5
都に戻った薫は、約束通りに一日おいてから、弁の尼を迎える車を宇治へと遣わした。まだ夜も明けやらぬうちに気心の知れた侍を一人供につけ、牛飼童も自分の家のものだと世間にあまり知られていないものを選んだ。
あとは薫は普通通りに出仕し、公務をこなしていた。だが、やはり心そこにあらずで、弁の尼が素直に自分が遣わした車に乗るかどうかは不安だった。強く再度上洛を促す手紙を侍には言い付けたが、何しろへんに強情なところのある尼である。だから気がかりで、薫は仕事も手につかなかった。
この日の薫は内裏ではなく太政官の方にいたが、周りにいる弁官たちも仕事が人生のすべてで出世だけを考えているような
だが薫は、そのどちらにも属していなかった。
とにかく薫は、仕事が終わるのが待ち遠しかった。内裏での政務はたいていは昼頃には終わるが、蔵人や弁官はそうはいかないところが辛い。
やっと薄暗くなってから三条邸に戻ると、尼君を迎える車につけておいた侍が、もうそこにはいた。そして、尼君は無事に姫のもとへ送り届けたとのことだった。そうしてようやくその侍の口を通して、薫は姫の居場所を知ることができた。同じ三条の、少し東に行った河原の近くだという。
薫は束帯から直衣に着替えさせながら、居ても立ってもいられなくなり、着替えが終わるや否や先ほどの侍を呼んだ。
「すぐに車を出してくれ」
「え? 今からですか?」
「早く」
自分に都合の悪い言い付けには侍というものは文句を言ってなかなか従ってくれないものだが、そのような時は威厳を示すかさもなくはなだめすかすしかない。
「向こうへ着いたら、五条なりどこなり行っていいから」
薫は砂金の小袋を一つ、侍に投げてやった。五条とは、遊女の里である。そのような所へ侍に行っていいと言ったことは、自分も朝まで帰らないということを宣言したようなことになって気恥ずかしかったがいいにして、薫は車に乗り込んだ。
そして車の中で、薫はいろいろと考えた。まずは、弁の尼を訪ねて宇治から来たということにしておこう……そして弁の尼に会って首尾を聞こう……姫との対面はそれからだ……いつのまにか、そんな計画までできてしまっていた。
もう、外はすっかり暗くなっていた。まるで
空は曇ってあるはずの月を隠し、
姫の隠れ家は暗くてよくは見えなかったが、本当に小さな家のようだった。それでも一応塀はあって、門もある。薫は車のまま門をくぐった。そしてその後は車の中で考えた通り、まずは弁の尼と対面した。
「どうでしたか?」
「はい。一応お心はお伝えしておきました。乳母殿にもお伝えしましたところ、乳母殿はすぐに人を走らせて、母君と相談申し上げると申しておりました。もういいかげん子供ではないのですから、ご本人のお心にお任せなさってはどうですかとは言っておきましたけれど。それにしても、薫の君様が直接お越しになるとは……」
「尼君をこれ以上煩わせ申し上げるのも気の毒ですしね。いつまでも人任せではだめだと思いまして」
「でも、何も今宵ではなくても」
いつになく性急な薫の行動に、尼君も戸惑っているようだった。それも当然で、薫自身も自分の行動に戸惑っているのだ。何か目に見えない力に背中をぐいぐい押されているようで、まるではじめから筋書ができていたことのごとく、後戻りはできない時間を薫は感じていた。
「今宵しかあり得ないんです。今宵こそ姫に直接お会いして、今後の生活のことなどのご相談に乗りたい」
それには今ここに尼君がいることが、薫にとっては限りなくありがたかった。尼君が乳母と相談している間、薫は立ち上がって簀子に出てみた。いつしか雨も本降りになって、狭い庭をうがっている。
「この車、何とかならないのか」
庭でこの家の使用人の侍たちが言い合っているのが聞こえてくる。車の主が簀子にいることは、夜の闇で彼らには見えないのだろう。
「こんな中途半端な入れ方されだら、門が閉まんねえよ」
「んだな。偉いかだだろうけど、とんでもねえ牛飼童を連れでるなあ」
「何とかごの車、動かしでぐんなかっぺが。ただでせえ、ごの雨だっていうのに」
その東国訛りが、薫の耳にはかえって新鮮に聞こえた。自分の従者を呼んで車を動かせようかとも思ったが、それでは彼らの悪口を聞いてしまったことを知らせることになり、ばつの悪い思いにさせるだろうと薫はあえて黙っていた。
それにしても侍たちの東国訛りといい、草深い狭い庭といい、ここは都ではなく東国なのではないかという錯覚さえ覚えてしまう。
薫にとっては見たこともない東国という土地ではあるが、旅情をかきたてられる。
そしてなるほど「
その時、
「どうぞ、こちらへ」
と、背後で声がして、女房が薫を廂の間まで招き入れた。そこに薫の座があった。
はじめはこんなものだろうと、薫はその冷遇も納得していた。ところがそれからかなりの時間待たされ、薫はずっと緊張のしっぱなしだった。
ようやく衣擦れの音が、遣戸の向こうに聞こえてきた。戸が女房の手でほんの少しだけ開けられた。そこで薫は、堰を切ったように言葉をかけた。
「姫君の御身の上は、すべて承っております。私はお父宮様とはかねてより懇ろにして頂いていたもので、今日は姫君をあくまで宇治の宮様の三の君様としてお伺いさせていただきました」
姫からは、何の答えもなかった。どうやらはにかんでうつむいているようだ。
「おそらくは、このような対面は初めてなのでしょう」
「はい」
うわずった、微かな声だった。御簾越しならおぼろげにでも体の輪郭ぐらいは分かるが、こうもわずかに開いた遣戸越しでは何もかもが見えない。
