故宇治の宮の三回忌に、薫は久々に宇治を訪ねた。

 中君の同行を願う申し出は、やはり夫の匂宮を差し置いて自分の独断で承諾するわけにはいかず、その願いをかなえてあげることはできなかった。

 すっかり秋は深まり、宇治の宮の死というあの衝撃を受けた日と同じ季節となっていた。あれから二度目の秋である。何度となく通った木幡の山道であるだけに、今でもそれを越えて宇治にたどり着けば宇治の宮の笑顔に迎えられ、そしてその娘たちとのはらはらする展開が繰り広げられるのではないかという錯覚に陥ってしまう。

 宇治の川風も、激流も、そしてそれらを見下ろす山も、橋も、何もかもが昔のままだからだ。

 だが山荘に入った途端にそのような幻想は打ち砕かれ、現実が目の前に立ちふさがる。山荘は静まり返っていた。まるで無人の空屋敷のようだ。それでもここで、弁の尼が暮らしているはずである。

 薫は案内もなく自ら身舎もやに入り、従者に呼びに行かせた弁の尼を待った。隣の部屋との間には御簾が下ろされているが、薫はこうして待っていれば今にもその御簾の向こうから大君の衣擦れの音が聞こえてくるのではないかと虚しい空想をしていた。

 弁の尼は、廂の方から入ってきた。

「これは、これは。もう老いさらばえて、このような醜い姿をお見せするのは恥ずかしい限りなのですが」

「いえいえ、ともに昔話ができる貴重なお方なのですよ、弁の尼様は」

「こんなしわくちゃのお婆さんがお相手では、お気の毒でございますが」

 座るや否や、老婆はすぐに目に涙を浮かべていた。

「中君様のことを案じて大君様がお心を痛めておられたのも、お父宮様の一周忌の頃でしたから、ちょうど去年の今ごろでございましたかね。その時も秋風が余計に身にしみて感じられておりましたけれど、今年はそれにも増して……。都では大君様が生前にご心配になっておられたようなことになっていると、こちらにも噂は流れてまいります」

 薫は自分が責められているような気になって目を伏せ、そのまま小さな声で言った。

「すべては、この私の不甲斐なさのせいです。ただ、世間ではよくあることでして、決して兵部卿宮様の本意ではないのですよ」

 薫はそのまま、ため息をついた。彼までもが、涙があふれそうになってきた。

 そのうち、やはり従者に呼びに行かせていた寺の阿舎利がやって来た。まずは、故宇治の宮の三回忌の打ち合わせである。それがひと通り済むと、薫はあらたまった口調で阿舎利に言った。

「実はこの山荘のことですが、ここへ来ても亡き人を思い出して嘆くばかりで、かえってそれが成仏の妨げになってもと思うのですよ。ですからいっそのことこの寝殿を寺の脇に移築し、お堂にしたらいかがかと思うのですが」

「おお、それはよいことですね」

 阿舎利は嬉しそうにうなずいた。薫はさらに続けた。

「思い出の建物を壊すのも無情のように思われますが、亡き宮様もその方がお喜びになるでしょう。ここをこのまま寺にしてもと思うのですが、この山荘の主はあくまで兵部卿宮様の北の方で、いわば兵部卿宮様の御領も同然ですから、私が勝手にこの山荘を寺にするわけにもいきますまい。だから寝殿を移してお堂にし、そのあとには新しい御殿をと考えたのです。それなら文句は出ないと思います」

「いやいや、まことに殊勝なお心ですな。昔、死別した人の遺骨を包んで長年首にかけておりました人が、仏様の方便によって説得されてその袋を捨て、それで仏道を成就したという話もあります。執着ほど、仏道の妨げとなるものはございません。ですからこの寝殿を移すというのも、執着を断つという意味ではよろしいことかと存じます」

「ええ、ええ。仰せごもっともで」

 と、薫の脇にいた弁の尼も口をはさんだ。薫は尼を見た。

「それならば、弁の尼様は新しい寝殿ができますまで、ご不便をおかけしますが廊の方でお暮らし下さい。しばらくのご辛抱ですから」

「ええ、ええ」

 弁の尼は、また墨染めの衣の袖を目に当てていた。

 亡き宮の法事はその翌日に寺で行われることになっていたので、薫はそのまま山荘に泊まることになっていた。打ち合わせも済み、阿闍梨は寺に帰った。

 灯火がともされた室内には、薫と弁の尼の二人だけとなった。女房の耳を心配することもないので、今では堂々と薫の実父である多武峰少将の話をすることもできた。

「少将様の事件の時は本当に気をもみましたが、今こうしてその実のお子様にお会いできるというのも、決して浅からぬ因縁でございますね。長生きしますといろいろ辛い目にもあいますが、またこのようなこともあるものです。兵部卿宮様からは、たまには都に上って中君様に会って差し上げるようたびたび言われておりますが、今ではこのように縁起でもない身になっておりますし、もう阿弥陀様以外には会いたいお方はおりませんよ」

 涙の中にも、弁の尼は苦笑を浮かべた。

「今、中君様にお会いしましたら、中君様によく似ていらっしゃった大君様を思い出して辛うございます」

 その尼の言葉に、薫はふと中君の話を思い出した。似ているといえば、大君によく似たもう一人の妹がいると、中君は言っていたのだ。今まで気にとめていなかったが、ちょうどの機会だから弁の尼にも聞いてみようと薫は思った。

