もう、夕暮れも近い。宮中では新関白のもと、新しい動きが始まっていよう。

 蔵人たる彼が席を欠いていては、具合が悪い。そこであとは匂宮に任せて、薫は寝殿から退出しようとした。その薫だけを、匂宮は引き止めた。二人は庭に降り、ゆっくりと並んで歩いた。

「関白殿下がこのような時になんですが、二条邸の方で不思議なことがありまして。兄君なら何かお心当たりがおありではないかと思いましてね」

 薫はすぐにピンときた。だから、匂宮の顔をのぞき込むようにして見た。夕闇が迫っており、中天高くにはすでに半月が黄色い光を発しはじめている。ただ、雲の多い空模様で、その月もいつ雲に隠れるか分からない様子だ。

「ほう。不思議なこと……?」

 薫はわざととぼけて、そ知らぬ口調で言った。

「物の怪でも出ましたか?」

「いえ、そのようなのではなくて、まあ、いい話なのですがね。だいたい二条邸の西ノ対の主は私ですよ。その私が知らないことが起こっているんですから、それは不思議なことでしょう」

 もうほとんど薫には、匂宮の言う不思議なことの内容は分かっていた。たしかに中君は、例の妹姫のことは匂宮に告げてはいないと言っていた。

「いったい何が起こったのですか?」

 あくまで、薫はとぼけた。

「新しい女房が来たといえばありふれた話でしょうけど、それがどうも普通の状態ではないんです。急にたくさんの女房が来たんですよ。しかも、その中に一人、何かいわれのあるような若くて美しいのが……。しかも、一人だけ西廂の間に隠れるようにして暮らしている……」

「その人を、ご覧になったのですか?」

「見ましたよ。でもね、素性を言わないのですよ。袖をつかまえて、この胸に抱きしめてもね」

「え?」

 薫は心臓が止まる思いだった。実際に止まったのは足だけだったが、それでも怪しまれるといけないと思って、すぐに歩き出した。

「やはり、兄君は何かご存じだ」

 すぐに歩き出したものの、もうしっかり怪しまれている。

「まさか、その女房にお手をつけられたのでは?」

「いやあ、それが、変な婆さんがべったりくっついていて、気を利かせてくれたらいいものをガマ蛙のような顔でじっとにらみつけてきましてね。思い切りつねってやったんですが、それでも動かない」

 匂宮は苦笑していた。だが薫は苦笑どころの騒ぎではなかった。気が気でなく背筋が寒くなり、その顔も引きつっていた。危ないところであったが、姫の乳母のお蔭で救われたのだ。

「兄君。本当にお心当たりは?」

「なぜ私に、心当たりがあるのです?」

「その女房を見つけた日、私が戻ると、私の車とは入れ違いに別の車が出て行きました。それでほかの女房に聞くと、その日は兄君が来られていたというではありませんか」

「それは、いつのことです?」

「昨日の明け方の話ですけど」

「明け方? そりゃ確かに私はおととい伺いましたけど、昨日の明け方まで泊まったりはしていません。おとといのうち、しかも暗くなる前には帰りました。その足で高松邸の方へ行っていますから、お疑いとあれば家司を走らせて、高松邸の政所に尋ねさせて下さい」

「まあまあ、そう恐い顔をなさらなくても」

 匂宮が苦笑をしたところで、西ノ対から延びた細殿の中門を出て薫の車に近づいたので、立ち止まっての立ち話となった。

「兄君を疑っているわけではありませんよ。妻も、何でしたっけ、常陸殿とかいう女性が来たと言ってましたからね。なんでも亡くなった母上の姪で、うちのとは従姉妹いとこになる人だとか言ってましたけど」

「で、お方様は、その女房のことは何とおっしゃっているのです?」

「それが、素性を聞きだそうとしていたところへ関白殿下のご容態悪化の知らせが来ましてね、それでこちらに来なければならなくなってしまいましたし、昨夜もそのまま宿直とのいでしたから、まだ聞いていないんですよ」

 薫は冷や汗ものだったが、とにかく今は車に乗ってここから逃げようと思った。そんな薫の背を追うように、匂宮は言った。

「女房にしておくのは惜しい女性ですから、何か分かったら教えて下さい」

 この言葉が、いつまでも薫の耳に残っていた。

 車の中で薫は、大変なことになったとつぶやいた。姫はいくら中君もいる同じ対の屋に住んでいるからとて、相手が匂宮なら姫の身の危険は変わりない。

 絶対に危ない。いつ、無理やりにでも手をつけるか分かったものではない。

 しかも、今はまだ匂宮は自分が女房だと思っているその姫が、実は中君の異腹妹だとは知らずにいる。

 いずれにせよ、匂宮が姫に手をつけたら自分は匂宮を許さないだろう……と、薫は思う。

 しかし、匂宮との仲に亀裂が入るような状況にもしたくない……

 そこで薫は、やはり姫をあのままあそこに置いておくことはできないと痛感した。だが、ほかに移すあてなどあるわけもない。

 三条邸には薫自身の妻がいる。高松邸は妹がいる以上、そこもまずい。

 しかし同時に薫は、今の自分はまだ姫をどこかに移そうとあれこれ考える立場ではないということにも気づいた。いくら気をもんだとしても、傍観しかできない自分なのだ。それを思うと、余計に歯がゆく感じる薫であった。


