薫が聞いた話では、匂宮はあれからずっと二条邸にいるという。中君を訪れようにも無理だ。匂宮が何も気づいていないならいい。少なくとも、匂宮の方からは薫に何も言ってこない。しかしのこのこと出かけていって、匂宮につかまってなまじっかいろいろ聞かれるよりは、何も言ってこないことを幸いに出かけて行かないに限る。

 月が変わり、いよいよ宇治の宮の三回忌も近づいてきた。


 そんなある日、薫は寝殿に渡り、久しぶりに母の尼宮と対座した。同じ屋敷内に住んでいながら、薫は公務のせいでめったに母とは顔を合わせない。

「女物のかづけもので、いいのがありませんか? ちょっと入り用なので」

 世間一般の母親ならここで、女物など何に使うのかとあれこれ詮索してくるところであろう。その点、薫の母はおっとりとしている。何しろ、若くして世を捨てた身なのだ。

「私の父帝の国忌の法事の料として作っておいた残りの、白いものならあるだろうね。普通のはちょっとないから、急いで作らせましょうか?」

「いえいえ、それでいいです」

 朱雀院の帝の御命日は八月十五日でその時の法事のための衣装の残りということだが、薫が入り用なのも宇治の宮の法事のためなのでちょうどよかった。

 それらをまとめて、薫は二条邸に送った。中君に会いに行けない分、せめて物資的援助を送ることによって薫は心の安らぎを得ようとしたのである。それも、中君宛てではなく、女房たち宛てにした。中君は匂宮が不自由はさせまいが、女房たちにまで匂宮の気が届くかどうかは心もとない。田舎から出てきた女房たちに、都で恥ずかしくないいでたちを整えさせるのは自分しかいないと薫は自負していた。

 それでも薫は、なぜか中君に会いたくて仕方がなかった。遠い宇治ならまだしも、目と鼻の先の屋敷にいるだけに、余計に思いは募っていったのである。

 ある夕方、内裏を退出してきてから、薫はとうとう決心して二条邸を訪れた。ちょうどその日は、匂宮がまた東二条邸に行ったという情報があったからだ。さらに薫の訪問には、故宇治の宮の三回忌の打ち合わせという名目があった。

 ところが、今回薫に与えられた席は、前の通りの簀子だった。さらに中君からは、

「体調が思わしくないので、お話はできません」

 という言葉が女房を介して伝えられた。ある程度は予想してはいたことだが、意を決して来ただけに納得はいかなかった。

 薫は急に虚しさを覚えた。だが、前のことを後ろめたく思う反面、逆に神経は太くなっている。

御病おんやまいの折は、見ず知らずの僧でも近くに招き入れるではありませんか。あるいは、医者が来たとでも思って、近くに入れてください。人伝てなんて……」

 まるで本人に言うように情をこめて、薫は取り次ぎの女房に言った。

「本当に、その通りでございますわねえ」

 女房はそう言い残して、中へと入っていった。しばらくしてから薫は、かろうじて廂の間まで招き入れられた。身舎との間には、すべて御簾が下ろされていた。そしてその中に中君が出てきたようだった。

「ご気分はいかがですか?」

「ええ、何とか」

 中君は言葉少ない。前のようには打ち解けていなかった。いつしか薫は御簾の近くにまで寄っていたが、前回のような振る舞いに出る気はなかった。

「少将の君。胸が痛いので少し押さえて」

 中君のすぐ隣に女房がいて、中君の胸を押し始めている気配が感じられた。この間のようなことがないように女房をそばに控えさせているなど、すごい警戒振りだと薫は思った。

 だが、薫も負けていては悔しい。

「胸が痛いときは、押さえたりしたら余計に苦しくなりますよ」

 薫はため息をついた。

「どうして私が来るたびに、決まって気分が悪くなられるのでしょう。人に聞けば、いつもはお健やかだということではありませんか。よくもまあ疎んじられたものですね」

「いいえ。いつもこうなのです。姉もそうでしたから、私ももう姉と同じように永くないのでは」

「姉君ですか……」

 ふと薫の心の中に、大君の面影が蘇った。そして話題を見つけがてらに、薫は話を続けた。

「幼い頃から私は世を離れて、仏道を志して精進していきたいと願っていたのですけれど、やはりこれも前世の因縁なのでしょうね、姉君に心が引かれていきました。それで仏道を志す気持ちも、少しぐらついてしまいましてね。でも、あなたの姉上こそが、私にとって後にも先にもない最高の女性でした。その姉上の代わりだなんてことであなたを愛したら、あなたに失礼でしょう。だから、そういうことではないのですよ。ただ、身内として、物越しではなくいろいろと語り合える仲になりたいのです。それならば、だれが咎めだて致しますか。私はこれまで、女性遍歴は皆無に等しいのですから、安心してくださいよ」