「ところで、つかぬことを伺いますが、弁の尼様はあの姉妹にはもう一人腹違いの妹がいるという話を聞いたことはありませんか?」

 しばらくはびっくりした顔で、弁の尼は薫を見ていた。

「どうして、そのことを……?」

「では、本当なのですか?」

「は、はい」

 言いにくそうに目をそばめながらも、弁の尼はうなずいた。薫は膝を進めた。

「そのお話は、どちらで?」

「実は中君様のもとに訪ねてこられたと、中君様ご自身から」

 尼はため息をついた。

「そうですか。今、都においでとは知りませんでした。私も人から聞いた話ではありますが、亡き宮様がまだ源姓の左大臣でいらっしゃった頃、大君様たちのお母上が亡くなった後に、中将の君という呼び名でお仕えしていた女房が宮様よりお情けを賜ったとか」

 薫は耳を疑った。俗聖ともいわれた人にそのような過去があったとは意外であった。弁の尼は話し続けた。

「宮様も、お寂しゅうございましたのでしょう。その後、中将の君は姫を出産しましたが、宮様はそのようなことを恥と思われたらしく、中将の君には暇を出し、その姫もご自分のお子とはなさいませんでした。それから中将の君はある方に嫁ぎ、その方が陸奥守となって任国に下った時にともに行かれたそうです。そして、夫君の任明けて上った折に姫の成長を宮様にお知らせしましたところ、宮様は全く取りあっても下さらなかったということなんです。それからその夫君は今度は常陸介となって、ご家族ともどもまた下っていったとのことですけれど」

「その姫は、今ではおいくつに?」

「さあ、もう二十歳ぐらいになりますでしょうか」

「大君に似ているというのは、本当なのだろうか」

「さあ、そこまでは……。ただ、その母親である中将の君とは、宮様の北の方様の姪御さんといいますから、あるいは」

 薫は、少し考え込んでいた。中君の話は作り話ではなかったようだ。

「分かりました。もしつてがありましたら、その姫君の後見うしろみは私がしてもよいとお伝えください。亡き人の縁故ゆかりの人ですから、捨ててはおけません。たとえ宮様がお子としてお認めになっておられなかったとしても、大君様や中君様のお身内であることには変わりはありません」

「では、そのうちお父宮様のお墓参りにこの地にいらっしゃるかもしれませんので、その時にはそのようにお伝えしておきましょう」

 その話は、それで終わりとなった。だが、薫としても雲をつかむような話なので、申し出たとしてもそれほど真剣ではなかった。だから、翌日の法事の時には、その姫のことはもう忘れていた。

 その法事も無事に終え、薫はその日のうちに帰途についた。途中、山道では一本だけ一足先に紅葉している木を見つけたので、薫はその小枝を従者に折らせておいた。

 都に戻ると、その小枝を添えて薫は中君に文をしたためた。宇治の様子を伝えると同時に、山荘の寝殿を移してお堂にすることに対する承諾を求めるというのがその内容だった。承諾の可否は直接弁の尼へ返事をしてほしいと書き添えたが、匂宮がのぞくことも予想して余計なことは書かなかった。

 すぐに中君からは返事がきたが、法事のお礼のみで自余はない事務的なものだった。そして薫はまたすぐに、公務に追われることになる。


 この秋から冬にかけて、世の中には物騒なことが多かった。摂政の弟である天台座主が辞任し、大僧都が新しい座主に任じられることになったが、その勅使である源少納言が山中で法師百人に登山を妨害されるという事件も起こった。

 また、大原野祭でも従者同士による乱闘事件があり、殺傷沙汰にまでなってしまった。だから、蔵人の薫は大わらわだった。

 吉事としては、新院法皇や東宮の弟である冷泉院三宮の加冠の儀があった。場所は冷泉院の御所ではなく、その亡き母親の里邸である摂政の東二条邸だ。

 主筋の祝い事として薫も参列したが、薫にとっては慶弔こもごもで、宇治で大君の一周忌の法要もあった。新嘗祭や豊明の節会が終わってすぐのことだったので、蔵人の薫としては身がいくつあっても足りない状況であった。

 大君の一周忌にもまた中君は同行をせがむ文をよこしたが、ここのところほとんど匂宮が屋敷にいて対面もかなわない。匂宮が二条邸に篭もりきりということは、自動的に摂政の六の君の所へは通っていないことになる。

 そうしてついに摂政自らが二条邸の西ノ対に、匂宮のご機嫌伺いに出向くという事態すら起こった。そこで摂政は中君とも物越しで対面したと聞く。


 その摂政は、暮れになってから太政大臣に就任した。前太政大臣の他界からずっと空席になっていたポストで、摂政の念願だった地位である。摂政就任時は右大臣であった彼は、摂政でありながら前の太政大臣と源左大臣の下にいることに甘んじることができず右大臣を辞任したが、それ以来ずっと令制官職のないまま摂政のみを務めてきたのである。これで晴れて摂政は大臣おとどとなった。

 そしてそれを機に、摂政はもう一つの念願をも実現させようとしていた。それによって薫がまた多忙に追い込まれるであろうことは、十分に予想された。

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