った。それほど離れてはいないので、この楽の音は山荘にも聞こえているかもしれない。そう思うと、源氏は胸が締め付けられる思いであった。

 東宮の十四宮からのお文も披露された。自分も行きたいのだがそうもいかない、皆がうらやましい――という旨が、見事な文体の漢文で書かれていた。

 いつしか夜も更けていった。宴はいつもでも続いていた。

 源氏の中でようやく西国の海賊騒ぎも収束した。ここ数年都をかき乱していた東西の戦乱ももはや完全に終わって、本当に心からの久方ぶりの雅を源氏はかみしめていた。


 翌朝、人々は宴の後の静けさと寂しさを残し、それぞれ都へと戻っていった。源氏はまた山荘に戻りたかったが、あえて自分を抑えて随身に守られながら急いで都への道をとった。

 やはり西ノ対の上は機嫌が悪かった。だが、明石の姫のもとから直接戻ったのではなく、桂の宴という一段落がその間に入っていることで、源氏は自らの心の整理をつけることができた。

「あの好き者たちの桂の宴のせいなんだよ。私だってあなたを思って心苦しかったのだから」

「それなら、文の一通も下さったらいいじゃないですか」

「そういう状況ではなったのだよ。分かってくれないか」

 妻はまだすねている。源氏物語はほとほと因ってしまったが、またそれがかわいくて仕方がないのも事実だった。さんざんすねるだけすねて源氏を困らせた妻だったが、その源氏の困っている顔をのぞきこんでやっと笑った。すべてがわざとだったのだ。

 その日は夜から宮中で宿直とのいの予定だったので出仕もせず、源氏は西ノ対で一日妻の相手をしていた。

「今日は宿直もやめにするから」

 本当に源氏は宮中に使いを出して、病と称して宿直を断った。夕刻になって、源氏が西ノ対に戻ってすぐに出しておいた明石の姫への文の返事が来た。

 しかも使いはわざわざ西ノ対の庭先まで持ってきたから、西ノ対の女房たちの顰蹙ひんしゅくを買った。

 源氏にも聞こえる声で露骨に女房たちは、その使いに嫌味を言う。しかしそれが自分に向けられた嫌味である事は、源氏にははっきり分かっていた。

 文を読まないでいるのもおかしな状況なので、源氏は端近の廂の間でそれを読んだ。文の中身は、差し障りのない内容だった。

「さあ、見てこらん。読まれて困るようなことは何も書かれていないよ」

 そう言われても妻は、またすねて顔を背けるばかりであった。

「破いてもいいよ。それで気が済むならね」

 源氏は文を妻のそばに置くと、自分は座について脇息によりかかって黙った。妻も全く身動きをしない。

「見ていないふりをして、ちらちらと見てるじゃないか。やはり気になるのだろう」

 源氏は声をあげて笑った。女にとっては残酷な笑いであることは分かっていたが、あえて彼は笑った。今はすねてむつかっていても、この女は自分の一部である。時がたてばけろっとすることも、彼は分かっていたからだ。


 十三夜の宴のことはさすがに小野宮右大臣も黙ってはおらず、宮中で物議がかもされた。そのきっかけは宴から二日後の満月の夜に皆既月食が起こったことで、この年になってから二度目であった。もっとも天文博士と通じている一部の人たちはあらかじめ聞かされてはいたが、そうでない人々は知らずに眠っていただろう。三月の時と違って今回は丑の刻から寅の刻にかけての月食だったからだ。

 それ以来、宮中ではろくなことがなかった。狐の大群が夜に左近の陣に群れていたりしたのもその一つだ。

 そして、十三夜の宴の許可を与えた関白太政大臣が病の床に伏せってしまったので、あの晩桂に集まった人々は禁忌を犯した罰と誰もが恐れた。恐れていないのは九条大納言と源氏、そして当の関白本人であった。関白太政大臣は自分の重病が天罰などではなく政敵による呪詛の結果と考え、五十人を出家させて僧として仏に奉り、また十六ケ所の寺で病平癒祈願の諷誦ふうじゅをさせた。

 結果は太政大臣が勝った。病は快方に向かった。


 その頃源氏が御堂の念仏会で嵯峨野に赴き、姫のいる山荘に泊まったが、ちょうど松林を見下ろす小倉山も対岸の嵐山も紅葉の綿を着飾っており、普段は寂しい嵯峨の里も風流人のそぞろ歩きでにぎわう頃となっていた。

 紅葉も終わって本格的な冬が訪れた頃、宮中は新嘗祭の季節となっていた。

 源氏は公務が忙しく、休日返上の出仕もしばしばであった。当然、大井へ行く口実の月二同の御堂での念仏会も、参列がままならぬ状況となっていた。


 だが、東宮が立坊して初めてのその新嘗祭で不祥事が起こった。

 人々は今までの東宮空席に慣れてしまっていて、東宮倚子を立てるを忘れてしまったのである。

 公卿たちは目くじらを立てていた。それでも何とか儀式は進み、豊明とよあかり節会せちえも済んで退出しようとした源氏を、九条大納言がつかまえた。

「何だか嵯峨の御堂で行いに励んでるようだね」

 源氏はただ苦笑しただけであった。

「驚いたよ。君にそんな道心があったなんてね。月に二回も出かけていってるっていうじゃないか」

「行く末にいささか煩うこともあるものでね」

「おいおい、突然形を変えてわが邸に現れたりしないでくれよ」

「分からんぞ」

 二人はともに笑みを交わして分かれた。

 勘が鋭いはずの大納言ではあるが、今度ばかりはさらりとだまされている。しかし今はまだ、彼には姫のことは言えない。ただ、宰相民部卿修理大夫にだけは、世話になったこともあって源氏はすべてを打ち明けていた。


 冬になって枇杷左大臣の七十賀も催された。左大臣には息子がおらす娘しかいなかったので、少々こぢんまりとした宴であった。

 源氏はそんなおおやけの行事の合間でも、大井の山荘が気になって仕方がなかった。あの時は紅葉はまだであったが、今はとっくに散っている。それなのにあれ以来、嵯峨の御堂の月二回の念仏会にかこつけてしか大井に行くことはできない。すなわち、半月に一度の渡りだ。

 それさえ公務が立て込めば見送ることになることもある。それでも姫は恨みを言うでもなく、かえってそのことが源氏の心を締め付けていた。


(つづく)

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