第4章 薄雲

 冬も深まるにつれて、大井の山荘での暮らしはどんなにか心細かろうと、源氏は常に明石の姫の身の上を思ってしまう。

「このような寂しい暮らしを、いつまでも続けているわけにもいかないでしょう。ここは早く、父上のおられる高松邸に移ったら」

 月に二度の渡りで源氏自身は誠意をこめて誘うのだが、姫は一向に首を縦に振らない。

「やんごとなき方に立ち交じるのも」

 この一点張りである。

「別に二条邸にと言っているわけではないのだよ」

 それは当たり前だ。一つの邸内に二人の妻を、たとえ棟が違うとはいっても同居させるなどということは世間の常識が許さない。だからこそ、高松邸を新築したのだ。

 だが源氏は、そのことは言わない。ただ優しく姫の両肩を後ろから抱きしめていた。長い髪にも染みていた香の匂いが、甘く鼻を刺激する。

「ここにいても、寂しいだけだろう」

「母がいますから」

「でも、いつもここにいらっしゃっているわけではないだろう」

 源氏が高松邸に顔を出すと、姫の母が高松邸にいることも多い。

 姫の柔らかい身体、包み込むしぐさなどとは裏腹に、心は頑ななようだった。


 やがて年が明けた。

 高齢の関白太政大臣も左大臣も病を理由に、それぞれの大臣大饗は取りやめとした。ただ小野宮右大臣だけが取りやめることなく大饗を開いたが、もちろん源氏は障りを申して形式ばかりの請客使に参加を断った。九条大納言もそうするはずである。

 小野宮邸にはもはや自分の息子もいない以上、源氏にとっては二度とくぐりたくない門であった。

 代わりに七日の白馬節会あおうまのせちえを、源氏は自邸の二条邸で行った。これは先例もあるし、この頃に流行していることでもあった。何しろ当日が雨天で宮中における節会では華々しいことが省略されているということも、口実の一つとなった。

 そうして何とか、一連の正月の行事を終えたことになる。

 大井の山荘ではまともな正月のしきたりも踏襲できないのではないかと源氏は気にかかり、正月気分も過ぎた頃に源氏は出かけることにした。

 桜衣の直衣のうしのきらびやかな服を着て香をたきしめ、まずは出かけの挨拶にと源氏は西ノ対に渡った。折しも夕陽が源氏の直衣を紅に染め、この世のものとも思えない美しさに女房たちは声を失っていた。

「行ってくるよ。明日は帰るからね」

 また西ノ対の上は機嫌が悪いのではないかと源氏は心配していたが、何しろ正月中ずっと源氏のそばで心ゆくまで春を楽しんだ対の上である。

「行ってらっしゃいませ」

 対の上は微笑さえ浮かべていた。源氏はかえって気味が悪くて、苦笑いをした。

「『明日帰りん』という催馬楽さいばらもあるじゃないか」

「そうね。『遠方おちかたさるせなは、明日もさねじや』って続く歌」

「しまった、やられた。いやいやいや、必ず必ず」

 機知に富んだ皮肉が、源氏には嬉しくもあった。何しろ自分が手をかけて育て上げたその結果が、今目の前にいるのだ。

 自分は幸福だと、源氏はしみじみと思った。愛する存在があり、愛してくれる存在もある。敵もいるが友もいるし、後ろ盾もあれば仕事もある。仏道でいう「足りる心」というのが、源氏にはほんの少しだけ理解できたような気がした。

 笑みと笑みで通じ合う二つの心のそばで、女房たちは遠慮もなく囁き合っている。

「まあ、いつもになくお美しいお姿で、いずこの遠方人おちかたびとのためでしょうかね」

「対の上様にお子がおありになれば、殿のお心ももう少しは対の上様におとどまりになるのに」

 あからさまに源氏の耳には聞こえている。彼女らの主人はあくまで対の上であって源氏ではないから源氏には聞こえてもお構いなしだ。

「ああ、やかましい」

 不快に思ったのは対の上のようで、彼女は女房たちを叱りつけた。

「口さがない人たちだこと」

 源氏に向かってにっこり笑うその笑みに、源氏はたちまち胸が熱くなった。


 山荘はもうすっかり住居としての体裁は調えられていた。その洗練された風雅にふさわしく、宿の女主おんなあるじもますます美しく感じられた。

 今の源氏にとって唯一の「足りぬ心」は、なかなか姫が京中の高松邸に移ってくれないことであった。

「そのうちに」

 と、いつもはぐらかされる。

 この夜は、姫の箏の琴を源氏が弾じた。月も出て、あの明石の夜さながらの風情である。源氏は姫とともに端近はしちかに出て格子も一つだけ上げさせ、月の光に浮かぶ嵐山の風情を楽しんだ。

「この景色ゆえのお渡りという気がしまして。都に入ればこう足繁くは……」

「月に二回で足繁くと言われたら、都に来た暁には私は飽きられてしまうだろうね」

「いいえ、それは、私の方こそが言いたいこと」

 どう言ったら自分の真意が伝わるのだろうと、源氏はため息を一つついた。姫もまた、同様のため息だった。二人の心には、同じものが熱く燃えているはずである。しかし、それが一つに溶け合わない。何か障壁がある。

