まだ梅雨も明けやらぬ頃、つまり前関白の入道太政大臣の出家から数日しかたっていない時に、新体制として小さな人事異動があった。

 新関白内大臣の長男の頭中将が二十歳で参議に列し、宰相中将と呼ばれることとなった。

 後任の蔵人頭は右大弁春宮権亮で、これからは頭弁と呼ばれる。内大臣としてはあまり好ましくない人物だったが、いかに関白になったからとてまだ父が在命である以上は何もかもが自分の思い通りにできるわけではなかった。

 その父――前関白入道太政大臣である。梅雨も明け、例年の猛暑が盆地を襲い、やがて暦の上でだけ秋になった頃に急に容態が悪化した。

 帝までもが気分がすぐれぬとて寝込んでしまわれたその矢先のことで、天下に大赦が行われ、修法もあらゆる寺院で隈なく行われた。かつての東二条邸も寺としての様相を調えつつあったが、その中での入道の重態だった。

 薫も匂宮も、東三条邸に詰めっぱなしとなった。もはや姫がどうのこうのといっているどころの騒ぎではない。気にはなるが、姫の行く先を探しているような余裕は今の薫にはありそうもなかった。匂宮も薫にその姫がいなくなったことを告げてきたが、彼とてなすすべもないことは同様である。


 そうこうしているうちに、とうとう前関白入道太政大臣は東三条邸にて、六十二歳で薨去した。


 これで内大臣以下その弟の右中将、権大納言、権中納言らはすべて服解ぶくげで任を解かれることになる。

 内大臣はこれよりも先に、関白から摂政になっていた。いくら加冠を終えたとはいえまだ少年の帝であるから、摂政の方がふさわしいということになったのであろうが、内大臣の職は服解で解かれても摂政はそのままだった。摂政不在で左大臣と右大臣だけでは政治が動かないような仕組みにすでになっていたからだ。

 いずれにせよ摂政を除く故入道太政大臣の子息たちが宮中からいなくなったので、宮中は少しだけ静かになった。帝にとっても故入道は外祖父なので三カ月、匂宮には舅なので一カ月の服喪期間となった。また薫にとっても故入道は表面上は外祖父なので、三カ月の服喪となる。


 その頃に、奇妙な噂が宮中に流れてきた。故人の遺児たちがしきたり通りに法事に明け暮れている中で、三男の粟田殿権大納言だけは下が土間となっている忌中の部屋である土殿にも篭もらず、暑いからといって御簾も巻き上げているという。さらには法事をするでもなく、人々を集めては『後選集』や『古今集』を広げて遊び興じているということだった。

 世人は新院法王の出家退位の時いちばん働いた自分が父から評価されなかったことを根に持ってのことだと噂したが、そのようなことはかれこれ四、五年も前の話である。

 そこで、自分が関白になれなかったことを根に持ってだという別の噂も立って、それが薫の耳にも入ってきた。

 ところが、その粟田殿権大納言と入魂じっこんの頭弁は羽振りがいい。しかし、いかにせん四十八という老齢者の仲間入りの年齢であった。


 故入道太政大臣の四十九日の法事は旧東二条邸が寺となった法興院で行われたが、それまでには服解した遺児たちもことごとく復任していた。

 これで名実共に摂政内大臣の天下となった。そしてそのあかしは、さっそく人事に現れた。

 まずは摂政内大臣にとって好ましくない人物だった頭弁を三位とした。これで頭弁は非参議の上達部となったわけだから形式上は出世ということになるが、その実は三位になっただけで蔵人頭や右大弁、さらに春宮権亮の官職はことごとく停止となった。すなわち、三位でありながら職掌は従四位下じゅしいのげ相当の勘解由使かげゆし長官だけが残った。

 そして蔵人頭の後任は摂政内大臣の次男、つまりこの時の宰相中将の弟である十八歳の右中将だった。この右中将は自分の父の次弟、すなわち叔父である右中将と同じ官職であったわけだが、叔父の先を越して頭中将となったのである。

 摂政内大臣はその叔父の方の右中将、つまり自分の弟への配慮も忘れなかった。摂政にとって異腹となるその弟は、さらにその弟であり摂政と同腹の権大納言や権中納言よりも出世の面で後れをとっていたが、この秋にようやく参議に列して宰相中将となった。

 こうなると頭中将よりは上だから、かろうじて甥に対する体面を保ったことになる。だが、同じ甥で、頭中将の兄はやはり同列の宰相中将なのであった。

 摂政が配慮を忘れなかった人物には、ほかならぬ薫も入っていた。薫は摂政の従弟いとこであり従妹いとこの婿でもある。薫は初めての摂政による除目で右小弁から右中弁となり、位も正五位下に除せられて新しい世の恩恵を蒙った一人となった。

 これからは自分の実力がものをいうわけだが、もともとは宮中における出世などには関心がない男だったので、薫はこの昇進を煩わしいとこそ思いもすれさほどうれしくは感じていなかった。

 ただ、重荷がどっと肩に乗ったようで、重苦しい心持ちとなっただけであった。その心を何とか洗いたいと思った薫は、そのためには都に閉じ込められているわけにはいかないと痛感していた。

 こんな狭い盆地に閉じ込められていたら自分がだめになる、息が詰まる……そう感じた薫は、ふと宇治行きを思いついた。宇治では御堂もそろそろ完成するであろうし、宇治の宮の忌日も近い。また阿闍梨とあれこれ打ち合わせをする必要もある。