 宮中では案の定、関白の交代による激務が待っていた。

 その日はそのまま、蔵人全員が宿直とのいを余儀なくされそうであった。そしてその翌日も、忙殺の二文字に押しつぶされそうな一日だった。

 そんな中で、薫は気持ちばかりが焦った。二条邸の西ノ対の姫君が気になってしかたないのである。

 ところがその翌日は、忙殺にさらに輪がかかった。前関白の入道太政大臣が東二条邸から元の東三条邸に戻るための大引っ越しで、そのために薫も駆り出されたのである。

 公卿たちの間にはこんなときに重病人を動かすのはどうかという意見もあったが、東二条邸は物の怪の噂も多く、そのような怪気みなぎる屋敷にいては治る病も治らないと主張する人も多かった。

 入道太政大臣の引っ越しと同時に、新関白内大臣の一家も、東宮も、そして西の対の六の君もすべて東三条邸に移ることになった。東三条邸は南北二町の大邸宅だからいいようなものの、それでもこれでは皆がひしめき合って暮らすという感は拭い去り得ない。

 この引っ越しは入道にとっては不本意であったが、関白内大臣が東二条邸は寺にすると決めてしまったのだから仕方がない。東二条邸は東京極大路と鴨川の間の部分にあって、すなわち京洛の外になるから寺とするのも可能だ。そのこと自体には入道も異存はないようで、さらに関白内大臣の新邸の普請も始まった。場所は朱雀大路に面した故前太政大臣の三条邸の東隣で、ここがその娘の登花殿女御の里邸となる。

 東三条邸は皇太后の里邸でもあるので、女御の里邸は別に造る必要もあっての今回の新邸の普請でもある。六の君は東三条邸に残るか新邸に移るかは、完成してからでないと分からないということだった。

 そのようなことであたふたとして、薫はいつも自邸に戻ると疲れてすぐに寝てしまう毎日が続いた。翌日もまた、朝早くからの出仕である。

 そんな中でも薫の二条邸の姫に対する関心は薄れず、ある晩意を決して、疲れた体に鞭打って行動を起こした。

 まずは、姫の住む所についてあれこれ言える立場に、自分が早くなることである。いきなり訪ねて行っても、姫にとって今はまだ見ず知らずの人である薫がいきなり対面できようはずもない。

 そこで薫は、ふみを書くことにした。初めて直接遣わす文である。


――前前から気にかけていました。私のことはお話には聞き及んでいると思います。縁故あるものゆえ、どうか話をさせて下さい……


 そんな内容の文だった。

 本当はもう少し姫の心が落ち着いてからとも思ったのだが、何しろ姫が住んでいる対の屋のぬしぬしだ。一刻の猶予もならないと薫は感じていた。

 文を託した侍には、まずはくれぐれも匂宮には見つからぬよう、そして今宵匂宮が屋敷にいるかどうかも同時に探ってくるように言い付けた。

 三条邸から二条邸はほど近い。使いはすぐに戻ってきた。匂宮はいなかったという。おそらく、まだ東三条邸に詰めているのだろう。

 ところが使いが言うには、匂宮だけでなく薫の目当ての姫も二条邸の西ノ対にはいなかったということで、薫の文はそのまま持ち帰られた。

 匂宮はいないようなので、薫はとりあえずそのまま直衣姿で二条邸に向かった。空には満月に近いまでにふくらんだ月があるはずだったが、曇っていたので闇夜同然だった。それでも、雨が降っていないだけましだった。

 二条邸に着くと西ノ対に直行した薫は、中君に対面を求めて事情を聞いた。

「実はこの対の屋には、けしからんことをするお方が一人おられまして……」

 嘆息混じりの中君の言葉に、薫はすぐにそれが匂宮だと分かったがあえて黙っていた。中君もやはり、匂宮が姫君を見つけてしまったことを知っているらしい。

「ですから厳重にお守りしようと思ったのですが、それが乳母殿を通して常陸殿のお耳に入ってしまいまして」

 中君は、伏せ目がちのまま話し続けた。

「常陸殿とは……」

「姫の母上の、かつての中将の君のことです」

「それで、その常陸殿が……?」

「姫を連れて行ってしまったのですよ。物忌なのでそれが済むまでなどと言われてましたけど……物忌なんて……そんな……」

 薫も深くため息をついた。状況からいって仕方のない成りゆきではあった。だが自分のせいなら自業自得だが、自分とは関係のないことでそのようなことになってしまったのだからどうにもあきらめがつかない。

 それにしても、またか……と、薫は思っていた。いつもこうなのである。所詮はこうなる運命かと思うと、自分が哀れにもなる。せっかく意を決して行動を起こした矢先の結果がこれである。

 しかもだれが悪いでもなく、だれのせいでもない。

 こうなるとかえって愉快にさえなって、薫は苦笑した。だが、それでも最後の望みをかけることだけは忘れなかった。

「姫君はどちらへ? 元のお屋敷に戻られたのですか?」

「さあ、それが、私にも分かりませんでしてよ。見当もつきません」

 これで、最後の望みも砕かれたことになる。この日はそれで退散するしかなかった。

 三条邸に帰宅後に、薫は童を使って前常陸介の屋敷を探らせた。だが、姫君はそこには戻っていないようであった。よしんば戻っていたにせよ、受領階級の屋敷に薫のような身分のものが忍んで行けるはずもない。

 縁がなかったのか……そう思いつつ、なすすべもなく時間だけが過ぎていった。

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