源氏の嵯峨の御堂は宮中でも知れわたるところとなり、受領階級の者たちからの寄進も始まるようになった。

 すべてが除目の下工作である。そうでないのは播磨守からの供科くらいであった。播磨守とは公卿の中でも最長老の七十九歳の大蔵卿伴宰相である。

 公卿の年齢的序列のその次は民部卿修理大夫で七十三歳、そして左大臣の七十一歳、次は一院法皇の父であった先帝の孫である源宰相大宰大弐であったがこの人はこの年の正月に六十九歳で逝去しており、その次が関白太政大臣の六十六歳となる。

 また、若い者も増えた。かつては源氏の同世代は今の九条大納言くらいであったが、今は同じ年の弟の源宰相もいるし、九条大納言の弟で去年参議になったばかりの者も源氏より一つ年下なので、やっと源氏は最年少ではなくなった。

 そんな老若相混ざる顔ぶれで国政が営まれていたわけだが、困ったことに宮中の財政の見通しが立たないでいる。そんなことでの陣定の連続とそれに加えての猛暑で、源氏はいささか体調を崩していた。

 斎宮はまだ伊勢から戻ってきてはいない。母の喪があればすぐさま斎宮は任を解かれて戻ってくるはずだが、なぜいまだに入京していないかについて源氏はその理由を知っていた。斎宮上洛のための費用が捻出できないのだ。それがようやく調達できて、伊勢に向けて斎宮退出の差文が遣わされたのは夏のまっただ中であった。

 その頃の宮中は、ある事件の話題で持ちきりであった。

 九州に唐人の船が来航したという知らせがまずあり、そのあと宮中ではすぐに相撲すまい節会せちえとなったが、ちょうどそのころ摂津の国より解文げぶみが上がってきた。

 志多羅しだらがみと号する神輿が三基、九州の方からやって来て入京しつつあるという。それらは民衆に担がれて、さらにおびただしい数の民衆が群れて一大行列をなし、あるいは歌いあるいは跳び踊って、大騒ぎをしながら都に迫りつつあるということであった。

 いわゆる新しい信仰形態である。今、民衆の間で爆発的にその信者が増えているというのが現状のようだ。発生は摂津の国らしい。

 宮中で公卿が三人以上顔を合わせると、必ずその話題が出た。彼らの関心を引いたのは、三基の神輿のうちのひとつが「自在天神」の額を掲げているということであった。

「あな、恐ろしや」

 話を聞いて扇で顔を隠し、震えだす公卿もいた。自在天神とは火雷天神――すなわち雷公の神輿ということになる。ほかは宇佐の神、住吉の神の神輿ということだ。

「君はどう思う?」

 宜陽殿での待機中に、九条大納言が源氏に話しかけてきた。ほかには誰もいなかったので、この時は宰相右金吾から一人の光源氏に戻って彼はその朋友を見た。

「民草の力だな。ものすごい力を彼らは持っている。それが爆発したのだろう」

「うん」

 大納言は、少し鼻で笑った。

「確かに民には力はある。しかし、その民は愚かだからねえ。われわれがそれを教化しなければならないのだよ」

 大納言はそれだけ言って去った。源氏は思った。

 彼らが火雷天神の神輿を担ぎ出したのは、それが公によって最も恐れられている存在であることを知っているからではなかろうか……。源氏にはまだ、須磨で知った土の香りが残っていた。

 結局神輿は石清水八幡宮に納まり、大騒ぎも一時的なものでやがて鎮火して行った。だが源氏が待っている存在の入京はまだのようで、それが実現したころには秋風を感じるようになっていた。


 源氏はすでに伊勢には文を送っていた。斎宮の母である御息所の遺言により、斎宮上洛の暁には斎宮を二条邸に迎えると源氏は斎宮に告げていたのである。

「かわいそうな人なのだよ」

 二条邸に迎える以上、対の屋を異にするとしても西ノ対の上には話さないわけにはいかなかった。

「そのお方、おいくつ?」

「いくつだったっけなあ。伊勢下向の時はたしか十五か十六だったはず」

 父帝が始めて御息所のことを遺言されたとき、十ばかりの娘がいると言われていたから、数えればそうなる。

「だから今は、二十歳を少し越えたくらいかな」

「きれいなお方?」

「いや、私は会ったことも、声を聞いたこともなくてね。あ……」

 源氏は妻の視線にふとあるものを感じ、すぐに苦笑した。

「嫌だなあ。斎宮様を迎えるのはね、その母君から頼まれてのことなんだよ。私の父院の関係で、その母君とは少々おつき合いをさせていただいたのだがね」

「母君様って?」

 対の上は鋭い。源氏は話しながらも少々後ろめたさを感じていたので、思わず言葉に詰まった。

「私の亡くなった兄君の未亡人の御息所だよ。その方もこの春に亡くなったから斎宮様も伊勢を退出されることになったわけだけど、何しろ幼い頃に父君を亡くされ、今は母君にも先立たれて天涯孤独なんだ」

