東洞院大路ひがしのとういんおおじは、九条大納言の邸に行く時によく下って行く道だ。四条を過ぎた頂から町家ばかりとなり、やがてそれさえまばらになってくるのは見慣れた光景である。空き地が目立つ。鴨川越しに東山の山並みやその麓の鳥辺野も一望できるほどだ。

 やがて六条坊門を東へ折れると、すぐに築地塀ついじべいが見えてくるはずだ。

「これは!」

 惟光があまりに突拍子もない声を上げるので、源氏は思わず首をひねって車の前の御簾越しに前方を見た。

 そこには築地塀に囲まれた屋敷ではなく、裸の木々の立つ野辺があるだけであった。いや、築地塀はある。あることにはあるがほとんど崩れ落ちていて、塀としての機能は果たしてはいなかった。

 車が近づくにつれ、わずかな塀の残骸の中からにぎやかな声が聞こえてきた。見ると近所の庶民の子供たちが勝手に塀内に入り込んで、遊びに興じているのであった。

 門だけは延びた蔦にしっかりと閉ざされているが、そのような状況であるから邸内に入るのはわけなかった。塀の破れから敷地内への出入りは自由である。

 本当にここに御息所はいるのだろうか……こんな所で生活しているのだろうか……源氏は胸が痛むのを禁じ得なかった。年々の秋の大風に破損し、修復する者もないままに打ち捨てられた屋敷という形容がぴったりとくる。

 まずは惟光を中へと遣わした。塀の破れから惟光は中へと入っていった。かなり待たされてから惟光は戻ってきた。

「いやもう、すごい屋敷ですよ。あ、あの、お待ちしていましたとのことです」

 惟光について、前に二条邸に来た侍が案内に出てきた。しかし門から入れないとなると、車を置いておく場所がない。

「牛は邸内で放しておけばよいと、あの侍は申しておりますが」

 惟光が車のそばで言う。

「そんな無体な」

「それが、ここはよく近所の屋敷の牛飼いが来て牛を放し飼いにしているそうなのですよ」

 源氏は一瞬苦笑したが、すぐに真顔になった。

 仕方なく車は路上に停め、見張りの郎党を二、三人残し、牛は牛飼い童をつけて言われたとおり邸内で放牧した。

 源氏が一歩敷地内に入ると、まだ春先なのにもう草いきれを感じた。枯れた雑草が地上に積もって腐乱し、くつ指貫さしぬきの裾までがずぶ濡れになるくらいだ。夏ではさぞかし草が背丈ほども生い茂る野になるであろうとおもわれる。

 所どころ、大きな穴さえいていた。銘木が植えられていた跡らしい。勝手に邸内に入り込んだほかの屋敷の者が掘り取って持っていったに違いない。

 東の細殿も沓を脱いで上がれる状態ではなく、そのまま中門をくぐって前庭へと源氏らは案内された。東ノ対はほとんど廃虚であった。やがて見えてきた寝殿も屋根の檜皮は所どころががれ、柱も朽ちているものが多かった。

 かろうじて寝殿の簀子は沓を脱いでも大丈夫のようで、そこに源氏のために円座が置かれていた。

 簀子での対面……仕方ないかとも思う。野の宮での時もそうであった。まだ昼間なので半蔀はじとみの格子は上げられていたが、内側から御簾が下ろされていた。

「源宰相右衛門督、参りましてございます」

 簀子の円座に座ると、源氏は声をかけた。まるで師に呼び出された学生がくしょうのような気分だ。中から返事はなかった。代わりに年老いた女房が端近まで出てくるのが、御簾越しに見えた。

「もはや長くはないお命なれば、御息所様はどうしても源氏の君様にお願いしたきことがございますとかで」

「分かりました。しかし、いささか冷淡な御もてなしではありませんか。せめて廂にでも入れていただけたらと」

 仮にも自分は四位の参議、すなわち公卿の一人である。いくら前坊妃とてこのような扱いはないだろうと源氏は思っていた。

「少しお待ちを」

 女房は身舎へと入っていったようだ。やがて御簾が上げられ、源氏は廂の間に通された。だが身舎との間は、壁代かべしろの几帳で仕切られていた。

「御息所様は、伏せっておいでになりますれば」

 先ほどの女房が出てきた。源氏の二条邸からまわした女房ではないので、恐らく古くからこの屋敷に仕えていた者であろう。

「こちらの大人がたは?」

 源氏は女房に尋ねてみた。

「はい、私と斎宮の姫様の御乳母でありました方と、今は二人のみで」

「二人のみ?」

 思わず源氏は大声を出してしまってから、慌てて口を抑えた。

「二人……のみ……?」

「はい。ほかに郎党が二、三人。包丁が二、三人。そればかりでございます」

「立ち入ったことをお伺いするが」

 源氏は声を落とした。

「財は?」

「ございません。西山の御寺みてらより志を頂いてはおりますが」

 西山の御寺とは、かつて一院の法皇がおられたところである。その一院の御息所で、この屋敷の主の御息所の姉が、今でもその御寺に尼となって住んでいるはずであった。つまりは姉の尼からの仕送りだけで、御息所は食べていっているようだ。