 前に来たのはいつだっただろうかと、薫は宇治に向かう車の中で記憶をたぐってみた。思い当たったのは例の姫君と思いもかけずに同宿した時だったから、夏の更衣ころもがえの頃だった。そうなると、五カ月ぶりの宇治ということになる。

 たった五カ月でもなぜか久しぶりといった感じで、木々の一本一本までもが薫には懐かしく感じられた。そして宇治川の流れは、何一つ昔と変わることがなかった。それでも山荘のあった場所に形の違う新しい寝殿が建っているのを見た時は、さすがに今昔の感が一入ひとしおだった。

 弁の尼はすでにその新築の寝殿へと移っていた。本来は使用人である女房であった彼女だが、今は主人然として寝殿に住んでいるのも暗黙の了承であった。まだ白木の香りが芳しく、御簾も目新しいものばかりだった。部屋の中に二枚だけ敷かれている畳もまだ青い。さすがにこの日ばかりは畳の上の席は薫に譲って、尼君は木の床の円座に座った。

 建物は新しいのに、そこからから見る庭や川の風景が何も変わっていないことで、かえって昔が忍ばれてしまう。川向こうの故前関白入道の別業の木立の中の甍もまたその主を失って寂しそうではあるが、昔と同じ光景だった。

 新しい寝殿の新しい部屋の中を見回しながら、薫はここに来るまでにひそかに抱いていた期待が打ち砕かれたことを知った。もしや例の姫がここにいるのではないかと、薫はそう期待していたのである。いつも初瀬への行き帰りにこの山荘を、姫が中継ぎの泊まり所としていたことも薫は知っていたからだ。ところがその期待ははずれ、姫がここにいそうな気配は全くなかった。

 しばらく弁の尼と挨拶と世間話をした後、薫はきり出した。

「ところで、前にここで行き会ったあの姫君のことですが」

「ああ、はい」

「尼君からお聞きした縁談も破談になって、一時二条の中君様の所に身を寄せておられましたよ」

 尼は驚くかと思ったら、平然とした顔でうなずいていた。微かに笑みさえも浮かべている。

「ところがまた、行方不明に……」

「一昨日でございましたか、その姫君のお母上がこちらに来られました」

「え?」

 思わず薫は、身を乗り出していた。

「それで、何と? 姫は今、どこに?」

「方違えの場所をお探しになって、あちこち移り住みなさいましたようですが、今は小さなお家に落ち着かれたとのこと。隠れ家としては最適ということです。この宇治などもいい場所なのですが、何しろ山道が遠いからと……」

 薫が考えたことは、先方もまた一考していたようだ。薫は苦笑をもらした。

「私はその山道を何度も踏み分けて、この地に通ったのですよ。思えばすごい因縁ですね、この土地とは」

 それからまた薫は、ひとつため息をついた。その視線は格子の外の風景に向いている。ここで恋をし、そしてそれを失った。自分の青春のすべてがこの土地に凝縮されているような気もする。

「それよりも」

 薫は目を尼君に戻した。

「その場所に、尼君ご自身が行かれることはありませんか?」

「さあ、使いを遣わすくらいならできますけど、この尼が今さら都へなどとは……。二条のお屋敷にすら参っておりませんのに」

「確かにあれこれうるさく言う人もあるでしょうけれど、愛宕の山のひじりだって、場合によっては都に出ますよ。仏の誓いを破ったからとて、それが人救いだったら尊いことではありませんか。別に私は姫に懸想けそうをして、その仲立ちをしてほしいと言っているわけではない。哀れな姫君ゆえに、後見うしろみを申し出るだけなのですから」

「しかし……『人渡すことだになきを』とも申します」

「いえいえ。あさってには車をよこしますから、姫の居場所を調べておいて下さい。ご心配なきよう。私には変な下心はございませんから」

 いつになく強気な口調の薫だった。ここに姫本人はいなかったが、せめて手がかりだけでもつかめたことは収穫だった。やはり縁はあった。あきらめるのは早かったのだ。

「分かりました。薫の君様のお心もちはよく存じておりますので、妙な心配は致しておりません。その前に、ご自身でお文などを差し上げなさったらいかがでしょう。私のような老婆がしゃしゃり出ましたら……。先ほど、恋の仲立ちではないとおっしゃいましたが、世間はそうは取りますまい。尼のくせに仲人の真似事をすると笑われます」

「文を書くのはたやすいが、やはりこちらにもいろいろうるさい人々がおりますからね。文がばれて、こっちこそが『右中弁は常陸介の娘に懸想した』などともてはやされましても……。その常陸介というものも、相当田舎に染まった人というではありませんか」

「まあ、確かに。もとは都人なんでしょうけれど、すっかり向こうの人のようになってしまっておられるとか」

 尼が笑ったので、高ぶっていた薫の心も幾分落ち着いた。とにかく八方塞りだった人に対して、少しは活路が開かれたことになる。

 その後、寺で阿舎利との打ち合わせも済んで帰途についた薫は、木幡の山道でふと早い紅葉を見つけた。秋も深まったとはいえ紅葉にはまだ早い時分で、山の楓もまだ大部分が青いままだったが、このようにほんの所々には秋の風物が姿を現しはじめている。

 薫は車を停め、その枝を折らせた。三条の妻に土産にするつもりであった。故前関白入道の病から逝去と宮中が慌ただしく、三条の西ノ対には全く顔を出していなかったからだった。

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