「かわいそうな方」

 妻は目を伏せてぽつんと言った。心が違う方向に動いたようである。かつての自分の境遇から、他人事とは思えないのであろう。

「大丈夫だよ。この屋敷に迎えたからって徒心あだごころは持ったりしないから。母君からも釘を刺されたしね。下心があったら、君のいるこの屋敷に迎えるはずはない。だいいち彼女は私の姪だよ」

「いいわ」

 妻の顔がパッと輝いた。

「殿は父親代わりにその方を引き取るのでしょう。では私は母親代わりね」

「おいおい」

 源氏はさらに苦笑した。

「母親代わりって言ったって、君と年はほとんど変わらないのだよ」

「いいの。決めたの」

 妻にまだあどけなさが残るのは子のないせいかもしれないし、それゆえに母親になりたがっているのかもしれなかったが、とにかく源氏には嬉しかった。

 その数日後に斎宮は入京し、二条邸に着くと明石入道が高松邸に移ってからいていた東ノ対に入った。すでに政所の機能を源氏は調えていたし、斎宮の乳母だった人も六条邸から迎えていた。

 到着後しはらくして落ち着いたであろう頃を見計らって、源氏は挨拶に東ノ対に渡った。

 身舎には御簾が降ろされており、その前の廂の間に源氏は座った。御簾の中のさらに几帳の向こうに元斎宮の座がある。

 源氏が御簾に向かって挨拶を言上しても、何一つ返事はなかった。その代わり、この東ノ対の女別当に源氏が任じておいた女房が端近まで出てきた。

「斎宮様は恥じ入っておられるご様子で、おうつむきになったままでして……。お返事をと促し申し上げたのですが……」

「いい、いい」

 源氏には分かっている。何しろ斎宮が母の腹中にある時に、その父――つまり源氏の兄である前坊はもうこの世を去っていた。そしていちばん多感な時期に伊勢の斎宮という、厳粛な禁欲生活を強いられたのである。恐らくは生まれてこの方、男というものと全く接していないのであろう。

「突然のことにお心が落ち着かすにおられましょうが」

 源氏は再度、御簾の中に声をかけた。

「お母上とのご因縁もありますし、私は御父君の弟、すなわち姫様の叔父でございますれば、私を親とも思いまして打ち解けていただきとう存じます」

 二十歳過ぎの女性の親と称するには三十余歳の自分では若すぎると源氏は思ったが、その意識は本物であった。だが結局、源氏はひと言も返事をもらえないまま寝殿へと戻った。そして女別当をはじめ東ノ対付きの女房すべてを寝殿の南面みなみおもてへと集めた。

「東ノ対の姫の親として、言いわたす」

 そう言って源氏は、いかなる人の手引きをも固く禁じた。女房の取り次ぎがなければ、仮に誰かが元斎宮のこの姫に懸想けそうをしたとしても、この邸の東ノ対には通って来られないのである。

 自邸の東ノ邸に迎えたのは、ついこの間まで斎宮であった姫である。その姫が全く汚れがない純情な存在であることは、この日の挨拶で源氏は痛感した。その姫を汚してはならないというのは、まるで本当の父親としての感情のようでもあった。

 宮中の官人たちは、噂を食べて生きている。源氏の二条邸に前斎宮が引き取られたということもたちまちのうちに広まった。

 ところがそのことを不審がるよりも、ほかの思いで源氏に接近してくる若い公達が増えた。公達ばかりでなくその父親たちとて然りで、彼らは前斎宮の母と源氏とのつながりなど知るよしもないまでも、源氏が前斎宮を父親代わりとなって庇護していると聞いたからであろう。下心は見え見えで、そのことが源氏にはおもしろくもあった。娘を持つ父親の気持ちを満喫していたのである。