 翌朝、源氏は朝餉をとった。もうずっと前からそうしている。ここはあくまで高松邸にいる入道の所有する山荘で、源氏の別業ではない。そこで朝餉を頂くということは、姫君が尊なる愛人ではなく正式な妻だという証である。

 そもそもが三日通いをして結んだ正式な婚姻ではあるが、しかし今はまだ世間に対して公にはできず、源氏にとってそれがもどかしくもあった。しかも、姫がこの山荘にいる限りこの状態は続くので、源氏はいささか焦り始めてもいた。

 一日中一緒にいたいが、今日中に源氏は都に戻らねばならない。源氏は別れがたい思いを殺し、御堂にも顔を出してから夕方には都に戻った。


 帰るや否や、惟光が慌ただしく参上した。

「光の君様、あるお屋敷からお使いが参っております」

 今や惟光も口髭などを生やし、すっかり壮年になっていて、すでに人の子の親でもある。

「何かね。宮中からか?」

「いえ。と、あるお屋敷からで」

「それでは分からん」

「とりあえず、東ノ対の庭先に待たせてあります」

 仕方なく源氏は東ノ対のひさしに座した。御簾みすは下ろされているが、まだ明るいので外は丸見えである。庭にうずくまっているのは、年老いたさむらいであった。どこかで見たような気がするが、思い出せない。

 下級官僚の陳情かとも思ったが、まずは屋敷名を家司に尋ねさせた。その家司が戻ってきて、侍の言上を伝えた。

「六条のお屋敷だそうです」

「六条?」

 源氏の眉が大きく動いた。その頭には、しびれるような感覚が走った。

「まさかあの六条では?」

「それが、そのまさかで」

 源氏にとって忘却の彼方にあった地名――遠い過去の中に葬りさられた存在が甦ってくる地名であった。

「しかしあの六条なら、今は住む人もなく荒れ果てているのではないのかね。それとも、誰か新しい家主が住んでいるのだろうか」

「それが、そうではないのでございまして」

 簀子にいる家司は、源氏の帰邸前にすでに侍から聞いていた話を源氏にした。

「何という……」

 源氏はまた、頭がくらっとする思いだった。全身に震えさえ走った。

 かの六条御息所は、斎宮とともに伊勢に下ったものとばかり思っていた。しかし、やはりそれは先例がないことであり、野の宮までは入ったが結局は伊勢下向が許されずに、六条の屋敷で今も暮らしているという。

 ちょうど斎宮の伊勢下向時に源氏は須磨に行っていたので、そういったいきさつは知らなかった。しかし、源氏が明石から戻ってすでに五、六年はたっている。その間、御息所が同じ都の空の下にいるというのに、源氏は全くそのことを知らずに時を過こしてきたのである。

「それで、あの侍は何と?」

 家司は侍の言上を聞くため、簀子の端の方へ行った。やがて御簾際に戻ってくると、家司は源氏に小声でささやいた。

「御息所様がご重体で、今日明日が峠とか。それで、今際いまわきわにひと言だけ、光の君様に申し上げたき儀があるとかで」

「分かった。とりあえず侍には禄を与えておきなさい。返事は追ってこちらから使いを出すと、そう言っておいてくれ」

「は」

 家司が簀子の下の侍にその言葉を告げている間に、源氏は立って身舎もやの中に入った。身体はまだ震えている。

 すでに自分の意識の中には存在しなくなっていた存在が甦った。御息所が都にいる。しかも自分に会いたがっている……。

 いったい今までどうやって暮らしてきたのかというのも疑問だ。娘の斎宮とともに伊勢に下るというので六条邸は政所も消滅し、女房たちにも暇をとらせたはずである。あるいは、かろうじて留守居としての政所は残っていたのかもしれない。だが何の後見もなく、何の経済的援助もなく、彼女はどうやって食べてきたのであろうか……。

 そんなことよりも源氏は今、先方に返事をしなければならない。しかし、今さらという気もする。あの野の宮で、二人の関係は白紙になったはずだ。しかも相手は、かつて生霊いきりょうとなって最初の妻を死に追いやった存在である。だが、今その存在の命の火が消えようとしている。

 生霊事件は御息所にとっても不憫なことであった。責任は自分にあると、今さらながら源氏は思う。あの頃は若かったのだ……互いに。

 あの頃は御息所をとてつもない大人に感じていたが、今の彼はとうにあの頃の御息所の年齢を越えている。そしてその同じ分だけ年を重ねたはずの御息所が、今際の際に源氏に言うことがあるという。

 源氏は恐くもあった……今さら何の話があるというのか……今日明日の命という状況ではなければ、源氏はあえて突き放したであろう。しかし、死んでいく者の願いを足蹴にするのは、彼には忍びないことであった。

 源氏は郎党を走らせた。すぐに行くという源氏の返事を、その郎党は持っていた。

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