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まどろみの中で、源氏は潮騒の音を聞いたような気がした。そのまま小袖だけを引っ掛けて床を抜け出して端近まで行った源氏は、格子を内側から少し押した。
朝の光と空気が一斉に室内へと流れ込み、姫もそれで目を覚ましたようであった。
源氏は西ノ対の西廂から見える景色に目を細めた。
この山荘には西門がない。西ノ対の外は少しばかりの松林越しに崖となって、大井川まで空間が広がっている。
いつのまにか姫も小袖を羽絶って手で前をおさえ、源氏の脇にきていた。川はちょうど堰に流れをせき止められているその上流部分で、池のように満々と濃緑色の水をたたえていた。目と同じ高さの対岸の嵐山は、まるで垂直の壁のように中天までそびえている。
「久々に明石の夢を見たよ。波の音と千鳥の声で目が覚めたような気がしたんだ」
「私も」
姫は源氏を見た。
「私も明石を離れて山深い尼寺に住んで久しくなりますし、もう明石を思うこともなくなっておりましたのに」
明石という地は、二人にとって共通の接点となる思い出の地なのである。
風が吹いた。その風が松林を渡り梢を騒がせる。
「この風の音を千鳥の声と思うがいい」
「そうですね。この下の川は明石の海、川の向こうの山は淡路島……何だか心が慰められますわ」
「明石……もう二度と行くこともあるまい」
「私にとっても、父の屋敷も何もかもがもうありませんし」
「しかし、姫」
源氏は姫の方へ身体を向けた。格子が音をたてて閉まった。
「明石で巡り会ったあなたはここにいる。今は、それでいい」
二つの身体はまたぶつかり合い、溶け合った。
「ここも景色が素晴らしいいい所だけど、実は今私が住んでいる屋敷とは別に、高松邸という屋敷を新築したんだ。西ノ対にはあなたの父上と母上がいる。そして北ノ対は、あなたのために空けてあるんだ。一日も早くそちらに移ってはくれないか」
姫は静かに首を横に振った。
「もう少し、都に慣れましてから」
それももっともだと思ったのでもはや源氏は無理強いせず、その話題は出さなかった。
その日一日を源氏は、この大井の山荘で過ごした。彼にはやることも多かった。まずは庭の造作である。入道の意趣はそれはそれで洗練されたものであったが、源氏にはなお庭石のことが気になっていた。
「ま、長くいる所ではないからいいのだけれど、二条邸の家司に命じてもう少し手入れさせよう」
姫にそう言ってから背後を振り返ってみると、ここは小倉山の麓でもあったということにも気がついた。
「もうすぐ紅葉の頃だから、せめてそれまでここにいた方がいいかもしれないな。でも、その気になったらいつでも高松邸に移ってくるといい。私は、いつでも待っているよ」
そのようなことを話しながら昼が過ぎ、そのあと源氏は寝殿と東ノ対との間の渡殿の上に立って、
「あそこには?」
と、家司に尋ねると、
「入道殿の北の方様が……」
という答えだけが返ってきた。
「入道の北の方?」
「ええ、高倉邸から」
そうなると、先ほどからの自分の姿は、すべて見られていたことになる。源氏は小袖と袴の上に
「姫。母上がいらっしゃっているのかね」
「ええ。二、三日前からずっと。こ存じなかったのですか?」
「ああ」
「てっきりご存じだと思っていましたわ」
「知らないものだからご挨捲もせず、おまけにこんな姿でいるところを見られてしまったよ」
源氏は苦笑して、女房たちに命じて自分に直衣を着せさせた。それからあらためて東ノ対に渡り、簀子に座って御簾の中へと頭を下げながら声をかけた。
「おいでとは存じ上げず、ご無礼致しました。また、お見苦しいところをお見せしまして……」
御簾の中から聞こえてきたのは、愛想のいい笑い声であった。
「まあまあ光の君様ともあろうお方が、そのような所へ。中へお入りくださいませ」
言葉に甘えて、源氏は廂の間まで入った。北の方はそこへ出てきて、むしろ彼女の方が簀子へと座った。
「
「いいのですよ。あなた様とは身分が違いますから」
義理ではあるが肉親であるということで、北の方は物越しでもなく源氏に直接素顔を見せていた。
源氏はまた頭を下げた。
「こうして姫に会えましたのも、伯母上が神仏にお仕え下さっていた賜物だと存じております」
「いえいえ。光の君様の御徳に天が感じましてのことではございませぬか」
「そんな。ま、姫はまだしばらくここにいると申しておりますので、何とぞよろしう。ご不自由がございましたら、何なりとお申し付けください」
「かたじけのう存じます」
尼が頭を下げたあと源氏も丁重にその場を辞してそのまま外出し、釈迦堂の方へ行ってみた。そちらへの指図も、まだ足りないところがあるのを思い出したからである。そしてまた、夜になった。昨夜と違い、ゆっくり姫と語り合える夜だ。
「これを覚えておいでですか?」
姫が取り出してきたのは、まぎれもなくかつては源氏の所有物であった
源氏は、思わす目頭をおさえた。
「私と縁を切ったつもりだと言ったのは、やはり嘘だったのだね。こうして、この琴を……」
「嘘はお互い様。この琴の糸が狂わないうちにっておっしゃいましたのに……」
言葉でそう言っても、姫の笑みは源氏を責めているわけではないことを物語っていた。再会が延びたのは、確かに源氏のせいではない。
「聞かせてくれ。その琴の音を」
源氏に促されて響かせる爪音は、松林の中を嵐山の方から吹いてくる風の音と重なり、もう暗くなった嵯峨野に響きわたった。
琴の音が止まった。源氏が後ろから姫を抱きしめたからである。
「目を閉じてこらん」
姫は言われる通りにした。その耳元へ源氏は口をつけた。
「潮の香りが漂ってくるだろう? 千鳥の声も聞こえるだろう?」
姫は一つ一つの言葉に、黙ってうなずいていた。
「ここは明石なんだよ。山の院だ。何もかもあの晩のままだ」
姫が何か言おうとした。源氏は後ろからその唇に人差し指を立てた。
「今は何も言わないでおくれ。今はただこうして二人で、波の数を数えていたい」
沈黙の時間が経過した。
「でも、一つだけ変わったことがあるね」
と、源氏の方から沈黙を破った。
「え?」
姫は顔を上げた。
「あなたは美しくなった。あの頃よりずっと」
「まあ」
姫は顔を赤らめていたが、それは源氏の実感だった。明石にいた頃も田舎にはふさわしくない美しい姫であったが、その時は深窓の令嬢であった。それが今は辛酸を
源氏にはまだ今の状況が現実であるということが信じられずにいた。明石の姫が今確かに自分の腕の中にいる。まるで時間が逆行したかのように……、彼にはそれが不思議でならなかった。
源氏は灯火を吹き消した。
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