慶事は続く。

 ついに源氏の嵯峨の御堂が完成し、大覚寺の僧をも招いて華々しく落慶供養が営まれた。

「これでいつでも出家できる」

 笑いながらつぶやいた源氏の言葉に、家司たちは少しばかり顔色を変えた。

 暑い一日だった。空はどぎつく晴れてはいるが、あてにはならない。この盆地では一天にわかに掻き曇り、雷鳴が轟くということもしばしばあるからだ。先日も落雷で西ノ京の小さな屋敷が焼失した。それに加えて羽蟻が大量発生している。特に多いのが北野あたりで、北野――雷鳴となるとどうしても人々が想起してしまう目に見えないある存在がある。

 それに加えて源氏までおかしなことを言うので家司たちはぎょっとしたのだが、源氏は笑っていた。

「冗談だよ」

 境内にはこの土地の旧主である河原左大臣の供養塔も建てられた。かつて同じ河原左大臣の旧宅を故一院法皇が摂取されたとき、左大臣の亡霊が出たという。だからその二の舞にならないためでもあり、さらには河原左大臣の父、すなわち源氏にとっては父方と母方共通の祖である昔の帝の供養塔もお建て申し上げた。

 河原左大臣とゆかりのある源氏の伯父の右衛門佐と叔父の入道も、落慶供養に参列した。

「時に光の君様」

 供養のあとで叔父の入道は、源氏に声をかけてきた。

「わが大井の山荘の改修ですが、奇しくも近々完成致します」

「おお、ではやっと姫も上洛する気に」

「説得致しました」

 入道は頭を下げながら言う。源氏の顔はぱっと輝いた。

「そうですか。では早速にでもお迎えの手筈を。饗応などもいそぎせねば」

「そのことですが……」

 頭をあげて、きっぱりと入道は言った。

「お志はありがたいのですが、すべてこちらで整えますれば、源氏の君様は……」

 あとは言いにくそうに、入道は言葉を濁した。

 さもあろうと源氏は思った。何かの条件付で姫は上洛を承諾したのかもしれない。そしてその条件とは、自分と関係しているのでは……と、源氏はすぐに察した。

「分かりました」

 気分はよくはなかったが、源氏は引き下がるしかない。それでも源氏は、そのことが気になっていた。


 それから数日たって、山荘の修復が終わったという報告が、入道から源氏のもとへもたらされた。山荘を見に行ってみるか……そうは思ったものの、なかなか暇を作れない。そこで、まずは惟光を見に行かせた。

「いやあ、山荘などと称していますが、寝殿あり対の屋ありで、十分立派なお屋敷ですよ、あれは」

 報告している惟光までが興奮している。

「それがちょうど大堰川のせきの上流の、ほら、よく貴人たちが紅葉の時に舟遊びをされる所、あそこを見下ろす高台の上にあるのですよ。それもかなりの広さでして」

「そうか」

 自分が出費したのだからそれくらいのものを造ってもらわなければ困ると、報告を聞きながら源氏は思っていた。困るとはいっても、普通の人ならいらぬところにせっかくの財を使ってしまうであろう。しかし、あの叔父は違った。明石であれだけの屋敷を構えていた人だ。財の使い道を知っている。

 それだけでなく風流の心も持ち合わせている人で、そうでなければ明石の屋敷も、そして惟光の報告にあった山荘も造れるものではない。

 源氏は満足げに、目を細めた。

「ところで光の君様」

 急に惟光は声を落とし、刺すような口調となった。

「すでに、来ておりましたよ」

「来てたって、何がかね」

「明石の姫様ですよ。もうすでに山荘にお住まいでした。女房や家司は、高松邸にいた人たちでしたけどね」

「何だって?」

 源氏は思わず立ち上がった。

 しかし、すべてを入道に任せたのだから、文句は言えない。頃を見て入道からは、話してくるだろうと思いなおしてまた座った。

 それよりも源氏の胸は熱くなり、涙さえ流れた。あれほど安否を気にし、思い焦がれた人が、場所は嵯峨と遠くはあるが今現在同じ都の空の下にいるのである。

 源氏はすぐにでも馬を飛ばして行きたかった。若い頃の源氏であったら、そうしたであろう。しかし今は叔父の面子や、西ノ対の上の気持ちも考えねばならない。そして何よりも、姫君自身の気持ちもだ。

「そうか、ご苦労であった」

 すっかり頬を緩ませて、明るく輝く顔でうなずくだけに源氏はとどめた。ただ、今までと違ってもう今は、行こうと思えばいつでも行ける所に姫はいる。時を待とうと、源氏は思った。