 女房は目を伏せた。

「御息所様も髪を下ろし御寺に入りたいといつも仰せでございますが、なにぶん姫様が斎宮なるゆえそれもかないませず……」

 いつしか女房は、小袿こうちぎの袖で目頭を押さえていた。源氏は胸の高鳴りを抑えきれなくなった。

「御息所様と、会わせて下さい。いえ、せめてお声なりとも。人伝ではなく……」

「何ぶんにも、伏せっておいでですので」

「せめて、せめてお声を!」

 源氏が女房に詰め寄っていると、几帳の中から衣擦きぬずれの音が聞こえてきた。女房は慌てて几帳の中へと入った。

「御息所様、お休みになっておられないと」

「いいのです。脇息を持ちなさい」

 源氏はまたもや頭がくらっとした。蚊の鳴くような細い声ではあったが、紛れもなく御息所の声であった。

「御息所様!」

 ほとんど絶叫に近い声を上げて、源氏は几帳の方へと向き直った。

「都にいらっしゃったのなら、なぜ知らせてくださらなかったのです? そうすればこのようなお暮らしには……」

「ありがとう。でも、いいのですよ」

 実に弱々しい声だった。今にも消え入りそうだ。

 だがその言葉は、かつての気位の高かった御息所とは別人のように源氏にとっては優しかった。

「私はもう、どうでもいいのです」

「そんな……。祈祷もなさっておられないのでは? 早速、僧に命じて……」

「いえ、いいのです。私はもう今日にも明日にも失せなんとする者。それよりも源氏の君様にお願いがありまして」

「何でございましょう」

「源氏の君様とはいささかのご縁を頂戴致しました。それに甘えてもうひとつだけ頼まれてはくれませぬか」

「何なりと」

「私が旅立ちましたなら、母の喪ということで娘の斎宮も解任されて退出して参りましょう。身寄りのない子です。何の後ろ盾も……」

 御息所の声は涙につまっているようであった。

「分かり申した。姫君様がご退出ご上洛の折は……」

「ただ」

 少しだけ強い口調で、御息所の声が御簾の中から出てきた。

「お願いです。あの子に対してあだめいたお心だけは」

 これは釘を刺されたことになる。だが、もとよりそのような下心のなかった源氏は、きっぱりと言い放った。

「父として姫君様を私の娘とも思い、御後見うしろみ申し上げましょう。誓って……」

「本当の父親でも、母なき子をはぐくむのはかたきこと。されど、源氏の君様をおいてほかに頼める方もございません。お願い致しましたこと、必ず……。その上でのお願いでございます」

「私ももう若くはありません。昔とは違います」

「御息所様」

 と、先ほどの女房が話に割って入った。

「もう、これ以上起きていらしては」

 源氏も直衣の袖で、自分の目頭を押さえていた。この人は旅立とうとしている。これで、今度こそ本当に現世うつしよでの関係は一切絶たれるのだ。

 庭も東ノ対も荒れているのに、寝殿だけはかろうじて取り繕われていた。そこに今でも貴女としての御息所の気位が感じられるが、それでも彼女は最後に源氏にだけ優しさと弱さを見せたのであった。


 それから数日後、御息所は息を引き取った。

 小一条の関白家から使者があり、御息所の死の知らせを二条邸へともたらした。

 御息所は大后腹の前坊の妃で、しかも故本院大臣の娘である。関白太政大臣にとつても姪であり、亡き一院の法皇の由縁ゆかりもあって、そして今の斎宮の母でもある。従ってその葬送は、関白太政大臣の手で行われることになった。

 だが源氏はその知らせよりも前に、直接六条からの報に接していた。意外と冷静に源氏はその報を受け取った。

 この世のはかなさを思うにつけても、あの女性は自分にとって何だったのだろうかと、ふと源氏は思う。

 父の遺言――ただならぬ仲――心の乱れ――生霊事件と妻の死――野の宮の別れ――それらが走馬打のように、そしてひどく冷静に源氏の中に蘇ってきた。しかし、あの女は何だったのかという疑問に答えは出そうもなかった。

 それにしても父院のご遺言で、あの女との関係が始まった。そして今はその女の遺言で、その娘である斎宮とかかわることになる。だが、色めいた関係にはならないようにと釘は刺されている。

 いずれ近いうちに斎宮は都に戻る。思案はそれからだと源氏は思った。


 春たけなわ、花の盛りに宮中で音楽の催しがあり、九条大納言、本院中納言左金吾らとともに、源氏とその弟の源宰相も参列した。相撲司物すまいのつかさものの装束を着ての参列という興物だった。

 だが、源氏は興じきれなかった。その数日前に御息所の七七日(四十九日)の法要が、関白太政大臣の仏寺で執り行なわれていたのである。九条大納言の屋敷から鴨川を挟んで東にある、かつて源氏も行ったことのある大寺だ。今の三条の尼宮が出家したあの寺である。

 六条御息所を死後にこのように丁重に扱うのならせめて生前からと源氏は関白のことを思ったが、今の彼にはその理由は分かっている。

 いろいろと政治的取引があるのだ。

 大后の存在がまだ幅を利かせている。大后側の本院大臣の娘でありながら、そして大后腹の前坊の妃でありながら、大后のかつての政敵である一院法皇の庇護下にあった御息所はその立場も微妙だったのである。


 春の除目で、源氏は讃岐守を兼ねることになった。ただ、収入が増すだけの意味もない遙任だ。九条大納言は按察使あぜちを兼任した。彼はすでに春宮大夫とうぐうのだいぶでもあって、今や完全に時の人であった。兄の小野宮右大臣よりも羽振りがいいということで、人々は九条大納言のことを「一苦しき二(長男以上の次男)」と呼んだりした。

 その頃、帝はまたもや御病の床につかれ、それに追い討ちをかけるように関白太政大臣も病に倒れた。

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