 この言葉は、半分は自分に言い聞かせている言葉であった。

「安心しておりますとも。さもなくば、こんな近くにまでお入れするものですか。でも……」

「でも? 何です?」

「いえ、何も。本当にいろいろと御後見おんうしろみ下さっていることには、心より感謝しております」

「そのようなことは、どうでもいいのです」

 薫の言葉も、ついつい荒くなった。

「宇治行きの相談までして下さったことで、私は少しは満足していたのですがね。しかし……」

 口調が恨みがましくなっていると自重して、薫は言葉を止めた。そして、何気なく首をひねって、庭の方を見た。外は夕闇がその色を濃くしつつあった。

「実は宇治にですね、寺でも、いや、寺とまではいかなくてもお堂でも作って、大君様の人型か絵でも描かせて、それを祀って勤行に明け暮れたい気分ですよ」

「しみじみとしたお考えですけど、昔の恋せじの祓いのようになっては……」

「在五中将の『神は受けずも』ですね。でもあれは、生きている人を『恋せじ』でしょう?」

「それでも、本当によく似た絵を描かせると、絵師は法外な画料を要求すると聞きましてよ」

「そうでしょうね」

 その時中君は、何かを思い出したようにすっと御簾のそばに寄ってきた。これでは姿まで朧気ながら見えるし、香りも移ってくる。薫はまた自分の自制心が働くかどうか不安になったが、それよりもなぜ? という疑問の方が大きかった。

「どうしました?」

「人型ということで、急に思い出したことがございまして」

「何でしょう?」

「私も知らなかったのですけど、私と血のつながった人がもう一人おいでで、この夏に遠くから来られましてここを訪ねて来られたのですよ。疎ましくはなかったのですけれど、あまり懇意にお相手申し上げませんでしたが、またこの間も来られまして、なんとまあ私以上に姉上にそっくりでして、もうびっくり致しました。女房たちは育ちが違うとは申しますけれど、本当にそっくりなんですよ」

 話の始めではどの程度の血のつながりか分からなかったし、もしやまた新しい男の登場かと薫は身を引き締めたが、話の最後で女性だということが分かった。

「その方とは、どういう血のつながりで? もっと詳しく話しては頂けませんか?」

「私にも本当の話かどうかは……。何しろ私にとっても突然降って湧いたようなお話で、しかも遠い昔にさかのぼることですし……。父からは微かに聞いていたような気もしますが、とにかく父の恥にもなるようなことなので」

「もしかして、その方とは……」

「私の、腹違いの妹でございます」

「そんな……」

 薫は驚いた。大君と中君のほかに、故宇治の宮には彼女らの異腹の兄となる子はいる。しかし、中君の異腹の妹というのは初耳だった。

「どうせそこまで言われたのですから、もっとお話し下さい」

「私もまだ詳しくは、存じてはいないのですけれど」

「しかし、姉上とそっくりということであれば、どんなことでもお聞きしたい。人型というわけではありませんけれど、あの長恨歌の漢皇の気持ちですよ」

 薫はさらに御簾に近づいた。中君はほんの少しの沈黙の後、口を開いた。

「亡き父がそうだとお認めになっていたわけではないことを、こんな軽はずみに口に出していいものかどうかと思いますけれど、幻の絵を描く人を求めんばかりのお心がお気の毒ですので、申し上げましょう」

 中君はまた、言葉を切った。薫は息をのんだ。再び話しはじめた中君の口調は、ゆっくりとしたものだった。

「その方は遠いところで暮らしておられたようですが、最近になってつてを頼り、私のもとへその母親が連れてきました。その人の将来のこととかを案じておられるご様子で、本人の姫も田舎暮らしにしてはそう見苦しい方には見えませんでした。唐突な話でしたが、その姉君にそっくりなご容貌から、あながち嘘ではないのかもと思いまして。でもですね、もしあなた様が姉上の形見としてその方を所望しましても、ご身分がつりあわないのではと」

 そこまではまだ言っていないのにと、薫は苦笑した。

 だが、まるで心の中を中君に見透かされたようで、恥ずかしくもあった。しかし、できすぎている話のようにも思う。物語などではよくある展開なだけに、どうしてもその真実性を疑ってしまうのだ。

 もしかしたら中君が薫の心を自分からそらすために考えた話ではないかとも思ってしまうが、道ならぬ思いをとがめるでもなくこのような作り話で気をそらさせようとするのも中君の思いやりかもしれないと思った。

 だから、中君の思惑とは逆に、ますます中君の人柄に引かれてしまう。

「では、もう夜も更けましたから」

 薫がぼんやりといろいろ考えているうちに、その言葉を残して中君は突然奥に入ってしまった。薫はその素早さに、何も言葉がかけられないくらいであった。

 やられたと思ったが追って入ることもできず、薫はため息とともに帰宅することにした。

 その晩、彼は眠れなかった。中君のことは、考えれば考えるほど苦しくなる。夫ある身なのだから、仮に自分が中君に恋をしたとしてもどう転んでも成就するはずのない恋である。

 例の大君に似ているという異腹の妹の話もどうも眉唾で、たとえ本当だとしてもその心を手に入れられる自信はない。

 心が自分にない女を力で手に入れたとしても、虚しさが残るだけだ。だから薫は、その話にはさほど関心を持ってはいなかった。

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