 それでもその晩は胸の中に熱いものが何度もこみ上げてきて、とうとう朝まで源氏は眠れなかった。


 秋になって大暴風雨が都を襲い、鴨川が氾濫した。

 普投はおとなしいせせらぎが、いざ濁流の本流となると気が狂ったように暴れまわる。鴨川でさえこの状態だから大堰川は……と、源氏は宮中での執務中ながら気になっていた。惟光の報告によると姫のいる山荘は見晴らしのいい高台の上だというし、御堂も同じだから実質的被害はないはずである。

 だが、山荘は川のそばだともいう。慣れない都に上ってただでさえ心細かろうに、あの大嵐でどんなに精神的衝撃を受けたであろうかと思うと、源氏は公務どころではなくなっていた。

 もはや限界であった。次のの日には、源氏はもうどうしても大井を訪ねると決意した。だがその前に、避けて通れないことがある。

 西ノ対の妻には明石の姫の上洛はおろか、見つかったことすらまだ言っていない。二人の間に隠しごとがあってはならない仲でもあるし、それ以上にもしこのことが他を伝わって妻の耳に入ったらという恐怖感も源氏の心を暗くしていた。

 假の前の夜、源氏は西ノ対に渡った。そしてとこに入る前に、灯火もつけたまま二人で畳の上に座り、源氏は切りだした。

「実は、話があるんだ」

 女君の表情がこわばった。次の源氏の言葉までの間を、女がどれほど長く感じているかということも自然と伝わってくる。源氏は姫の手を取った。そのまま体を引き寄せ、見事な黒髪の中に源氏は自分の顔をうずめた。こうかおりと自然に発する盛りの女の香りが源氏に陶酔感をもたらし、源氏は妻の肩の上に頭をもたれかけさせた。

「どうしたのですか? 子供みたいに甘えて」

 妻は微笑みながら言った。源氏はくすっと笑った。

「おかしなもんだな。昔はお兄さま、お兄さまといって私に甘えていた少女に、今は私が甘えている」

「男はいつまでも子供なんですね。でも、女はそうはいかなくてよ」

「うん。それを見込んでの話だ。……実は嵯峨の釈迦堂が落慶したので、そのあとの毎月の普賢講に阿弥陀や釈迦の念仏三昧のことも定めなければならなくてね」

 妻は源氏に身を預けながらも、うつむいて聞いていた。いつしか源氏の手を握る女君の手に、力が入っていた。

「まだ何の飾りもして差し上げていないみ仏も気になるしね、明日から三日ばかり戻らないよ」

「宮中のお仕事は?」

「仏寺法事のためという解文げぶみを太政官に出して、もう許可された」

「本当に、それだけ?」

 女君が源氏の目を見た。源氏は一瞬どきっとした。女の勘にはかなわない。源氏は観念した。

「実は御堂の近くに、訪ねなければならない人もいて、それが心苦しくてね」

 このひと言で、女君はすべてを察したようだ。

「仙人の碁を見て斧の柄が腐ったという話もありますけど、私もそんな長い時間、殿のお帰りをお待ちすることになるんでしょうか」

「また、何を言うのかね。すねたりするところが、まだまだ子供だな」

「すねてなんかいませんわ」

「でも、怒ってるだろう?」

「怒ってませんって」

 人の心の中が見えないということが、こういうときほどもどかしいことはない。口では怒っていないと言っても、本当に怒っていないのかどうかその突き放したような口ぶりからは分からない。内心は怒っているかもしれない……でも、本当に怒っていないかもしれない……こういう時、男はかわいそうなくらい鈍感である。

「明石の御方が見つかりなさって、ご上洛されたのでしょう? よかったじゃありませんか。私もひと安心ですわ」

 突き放した言い方は、相変わらずだ。娠妬しているな……ということはすぐ分かる。しかし源氏は、この女が怒っていようといまいと、娠妬していようがしていなかろうが関係なく、いとおしくて、かわいくて仕方なくなってきた。そして、もう一度抱きしめた。

「明石の姫は、いなくなっていた存在が見つかったんだよ。あなたはずっと私のそばにいて、私の一部だったではないか。それに私はもう、若い頃のような好き者ではない」

 源氏は優しく囁きかけるとそれ以上は何も言わず、小袖の上から女君の胸をまさぐって愛撫を続けていた。いつしか女君の両腕も、源氏の背中へと回った。


 源氏は嵯峨へと向かった。

 左近衛中将であった時と同様に今では右衛門督である彼の外出には随身兵杖ずいじんへいじょうがつくので、ちょっとした行列であった。

 まずは御堂で僧たちに指示を与えた後、夕刻には目立たぬ網代車で、二、三人だけの供をつれて源氏は山荘へと向かった。案内は惟光である。彼が言うとおり、御堂から本当に目と鼻の先に山荘はあった。竹林の中の小径を抜けて坂道を上ると、竹林は終わって周囲は松林となった。

