薫はしばらくは二条邸の中君に会いに行くことは控えた。匂宮がほかの女と結婚をした直後に薫が中君を訪ねたりしたら、痛くもない腹を探られかねない。

 だから薫は、しばらくは宮中での公務に没頭していた。蔵人という役職は、十分没頭できるだけの激務を与えてくれた。

 その日も薫が三条邸に戻ったのは、暗くなってからだった。それからどこに通うわけでもない。

 薫はいつものように、女房たちに束帯から直衣に着替えさせていた。その間に、別の女房がふみを一通持って来た。

「二条のお屋敷からでございます」

「二条?」

 姉か、匂宮か、それとも……薫は慌てて文を開いた。結文というような色めいたものではなく、事務的な奉書形式で文も散文だったが、仮名文字であった。紛れもなく、中君の直筆だ。

 月が変われば宇治の宮の三回忌となるので、薫はその法事について阿舎利にいろいろと指示してものなども送っておいた。そのことが阿舎利から中君にも連絡がいったらしく、今届けられたのはそのお礼の手紙であった。

 だが、その短い文面の末尾には、「お会いして、直接お礼を申し上げたい」というような意味のことが書かれてあった。

 薫は一種複雑な思いだった。明らかに中君の方から、薫の二条邸来訪を促してきたのだ。今までにないことに薫が狐につままれたような気になったのも無理はないが、心がときめいたのも事実である。

 だが、匂宮の摂取六の君との結婚で相当気がめいっていらしいことは容易に想像できる。何しろ、中君の方から薫を訪ねてくることはできないのだ。

 薫はとりあえず返事を出しておき、翌日は早々に宮中から戻って夕方には車を出し、はでやかな直衣で出かけた。

 通されたのは簀子どころか廂の間でもなく、身舎もやの中であった。さすがに中君との間には御簾が下ろされており、御簾の内側には几帳も立てられていた。その几帳の向こうに、中君はいるらしい。

 匂宮はいないようなので、薫はそのことを聞こうと思ったがやめた。冗官の彼が不在となると、行き先は新しい妻のいる東二条邸に決まっている。言えば中君を傷つけるし、また言う必要もないことであった。

「お文を拝見しまして、お招き下さったものと心得て参上しました」

 薫は御簾ぎりぎりの所まで寄って、取り次ぎの女房にではなく几帳の向こうに直接語りかけた。

「いろいろとお心遣いを頂きまして」

 中君の声は、近かった。几帳のすぐ後ろ、つまり薫のすぐ近くにいるらしい。

「このままお礼も申し上げぬままではと、心苦しう思っておりました。本当に蔵人弁様とのご縁がなければ、父もその死後がどんなにみじめだったか」

 すぐ近くにいて、直接に中君は話をしてくれてはいる。しかし御簾と几帳がとてつもない距離を作っているように、薫には思われた。

「お言葉がよく聞き取れません。こちらも、いろいろと申し上げたきことがございます」

 衣擦れの音が、その返事だった。中君はさらに近く、几帳すれすれの所まで寄ってきたようだ。

「人生の果かなさを、身にしみて感じているこのごろです」

 その声は、さらに近くなった。

「人の世は、いろいろございましょう」

「これも宿世かと……」

 中君は、決して匂宮の悪口や恨み言は言わなかった。そのような女なのだ。

「先日も、お願いした件ですけれど……」

「宇治へということですか……」

 どうやら中君が、薫を二条邸に誘った本意はここにあったらしい。

「兵部卿宮様とはご相談されましたか?」

「いえ」

 小さな声であった。

「それはよろしくない。やはり何といっても夫君なのですから、だれよりも先に兵部卿宮様にご相談申し上げて、そのお考えを聞くべきでしょう。私などが、差し出がましく口を出すべきことではないと存じますが」

「それはそうなのですが、しかし……」

「夫君の言われることに、従うべきですよ。もしそれで兵部卿宮様のお許しが出ましたならば、私は喜んでお供いたしますけれど」

「それは……」

 匂宮が承諾するはずはないことは承知しながら言っているのだから、ずいぶん意地悪な言い方だと薫自身でも思っていた、だが、こうなったら意地悪ついでである。

「それに、もし宇治へ行って、何もかもが昔どおりに戻りますものならば、私は協力致しますが……」

 中君の返事はなかった。気分を害したかなと、薫は失言を悔いた。やはり中君は、

「今日は気分もすぐれません。また今度、具合のいい時にゆっくりと」

 せっかく中君の方から招かれて訪ねてきてこんなに近くで直接話をしているのに、その時間はもう終わろうとしている。とにかく今は、中君を引き止めたかった。

「いつに致しましょう。宇治に行かれるのは」

 中君を引き止めるための、薫の方便であった。頭で考えたことではなく、感情が先走りして口を突いて出た言葉だった。中君の、奥へ入ろうとした動きが止まった。

「来月の、父の三回忌にはこっそりと。おおっぴらにしては、いろいろとことが面倒ですから」

 自分が恋い焦がれていた女性の、そん形見ともいえる存在の女性の声だ。その声が消えていこうとしている……薫は、そんなことを考えていた。顔中が上気して、頭の中も白くなっている。