「私もこのようなところに席を頂くのは、慣れておりません。こんな遣り戸を造った大工が恨めしいですよ」
また、返事はなかった。
「お父宮様は私をまるで実の息子のように遇して下さいました。あなた様の姉上様とは、今でも親しくお付き合いさせて頂いております。夫君も、私の親類で幼なじみですしね。だから姉上様とは、対面もこのような物越しではございませんよ」
それは嘘であるが、嘘も方便である。
「ですから、中に入れて頂けませんか?」
返事がないのをいいことに、薫は静かに遣り戸を開け、立ち上がって中に入った。姫は座ったまま後ずさりしたが、扇で顔を隠すまでもなく驚いて薫を見ている。そして、
薫は唖然としながらも座った。
「私の気持ちを察して下さり、かたじけのう存じます」
大仰に、薫は頭を下げた。それでも姫は、身を固くし茫然としているだけだった。だが決して痴呆的ではなく、貴種としての気品は保っていた。
「都には、もう慣れましたか?」
「いえ、まだ、何もかもが慣れずに……」
口数少なく、そのまま目を伏せる様子も艶な様子であった。この女をほんの一瞬たりとも匂宮が胸に抱いたのかと思うと、薫の中に湧き上がってくる何かがあった。
匂宮に引けをとってはいられない。それよりも何よりも、そもそもは後見の申し入れという名目での今日の対面だったはずだが、実際に姫を目の前にした薫の心の中で熱い結晶が芽生えてくるのを禁じ得なかった。はじめはあくまで大君の形代という意識があったが、今はそれは口にしない。
「私は、ずっとずっとあなたに恋い焦がれていたのです」
突拍子もない薫の言葉に、姫は少しだけ驚いて顔を上げた。だが、驚いているのは薫本人もであった。
「私のような
「いえ、そんなことは……」
雨の音はますます激しく、東屋の屋根をうがっていた。姫はそれを気にしている。
「恐いですか? 大丈夫。私のそばにおいで、守ってあげる」
それでも姫は、身を固くしていた。匂宮の突然の闖入の時は、ずいぶん恐い思いをしただろうと思う。いきなり見ず知らずの人に抱きすくめられたのだ。
だから、薫はその時の恐怖を姫の中で再現させたくなかった。しかし、このまま語り合うだけで終わらせるつもりもなくなっていた。
「さあ、おいで」
薫は両手を広げた。あくまで、姫の自由意志に任せたのである。
姫はだいぶためらっていたが、ゆっくりと薫に身を任せてきた。薫は直衣の袖で、その体を包みこんだ。見下ろしたところに、姫の髪がある。それを優しくなで、しばらく薫は無言でいた。姫は依然として全身を硬直させていたが、薫が何回も髪をなでるうちに硬直は解け、薫に全身を預けてきた。姫の顔は、薫の胸元にあった。
「これからのことは、すべて私に任せなさい」
姫は薫の腕の中で、ゆっくりとうなずいた。
「すべて私が、いいようにして差し上げる。暮らし向きのことも何もかもね。あなたのお父君には、ご恩がありますから」
「私は一度も見たことのない父です。その父のために私を?」
「それだけではないのですよ。だれよりもいとしいあなたのために」
言いながらも薫は、どうしてこのような言葉が次々に自分の口から出るのか不思議だった。歯が浮くようなこういった言葉も今夜は自然に感じられるのは、状況に酔っていたからかもしれない。自分にこんな瞬間が来ようとは、薫は今まで思っても見ないことだった。
薫は姫に顔を上げさせた。そしてその頬に自分の頬を重ねる。姫のぬくもりが伝わってくる。薫の心は、もう熱しきっていた。別に匂宮に勝ちたいがためではなかったが、この時薫は突き進む決心をした。自分がこの女性を心から愛している
匂宮の時はガマのような顔をしてにらみつけていたという乳母も、今日はいない。弁の尼が気を聞かせて乳母を言いふくめたのであろう。
薫は姫を抱き上げ、寝所の畳の上の
薫は姫を、褥の上に仰向けに寝かせた。
「恥ずかしい」
少しだけ姫は抵抗したが、それは本気の抵抗ではないようだった。小さな胸が、大殿油の微かな光の中にあらわになった。
そこに、薫はまた顔を当てた。肌を味わう。香の香りとは別の、体の香りがそこにはあった。姫はなすがままというわけではなく、それでいて抵抗もせずにすべてを薫に委ねていた。初めて会った男にここまで許すというのは不思議といえば不思議ではあったが、薫の頭はそのようなことを考えている余裕はなかった。いずれにせよ、奇跡に近い状況の中に薫はいた。
姫はずっと、小さな声を発し続けていた。愛する人との交じらいがこんなにも素晴らしいものであったのかと、終わった後に嫌悪感が全くなかったことによって薫は知った。
もう、言葉はいらなかった。薫はいつまでも姫をきつく抱きしめていた。
姫にとって薫が初めての男であったことは、その反応で分かった。初めて会ったその日にここまで突き進むことになろうとは、昔の薫なら考えられないことであった。
大君とも中君とも、そのような状況はあったのに突き進むことができず、物越しでないのに手も触れずに語り明かしたものだった。
しかし今の薫は、あの頃の薫とはもう違う。そして今日を境に、またもや自分の人生が大きく変わると薫は実感していた。
薫の胸は熱かった。しかしそれは胸の内側だけでなく、その胸に顔をうずめている姫の体もまた熱かった。そしてまた髪をなでる。そこには豊かな香りが満ちていた。
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