 すぐに檜皮葺ひはだぶきの屋根が見えてきた。山荘だけあって洛内の貴人の邸宅よりは小ぶりだが、体裁は全く劣るものではなかった。

 薄明かりの中で東門に車をつけると、この山荘の家人も女房も入道が高松邸から割いたもので、もとを手繰ればすべて二条邸にいた人たちである以上、源氏は大騒ぎで迎えられた。庭も見事で、引いた水が池に注ぎ、築山もしつらえてある。木立が少し乏しいが、周りが松林に囲まれているのでそれは気にならなかった。かつての明石の邸宅を彷彿させるものがあり、それらが入道の風流心によるものであることは源氏には十分に感じられた。

 姫は西ノ対にいるという。小さな山荘なので、西ノ対はすぐそばに見える。そこではどうやら、女房たちがもめているようだった。男が女のもとに来た時は、まずは女主おんなあるじの意向を聞いてから客を通すものだが、女房たちにとって源氏は旧主であり客という意識はなかったのでそのまま通してしまったのだ。

「ですから、病で伏せっているとお伝えください」

 姫の声がはっきりと源氏の耳にも入ってしまい、源氏は苦笑しながら渡殿を渡った。

「あ、もうおいでです。お席はどちらに?」

簀子すのこに」

 聞こえてしまっている姫の言葉に、「いくら何でも簀子はないだろう」と思った源氏は、そのまま廂の間に入った。

身舎もや御簾みすを!」

 姫は叫んだが源氏が入っていくのに間に合わす、そのまま慌てて几帳の向こうへと姫は入ってしまった。源氏はさらに身舎にも入り込み、そして几帳の前に座った。

 明石ではもっぱら狩衣かりぎぬを着ていた源氏であったが、今は明石では滅多に着なかった直衣姿である。その源氏は几帳の前で一つ咳払いをした。ここにいる女房はすべて源氏の知る顔で、全員が源氏の味方である。身舎の中は源氏と姫の二人きりになった。

不躾ぶしつけでは……ございませんか?」

 やっと姫のか細い声が、几帳の中から聞こえてきた。

「何の不躾か……。あなたは私の妻なのですよ」

「妻……。何の面目あっての妻でしょうか」

 姫はとうとう泣き出したようだ。あたりはもうすっかり宵闇に包まれている。

「格子降ろせ! 大殿油おおとなぶら持て!」

 源氏は大声で、別の部屋で控えているであろう家人けにんや女房を呼んだ。その声で灯火が灯され、淡く照らされた部屋に再び二人だけが残ったとき、源氏は膝を進めた。几帳の向こうからも、後ずさりする衣音きぬおとが聞こえた。

「そう自分を責めてはいけないよ」

「しかし、殿の大切なを……」

「仕方ないさ。あれは天災だったと思えばいい。ややなんて、また生めばいいではないか」

「もはや私は、殿とはご縁のない人」

「何を言う!」

 ついに源氏は大きな声を出し、几帳を払った。姫は慌てて扇で顔を隠した。

「さあ、もうよそよそしい振る舞いはやめておくれ。縁がないどころか、前世からの宿縁があって夫婦めおとになった。その縁は簡単に切れるものではない。私とあなたは住吉の神の導きで巡り会った。そんな奇しきえにしで結ばれているのだよ」

 姫の手から扇がぽろりと落ちた。そして瞳に大粒の涙を浮かべ、姫は源氏を見た。

「お会いしとうございました」

 次の瞬間、源氏の腕の中へ姫は矢のごとく飛び込み、源氏はそれをしっかりと受けとめた。

「済まなかったね。もう五年もの間、淋しい思いをさせてしまった」

 さらに源氏の胸の中で、姫は激しく泣いた。

「でも……でも……、妻とおっしゃってくださいましたけど、源氏の君様の妻は私一人ではないはず。みんなそれぞれやんごとなき方なのでしょう? そんな中に私のような田舎娘が加わって物笑いの種にされたら、源氏の君様にとっても恥におなりになるのでは? だから……だからもう私、源氏の君様のことはあきらめようと……いえ、もうあきらめたつもりでおりましたのに」

「ばかだな。そんなことはない」

「でも、でも……、私、恐い。またつらい思いをするのではないかと」

「悪かった」

 源氏は姫を、さらに強く抱きしめた。

「あなたにそのようなことを思わせてしまったのは、私の責任だ。謝らなくてはならない」

「いや、謝らないで。謝られたら、ますますつらくなります」

 源氏は姫の頬に顔を当て、その涙を吸った。そのまま二人はなじんで、畳の上のしとねの上にもつれこんだ。

 幻の身体を今、源氏は抱いている。その柔らかさと温かさを、自分の手と肌で直に感じている。首筋を味わい、胸に口をつけ、そして腰を抱きしめて姫の途切れ途切れの声を聞く。

 その途中で源氏は、思わす涙を流していた。胸があまりにも熱すぎる。すでに自分の一部分である二条邸の西ノ対の妻では、決して味わったことのない感慨であった。

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