「紫の匂へるいもを」

 薫は、小声で口ずさんだ。中君には聞き取れなかったらしい。

「え?」

 と、聞き返してきた。我ながら古風な歌を口ずさんだものよと苦笑しつつも、次の瞬間には薫の指は御簾の下に延びていた。そして、中君の服の裾をつかんだ。

 もはや御簾の向こうの声は中君なのか、もういないはずの大君の声なのか、だが彼の中でその両者は混然一体化してしまっていた。

 慌てた中君は、勢いよく身を引こうとした。だが、それと同時に、薫は御簾の中へと身を滑りこませた。

 やってしまった……と、薫の中の醒めた部分が自嘲する。だが、そんな醒めた部分は、すぐに溶解してしまう。気がつくと薫は、中君の体を抱き寄せていた。そして慌てて顔を隠したその中君の腕をも、力を入れて押し下げた。

「ひどい、ひどい」

 中君は、抵抗の代わりに涙を流して震えていた。

「いけません。お許しください」

 涙に混じりながら中君は訴えていた。思えば悪い癖で、実直なはずの彼が一旦心に火がつくと、このように爆発するのである。

 ところが常のこととして、そこに妙な自戒心が飛び込んでくる。このときとて例外ではなかった。いざ爆発して突進しても、それ以上は進めないのだ。

 そして少しばかり、薫は正気に戻った。

「宇治へこっそりとというお気持ちが本気なのかどうか、こうして隔たりなく確かめたいと思っただけですよ」

「ひどい。心外です。私は人の妻なのですよ。もし女房たちが告げ口でもしたら……」

 その女房たちは、もういなくなっている。薫の胸はさらに高鳴った。

 だが、薫は手を離した。もうかなり正気に戻っていて、これで十分だと思ったからだ。今ここで中君と、これ以上のことをする気にはなれなかったし、またできなかった。自分の心情が許さないだけでなく、今の中君の人妻という立場からすれば世間も許しはしまい。

「どうか、そんなにお怒りにならないで。身内同然じゃありませんか。前にもこうして、物越しではなく一夜を過ごしたこともあるでしょう。私にも分別はあります。これ以上のことは致しません」

「もう十分、分別がおありではない」

 中君は泣き崩れていた。

「大丈夫、私は人畜無害です」

 我ながらよく言うと、薫は思う。それでも中君は、泣き崩れているばかりであった。その震える背中に、薫はそっと触れた。しかし、そこまでだった。

 もはや、夜も更けていた。前にこうして中君と一夜をともにしたときは、中君はまだ独り身であった。だが今は事情が違う。このままここで朝を迎えたりしたら、屋敷の人も世間も自分を中君の不倫相手としてしか見なくなるだろう。

 匂宮の耳にも入る。それはまずい。中君に対しても気の毒だ。

 だから薫は泣いている中君にひと言だけあいさつをすると、そのまま退出した。

 帰りの車の中で薫は、中君が妊婦であることを示す腰帯をちらりと見たことを思い出した。そして、自分の分別に安堵した。

 最初は大君と、二度目は大君の計らいで中君と、物越しでなくともに夜を過ごしながら何もしなかった。今度で三度目だが、そこで人妻と間違いを犯したのだったら、匂宮との縁もそれきりとなったであろう。

 それでも心の中には、三条邸に着いてもまだ中君の面影が付きまとっていた。道ならぬ恋をしてしまったのか……それとも亡き人の形見として代用品と恋をしているにすぎないのか……いずれにせよ薫は、今から二条邸にひきかえしてもう一度中君に会いたいという衝動を抑えるのが必死だった。

 袖にはまだ、中君の移り香が残っている。対の屋への細殿を歩きながら腕をかいでみた時、薫ははっとした。

 人々の間でも有名な自分の体の香りである。それが移り香となって中君に移っており、それを匂宮が聞いたら……ふと心の中に寒いものが走った。

 だが、今さら気をもんでも仕方がない。自分は潔白なのだと心を落ち着かせて、対の屋へと薫は戻った。

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