 秋も深まり、宮中の承香殿の東北の庭では菊花の宴が催された。その宴の後の直会なおらいの時、源氏は帝に召された。帝はすっかりおやつれになっていて、源氏よりも十歳年下のまだ二十代前半であられるというのにまるで老人のようなその物腰になっておられ、源氏は驚きを禁じ得なかった。

「時に兄君は、前斎宮をお引取りになられたそうですが」

 お言葉すら弱々しかった。しかしその御目は紛れもなく青年のそれであると源氏は拝した。だから、この話題になったことに源氏は少し不安を感じた。

 帝とて男である。源氏の中で親としての警戒心が頭をもたげた。

「実は斎宮の伊勢下向の折はわたしは物忌で儀に出てはおりませなんだが、ひそかに斎宮を垣間見まして……」

 帝は一つため息をつかれ、さらに続けられた。

「あの頃はわたしもまだ子どもでしたけど、子どもながらにこのような美しい姫が神に仕えるということでその身を捧げてしまわれるのかと思うと、もったいないなあと思っていたものですよ。その姫が今や斎宮ではなくなり、また後見もないとなると」

 もし相手が帝でなかったら、源氏はその先の言葉を手で制したはずである。だがそれはあまりにも恐れ多いので、源氏は黙って聞いていた。

「どうでしょう。兄君にとって姪ならわたしにとっても姪です。女王であることは紛れもない事実で、それゆえこの宮中で過ごさせても何ら不都合はないと思いますが」

 源氏は大きく息を吸い、居を正した。

「真にもって恐れ多き仰せではございますが、実は私が前斎宮様をお預かり致しておりますのは、その母君、すなわち前坊様の御息所の御遺言でございまして」

「それは承っております。しかし」

「いや、お待ちください。御息所様が申されましたのは、宮中に上げても何の後見もなき身なればやがておとしめらるるは必定と。ですから」

 その先は何と申し上げていいか源氏は分からずにいた。帝は肩を落としてうつむいておられる。それがお気の毒でもあった。しかしその仰せに、首を縦に振るわけにはいかない理由はあった。源氏の心はすでに決まっていたのである。

 だから帝に対し奉り、後ろめたさがあったのも事実である。その決意はことがことだけにどんなに朋友であっても九条大納言には、いや、九条大納言だからこそ言えないことであった。

 娘を持つ公卿にとってその娘を帝がご所望になる……これが何よりのことであるはずだ。貴族の娘の最高の幸せは帝に愛され、女御、中宮となること……。

 たしかに源氏も今は仮にではあるが娘の父親の気持ちを味わい、そして娘を持つ公卿なら誰でも考えることが源氏の頭にも浮かんでいた。だが、今の源氏にとっては、それは少し別の形であった。


 源氏は第二の母である入道の宮の三条邸を訪れた。入道の宮は短い髪もすっかり白くなり、しわも多くなってかわいそうなほどの老婆となっていた。皮膚のすぐ下は骨という状況だ。

 そこで源氏は、すべてを打ち明けた。今だから言える六条御息所との本当のいきさつも、そして前斎宮の姫のことも何もかもである。

「その姫を、帝がご所望でございます。私はそれにお応えすることができません」

 帝が前斎宮を妃にと仰せになったのが、御本意かどうかは疑わしい。現在すでに帝の妃である王女御は前斎宮と同じ前坊の娘であり、王女御と前斎宮は異母姉妹になる。

 源氏が考えていたのは娘を持つ公卿なら誰でも考える娘の入内であったが、その相手は今の帝ではなかった。

「できれば東宮様にと」

 入道の宮はにっこりと笑った。あくまでも柔和な人だ。

「それがよいでしょう。ばばもそう思いますよ」

 源氏の肩がすっと軽くなった。この入道の宮の賛同を得たからとて、何ら政治的影響はないことは分かっている。それでも源氏は嬉しかった。


 前斎宮の姫には東宮妃として二条邸から入内してもらおう。そして後見は……自分だ。だが、決心がついた晴れがましい心に、一点の曇りがある。

 姫の母の御息所が「宮中に上げても云々」と申していたなどと帝に申し上げてしまった以上、ここで東宮妃としたら帝をお騙し申し上げたことになる。

 さらにもうひとつ、東宮妃としてすでに朋友の九条大納言がその娘を入内させている。

 朋友との争い……源氏は帰りの車の中で、激しく首を横に振った。……考えまい……なるようにしかならない……すべてを流れに任せようと、源氏はその時は思っていた。

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